とりとめのない話《朝東風と夕西南風》中川 眞須良

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昔の話である。
兵庫県津名郡津名町塩尾(現在 洲本市)に住む一人の元漁師の長老(Tさん)とある少年(マー坊)との会話。

T:ん?、、、、おまはん 見かけん顔やな?どこの子や。
M: 家 あそこ!

T:あそこって、、? いせや(伊勢家)はん とこの子か?
M: N(名字) です。

T:・・・と言うことは いせやの三男坊か 父ちゃん Gさんや なあ? そうかわかった、ほんで何の用や?
M: おっちゃん、毎日一人でここ(堤防の上)に座って何してるん?

T:毎日?、、。おまはんとこからよう見える・・・
(ゆっくりと立ち上がりながら)
「あさごち ゆうにしまか」(朝はひがし風 夕方は西南風 か)・・・。
あしたもいけそうや(漁に出られそうや)。
ぼんっ!早よう 家(うち)へ帰りや。

少年:まー坊(私)が10才未満の頃、見知らぬ老人から聞いた言葉。何故かずっと耳に残っている。自分が古希を過ぎた今も風を求めてさまよい歩く病の感染源はこの言葉かも知れない。海沿いの小さな漁師町の住民は老若男女、風には敏感だ。と言うより風と共に生きてきた。
「漁師泣かすに策いらん 風の3日も吹けば良い」がそれを物語っている。

都会に移り住んだ少年マー坊 気候天気の変わり目毎、また台風接近時に両親 周囲から何度風の話を聞かされたことか。
関西の瀬戸内地方で呼ばれ続けられている風の名称、東風(コチ)だけを例にあげても「朝ゴチ」「宵ゴチ」「寒ゴチ」「夜ゴチ」「冬ゴチ」「落ちゴチ(天候悪化)」「セリゴチ(台風接近の強い東風)」「いなりゴチ(4月の東風)」などなど。

また西に地域を広げるなら「雨コチ」「荒コチ」「強ゴチ」「梅ゴチ」「桜ゴチ」「鰆ゴチ」など。更に別方向からの風に、地方、季節、天候等をプラスすれば風の名称の数は無数だ。

毎年 スギ花粉の飛び始める三月初旬 必ず訪れる事にしている場所がある。その場所であのときの風 私を追い越して行ったあのコチに会いたいがために。しかし東風が吹けどもなにかの臭いと気配を含んだあのときのコチには未だ出会えていない。

その場所は東方向へわずかに上りの街道沿いの狭い三叉路、お地蔵さんが祀られ、すぐそばの古びた石の道標に「是より高野山女人堂へ十二里」と彫られ、くたびれた文字はこの時期低い夕陽に浮かび上がる。

人は風と暮らす。

東風吹くや 耳あらはるる うなゐ髪    杉田 久女

編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 02》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

神社前の狭い広場で激突?

阪急石橋阪大前駅の阪大側改札口付近
デモ隊と警察が衝突した須佐之男命神社

1月末、私は吹田事件の現場を訪ねた。すでに述べたように、阪大グラウンドでの集会の後、デモ隊は二手にわかれている。人民電車部隊コースをとった一団は阪急石橋(現石橋阪大前)駅に向かい、上りホームで気勢をあげ、人民電車の発車を要求、臨時電車で大阪方面に向かったという。
その現場である石橋阪大前駅上りホーム。私が自宅から大阪に行く際に利用する阪急電車はこの駅を通る。同駅から阪大に通じる商店街にある鍼灸院に何度か通ったことがあり、この駅は知り尽くしている。上りホームは箕面線ホームとの分岐点にもなっていて、そこに改札口が設けられている。改札口辺りは事件のとき、現在と同様、比較的広いスペースがあったであろう。おそらくそこでデモ隊は団子状になり、勢いあまって「人民電車を出せ」と要求したのであろう。 “編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 02》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 01》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

――朝鮮戦争の軍需列車阻止の闘い――

『朝鮮戦争に「参戦」した日本』の表紙

1950年に始まった朝鮮戦争の休戦協定が成立して今年で70年になる。あくまで休戦であって戦争が終わったわけではない。2018年6月と19年2月、アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩最高指導者の間で米朝首脳会談が行われたが、何ら進展はなかった。むしろ双方の緊張状態は一層深刻化、さながら米朝冷戦真っただ中の様相である。もし朝鮮半島が有事になればどうなるか。朝鮮戦争では、武器や爆弾を運ぶ軍需物資輸送網が日本中にしかれた。戦争を止めるためは輸送ルートを食い止めるしかない――という実験のような事件が実際にあった。吹田事件である。我が国周辺の緊張が高まるなか、反戦運動のためにどこまで体をはれるのか。それが知りたくて吹田事件の現場をたずねた。 “編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 01》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

