京都奇譚《六道の辻》山梨良平

小野篁(おののたかむら)

京の都は平安に時代から華やかな王朝の生活を忍ばせる物語が多く残っている。そしてそれは王朝文学として貴族の生活を私たちに垣間見させてくれている。
竹取物語、源氏物語や枕草子、伊勢物語などが有名だ。多くは王朝貴族の恋の物語でもある。余談だが筆者の高校時代、こんな戯れ歌が流行っていた。

♪ 光源氏の夜遊びをいみじゅうおかしというけれど
おいらにゃいみじゅうわからない 嫌な古典をやめちまえ

ところで同じ京の都には王朝文学からは程遠い世界もあった。例えば化野(あだしの)という地名。「西の化野」、「東の鳥辺野(とりべの)」、「北の蓮台野(れんだいの)」を京の三大葬地という。平安の昔から庶民の葬送は風葬が多かった。京都では帷子辻 (かたびらがつじ)、化野(あだしの)、鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)が、古来の葬送の地、風葬の地であった。 風葬とは遺体を埋葬せず、空気中に晒して自然に還す葬制を言う。遺体をこの四大葬地に運び込むだけだった。後は鳥がついばみ、風に晒すだけであった。余談だが風葬は日本(琉球を含む)だけではなくインドネシアなどでも広く行われていた。

この三大葬地のひとつに鳥辺野があることは先に述べた。鳥辺野に近い京都市東山区松原通大和大路あたりに「六道の辻」というところがある。六道とは地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上を指す。この辻は、この六道へ通じる道の分かれる所の意で,東山区松原の珍皇寺という寺の門前のことを指す。この珍皇寺には恐ろしくも不思議な言い伝えがある。それは小野篁(おののたかむら)という公卿の話である。篁は昼間は朝廷に詰め、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説が『江談抄』、『今昔物語集』、『元亨釈書』といった平安時代末期から鎌倉時代にかけての説話集に紹介され、これらを典拠にして後世の『本朝列仙伝』(田中玄順・編、1867年・刊)など多くの書籍で「冥官・小野篁」が紹介されている。

いったいいつ寝るのかと他人事ながら心配になる。冥府へは珍皇寺の境内にある井戸から出入りしたらしい。もちろんその井戸は空井戸で今も同寺の境内に残っている。

また珍皇寺の門から少し西に向かった所に「幽霊子育飴(ゆうれいこそだてあめ)」という飴を売っている「みなとや」という飴屋がある(写真)。つまり京の葬送の地のひとつである鳥辺野の入口にあたる場所にあたる。「幽霊子育飴」に添えられた由来によれば、1599年(慶長4年)に、ある女性が亡くなり埋葬され、数日後にその土の中から子どもの泣き声が聞こえてきたので掘り返すと、亡くなった女性が産んだ子どもであった。ちょうどそのころ、毎夜飴を買いに来る女性があったが、子どもが墓から助けられたあとは買いに来なくなったので、この飴は「幽霊子育ての飴」と呼ばれるようになった。その時助けられた子どもは8歳で出家し高僧となったとのことである。

小野篁と言い、幽霊の子育てと言い、なんとも不思議な話である。京都には「このような話」がまだまだありそうだ。何しろ1200年もの歴史がある。この間多くの人の怨念が町のあちこちに渦巻いているかもしれない。
※お断り:「忌憚」という文字を意味が違いますので本来の「奇譚」と書き換えます。