神宿る。《京阪電鉄萱島駅の楠》片山通夫

1972(昭和47)年、京阪電鉄は高架複々線工事に着手、萱島神社のあった場所にホームが移動することになった。クスノキは伐採される予定だったが、住民運動が起きて保存されることになった。この際も、「ご神木を切れば災いが起きるかもしれない」などとの噂が立った。

京阪電鉄は、近隣住民の意を汲んでかホームをぶち抜いた形で件の楠を残した。樹齢700年と推察される楠は写真のようにガラスにおおわれてホームを貫いている。「御霊信仰(ごりょうしんこう)」という信仰がある。御霊信仰とは、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の土着の信仰のことである。
この楠に対しての信仰がそうなのかはわからないが、少なくとも萱島駅周辺の人々は「切ると祟りがある(かも知れない)」と残すよう動いた。

ホームの下には萱島神社がある。一帯は過去には開拓新田だったが、その鎮守として1787年に萱島開拓の祖神を祀ることとなり、宗源の宣旨により豊受大神・菅原道真が勧請・合祀された。明治時代には村社に列格し、「神名社」という社名であったことが1879年)¥(明治12年)の記録にあるが、1907年(明治40年)に一旦廃社となった。京阪電鉄の複々線化で伐採されることになったが、保存の声が高まり、京阪電鉄が神殿を造営・寄進し、1980年7月、「萱島神社」として再興された。

*菅原道真;忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めた。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神、受験の神として親しまれる。太宰府天満宮の御墓所の上に本殿が造営されている。(ウイキペディアより)

3・11特集 原発を考える《脱原発への5アンペア暮らし#2》文 井上脩身

エアコンを使わない生活に

箒で掃除をする斎藤氏(ウィキペデアより)

2012年7月、斎藤さんの5アンペア暮らしが始まった。それまで40アンペアで生活していた斎藤さんにとって、いきなりの電気8分の1ライフである。その気持ちを、バットの振り方も知らない者がプロ野球の打席に立って試合に臨むようなもの、と斎藤さんはたとえる。

5アンペアで一度に使えるのは500ワットまでだ。洗濯機や冷蔵庫を使ってもブレーカーは落ちないか、などとそのつど不安にかられる暗中模索の新生活であった。福島では線量計を持ち歩いて被ばく量を測っていた。そのときの「数字見える化」を応用すればいいと考え、消費電力測定器を購入した。家電のプラグを測定器に差し込むだけで何アンペアの電流がながれているかが分かる計器だ。

まず扇風機を測った。風量「弱」では0・3アンペア、強風で0・6アンペア。エアコンの15分の1から30分の1しか電気を消費しないことがわかった。ついで全自動洗濯機。「洗い」「すすぎ」「脱水」という一連の流れのなかでアンペアは0・8→1・6→0・0→1・2→0・6→1・8と目まぐるしく変動した。冷蔵庫は測定器をセットした段階では0・8アンペア。とびらを開けると1・6アンペアと2倍に。「冷蔵庫の開閉は短時間に」との省エネ教科書記載通りの結果だった。

こうした見える化によって、冷蔵庫を開閉しなければ、洗濯機を4アンペア使ったうえ、さらに照明も可能であることが判明。扇風機を「強」の0・6アンペアで動かしても、2・6アンペアのテレビを見ることができる。しかしテレビをつけたまま洗濯機を動かすと7アンペアを超えるので、同時には使えないこともわかった。

こうしてアンペアデータを得たことによって、10アンペアになるエアコンの使用をやめた。電子レンジ(10アンペア)、トースター(同)、5合炊き炊飯器(13アンペア)、ドライヤー(10アンペア)、たこ焼き器(8アンペア)、掃除機(強10アンペア、弱5アンペア)なども使うのをやめた。条件付きで使うことにしたのは42型液晶テレビ(2・6アンペア)、320リットル冷蔵庫(0・8~2アンペア)。今まで通り使うのは乾燥機能のない洗濯機(0・8~4アンペア)、蛍光灯(0・5アンペア)、ノートパソコン(0・2~1アンペア)。

これまで使ってきた家電を使わないとなると、暮らしの在りかたを変えねばならない。夏、浴室でシャワーを浴びた後、体をあまり拭かずに扇風機にあたると、水滴が蒸発して体温を奪い、心地よい涼しさを感じることができた。「エアコンで得られない至福の時間がもたらされた」と斎藤さん。掃除機に代えたのが箒。舞いあがるホコリを防ぐために、濡らした新聞紙を小さく切って部屋にばらまいてから掃くという、昔ながらのやり方をはじめた。電子レンジに代えて金属製の蒸し器を使用。電気炊飯器に代えて鍋で炊くと、炊飯器よりもおいしく炊けた。

こうした5アンペア暮らしによって、7月18日から30日間の使用量は59キロワット時、電気料金1208円。福島にいた前年の同じ月は133キロワット時なので56%減少した。冷蔵庫を使わなかった11月の使用量は11キロワット時、電気料金は285円。1年前に比べ86%も減った。

太陽光発電でテレビ見る

斎藤氏宅の太陽光発電装置(ウィキペデアより)

5アンペア暮らしが軌道にのった2013年9月、今度は名古屋に転勤になった。南にバルコニーとベランダがある2階建ての一軒家を借りた。同年12月の電気使用量が2キロワット時にまで減少したのを機に、斎藤さんは太陽光発電所の建設に着手した。

現在普及している太陽光発電は、電力会社の電線とつないで、発電した分を電力会社が買い取る方式だが、斎藤さんが目指したのは独立型太陽光発電。自分がつくる電気を自分で使う自産自消電力だ。5アンペア暮らしなのだからソーラーパネルは1枚でまかなえると考え、ネットショップで約3万3000円の50ワットセットを注文。自分で組み立てて室内に設置した。太陽にパネルを向けると発電ランプが点灯し、独立太陽光発電所が稼働をはじめた。斎藤さんは「健康第一電力」と命名。後にベランダにパネルを取り付けた。(写真上)

斎藤さんの計算では、1日に3時間太陽が当たるとすれば、発電量は150キロワット時。50ワットのテレビなら1日に3時間は見ることができる。1カ月のうち20日間発電できれば、3キロワット時になり、斎藤家の使用電力をほぼまかなえるという。

考えてみれば、テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の三種の神器が登場する以前の昭和30年代初めまで、ほとんどの日本の家庭では、電気製品といえば電灯と扇風機、アイロンしかなかった。5アンペア暮らしは当たり前だったのである。

高度経済成長期以前の暮らしに戻ることは現実には不可能であろう。大半の人にとって5アンペア生活はムリだとしても、斎藤さんの試みは、電気浪費時代の今、大いに注目されてしかるべきだ。私の極めて大雑把な提案だが、一人の基準を10アンペアとし、家族が一人増えるごとに5アンペア分プラスできることにしてはどうか。夫婦二人なら15アンペア、4人暮らしなら25アンペアになる。これならそうムリせずに暮らせるはずだ。強制すべきでないことは言うまでもないが、国民すべてがそうした気持ちをもてば、「原発は要らない」が国民世論になるにちがいない。(完)

3・11特集 原発を考える《脱原発への5アンペア暮らし#1》文 井上脩身

斎藤健一郎氏(ウィキペデアより)

 福島県で原発事故に遭遇したのを機に、わずか5アンペアでの暮らしをはじめた新聞記者がいる、と聞いた。調べてみると、朝日新聞の斎藤健一郎記者。『5アンペア生活をやってみた』(岩波ジュニア新書)を著しており、さっそく読んだ。震災の半年後、東京に異動。街はこうこうと明かりがともり、無用な電力が消費されている。「原発に頼らない暮らしをするためには、徹底した節電しかない」と、電力会社との最低電力契約である5アンペアに切り替えたという。岸田文雄首相が原発の新増設を進めようとしているなか、「原発反対」を口にするだけでは政府の原発路線を食い止めることはでない。斎藤さんの取り組みは、反原発運動の在り方に一石を投じる実験といえるだろう。

合格発表場に放射能入りの雪
東日本大震災が発生した2011年3月11日、朝日新聞の郡山支局員だった斎藤さんは同市内の自宅にいた。2階建ての木造住宅の窓枠が大きくたわみ、地震体験装置に放り込まれたような揺れを感じた。住宅は半壊と認定された。JR郡山駅前に向かったあと、白河市内で起きた大規模地滑り現場へ走った。10棟が泥の下になり、幼児を含む13人が犠牲になった。通信状況が悪い中、何とか送稿できたが、記事は掲載されなかった。原発事故という、わが国未曾有の事態に立ち至ったからだ。

 地震発生から5日後、斉藤さんは白河市内の高校で合格発表を待つ受験生を取材。そのとき、雪が横殴りに吹き付けてきた。男子受験生が「これ、死の雪じゃねえ? 放射能入りだろ?」とおどけた。その場にいた受験生たちの緊張がとけ、笑い声がおきた。斎藤さんも悪い冗談だとおもいながら、いっしょになって笑った。

 だが、笑いごとではなかった。事故を起こした福島第一原発から漏れだして風に乗った放射性物質が、西南に80キロ離れた白河市には15日から、合格発表があった16日にかけてふったのだ。普段は毎時0・05マイクロシーベルトしかない放射線量が、7マイクロシーベルトと140倍も跳ね上がっていた。「放射能入りの雪」は真実であった。「マスコミは何もしらせなかった」と批判されたが、斎藤さん自身、何も知らされず、受験生らとともに放射能を浴びたのだった。

 斎藤さんは白河から取材拠点を福島県の災害対策本部に移した。県庁横の県自治会館に急ごしらえで設けられた同本部では、東京電力をはじめ県や国の職員が24時間体制で事故情報の収集や県民の避難指示に当たっており、報道各社も24時間体制で張り付いていた。

3月18日、東電の常務が謝罪にきた。常務が「収束に向けて一丸となって作業を進めている」と述べてその場を立ち去ろうとしたとき、地元記者が「福島に希望があるのでしょうか?」と問いかけた。すると常務は表情を崩し、声をあげて泣きはじめた。斎藤さんは、ここにいるだれもが、東電幹部でさえ、事故をどう収束させたらいいのかわからないのだ、と思った。

 4月になって学校が始まると、子どもの被ばくをどう防ぐかが課題になった。校庭で剥がした汚染土の処理について郡山市が住民説明会を開くと、「校庭を汚したのは東電だろ」と、はげしい怒りの声があがった。健康被害が起きるのか、起きるとすれば何年後なのか。専門家の意見もまちまちで、福島県民のほとんどが大混乱に陥った。斎藤さんもそうした一人だった。

一番少ないアンペア契約

こうこうと明かりがともる東京の夜景(ウィキペデアより)

 震災から半年がたった2011年9月、斎藤さんは東京に転勤した。本社から5・9キロ先の渋谷区の低層鉄筋マンションに引っ越し、自転車で通勤した。震災直後は照明を落としていた東京の街は元の明るい都市にもどっていた。「ビルの上では広告塔が明滅し、窓という窓からは明かりが漏れ、世界はギラギラと昼間のように光っている」。斎藤さんはその明るさを著書のなかでこう表現した。

この首都はもう福島のことなんか忘れてしまったんだな、と思った斎藤さん。放射性物質を大量にまき散らした電力会社が売る電気のために、住む場所や財産を奪われた福島の犠牲を思い起こすと、これまでのように無邪気に電気を使う気になれなくなった。2012年6月、野田佳彦首相(当時)が「原発を再起動する」と発表。国会周辺には多くの人が集まり、再稼働反対を訴えた。しかし、そうした人たちのすぐ隣で、ネオンやビルは暗闇を恐れるかのように照り続けている。斎藤さんは東電との契約を解除し、電気を全く使わない暮らしをしてみたいと思った。

会社の同僚に相談すると、「記者なのにパソコンはどうする」などと鼻で笑われたが、女性記者が「5アンペア契約にしては」とアドバイスしてくれた。

調べてみると、東電をはじめ、北海道、東北、中部、北陸、九州の6電力会社は「契約アンペア制」を採用。契約アンペア数に応じて基本料金を設定するもので、契約アンペア数を下げる(アンペアダウン)と電気の使用量に関係なく基本料金が安くなる。

2012年時点の東電の一般的な契約の場合、60アンペアなら電気を一切使わなくとも毎月の基本料金は約1680円。40アンペアなら約1120円、10アンペアまで下げると280円になる。10アンペアだと、一度に使える電気は1000ワットまで。電子レンジを使うときの電気使用量とほぼ同じなので、電子レンジとエアコンを同時に使うと、ブレーカーは落ちる。その半分の5アンペアで暮らすのは容易なことではない。

『5アンペア生活をやってみた』の表紙

 斎藤さんが東電に電話し、「一番少ないアンペア契約をしたい」と告げたところ、「10アンペアになります」との答えが返ってきた。「5アンペアがあると聞いた」とたずねると、しばらく待たされた後、「5アンペア契約はたしかにある」と認めてくれた。ことほどさように、5アンペア契約は極めて珍しいケースであった。

 電話から9日後、東電の工事の男性が斎藤さんの住居にやってきて、全ての家電をチェックした。電子レンジを指さして「使えません」。エアコンやトースターも「だめ」。20代の若い係員が「どうしてここまで電気を減らそうと考えたのか」と尋ねたのに対し、「原発事故のとき福島にいた。だからもうあまり電気を使いたくないんです」と答えると、係員は「そうでしたか」と伏し目がちに新しいブレーカーに付け替えた。(この稿続く)

 

3・11特集 怒りを込めて振り返れ「地震、津波に原発事故」一之瀬明

福島県浪江町

あの東日本大震災は世界にとっても忘れられない大事件だった。最近になっても大きな地震は世界中とは言わないが起こっている。この瞬間(2月末日)にもトルコやシリアでは寒さに震えながら余震におびえている人々がいる。昔から「地震、雷、火事、おやじ」と言って恐れたものだ。調べてみたら江戸時代にはすでにそう言われていたとあった。
地震は、いつ起こるのかまったく予想ができないので、一番怖い。雷は落雷で火事や死亡事故を起こすので二番目に怖い。しかし天気読んで(農業者や漁業者、船乗りなど)、発生や雷雲の動きを予知できるところが二番目。火事は、消すことができるし、逃げることもできるので、三番目。最後に親父は、そこそこ気をつかっていけば、そんなに叱られないので、四番目に怖いというのがその説らしい。 “3・11特集 怒りを込めて振り返れ「地震、津波に原発事故」一之瀬明” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その93《日本の島の数》渡辺幸重

以前の地図(上)と最新の地図(下)=江の島の例

 本コラム(その85)で、日本の島を国土地理院の電子国土基本図で数え直した結果、15,528島であることがわかった、とお伝えしました。これは『新版 日本の島事典』の監修・編著者である長嶋俊介・鹿児島大学名誉教授(元日本島嶼学会会長)が「周囲0.1㎞以上の自然島+周囲0.1㎞未満の名前が付いた島」という基準で数えたものですが、国土地理院は2月28日、「電子国土基本図を基に我が国の島を一定の条件のもと数えた結果、14,125島となった」と発表しました。これまで国の公式数値は海上保安庁が1987(昭和62)年に公表した「6,852島」でしたが、これで日本の島の数は公式にも1万島を超えたことになります。これは測量技術の進歩により地図で詳細に陸地が表現されるようになったため以前はなかった小さな島や岩が地図の上で数えられるようになったことを反映しています。

 国土地理院の“一定の条件”とは「法令等に基づく島のほか、地図に描画された陸地のうち自然に形成されたと判断した周囲長0.1km以上の陸地を対象とした」ということです。法令等とは離島振興法や有人国境離島法などのことで、有人国境離島法には周囲長0.1km未満の島嶼も含まれています。なお、湖沼等内水面にある陸地は含まれません。従って、国公式版と『島事典』版の数の違いは、後者が周囲長0.1km未満の陸地で法令等に基づかない名前付きの無人島を入れた分だけ多くなるということになります。ちなみにすべての島嶼となると、国公式版は「電子国土基本図に描画された全ての陸地は120,729(令和41月時点)」とし、島事典版は「名前のない周囲0.1㎞未満の岩礁や人工島も含めたすべての島・岩礁を地図データから拾うと114,886」としています。ただし、国土地理院が「自然の地形である島は、ある時点での我が国の国土の一面を表したものであり、地殻変動等や計数時点での測量技術の進歩の影響を受けうる」というように、島の数は絶えず変化します。

 島の数を都道府県別にみると多い順に、長崎県1,479(『島事典』版では1,693)、北海道1,473(同1,585)、鹿児島県1,256(同1,415)、岩手県861(同947)、沖縄県691 (同728)、宮城県666(同733)となっています。

びえんと《鮮明になった松川事件でのアメリカの謀略 #3》文・Lapiz編集長 井上脩身

写真特集 びえんと《鮮明になった松川事件でのアメリカの謀略