びえんと《鮮明になった松川事件でのアメリカの謀略 #2》文・Lapiz編集長 井上脩身

暗躍するアメリカ防諜部

検察がえがいた共産党の犯行というストーリーは雲散霧消と化したが、しかし事件そのものは現に発生し、3人が犠牲になった。では真犯人はだれか。

松本清張は『日本の黒い霧』(写真左)所収の「推理・松川事件」で、アメリカ軍政部が福島市に陣取っていたこと、福島CICが共産党対策に熱中していたこと、CIAが破壊活動班を鉄道補給路の鉄橋を爆破させた例があることなどを挙げて、GHQに疑惑の目を向ける。

吉原公一郎氏は諏訪メモのなかの以下の記述に注目する(『松川事件の真犯人』祥伝社文庫)。

6・30赤旗事件トカチ合ウ 11日カラ10名位
地警→警備係長→応援者 根拠地→原
民政部→労務課(野地通訳)
CIC→tel 1360→加藤通訳
連絡者→<松川デス 頼ミマス>20分
労政課→野地課長 or 高原
C・Cor
 30名地警カラ来ルノハ最大限

吉原氏は次のように解釈できるという。

「国家警察福島本部への連絡は、警備課長(あるいは次席)にすること。11日からはそこから10名の応援が来ている。福島地区警察への連絡は警備係長にすること。根拠地とあるのは、ここに連絡すれば、東芝労組弾圧にすぐにも乗り出せる警備配置ができているということであろう」。メモをこのように捉えたうえで、吉原氏は「驚くべきことに、アメリカ民政部労政課やCIC(防諜部)などとも密接な連絡体制ができていた」といい、<松川デス 頼ミマス>は「すべてが了解され動きだせることになっていることを意味する」とみる。

 CICはアメリカ陸軍情報部下の諜報機関だ。このメモは、東芝松川工場の労働組合対策のため、CICと警察が密接に連絡を取り合っていたことを示しているのである。

 松川事件の捜査の指揮をしていたのは福島県警察本部の玉川正捜査課次席(警視)。吉原氏は事故発生から30分余りしかたっていない3時40~50分ごろ現場に到着したと推測。玉川警視は捜査員より早く現場に到着し、次席自ら現場検証をしたことになり、捜査の通例からみて明らかに異常。福島CICから東芝松川工場まで20分で行けることなどから、吉原氏は玉川警視が福島CICと一緒に現場に向かったとみる。

  福島CICはどのような組織であったのか。大野達三氏の著書『松川事件の犯人を追って』(新日本出版)によると、1949年時点では福島CICはアンドリュース少佐を隊長に約30人で編成。東という姓の兄弟の準尉やジム・藤田という日系人のほか、ジョセフ・マッサーロという飯坂温泉に住んでいた者がいた。諏訪メモに記されている「加藤通訳」はジョージ・加藤と思われる。

 大野氏は「軍政部の労組対策は、GHQの方針に従い労働組合から共産党などの勢力を一掃することにあり、国鉄、東芝などの共産党員のリストづくりから始められた」と分析、「CICの労働組合係は軍政部の労組対策と歩調を合わせていた」という。諏訪メモはこれを明白に裏付けている。

 ところで、事件の夜、呉服店の蔵破りを試みて失敗した二人の男性が、事件現場近くで9人の男とすれちがっている。この9人はいずれも背が高く、実行犯である可能性が高い。そのうちの一人が「イイザカ温泉はどの方向か」などと話していたと公判で証言しており、飯坂温泉のジョセフ・マッサーロのところに向かったとみるのが自然だろう。

レール切り取り実験
 2010年8月30日に開かれた交通政策審議会陸上交通分科会鉄道部会中央新幹線小委員会の会合で、井口雅一・東大名誉教授(機械工学)が「鉄道の弱みは脱線」と2004年に起きた中越地震による新幹線の脱線などのスライドを映して事例報告をし、「カーブでなければ慣性の法則によって列車は基本的にまっすぐ走るので少しのことでは転覆まではいかない」と述べた。このあと井口氏は注目すべき発言をした。「アメリカ軍が戦時中の鉄道破壊工作の実験をした記録の動画がある」というのである。
動画をネットで検索したが、見られないよう手を加えられていた。井口氏の解説で想像するしかない。井口氏によると、その実験はレールの一部を切り取ってしまうという荒っぽいもので、「約1メートル程度欠損した状態では機関車の先頭の車輪は脱線しているが、他は無事。車輪一つ破損した程度ではいきなり脱線しないという印象」という。
分科会の名称からも分かる通り、井口氏は松川事件の解明のために語ったわけではもうとうないが、大いに参考になる発言である。事件現場はカーブであった。カーブでなければ簡単に脱線、まして転覆までいかないことは実験で証明済みだったのである。長さ25メートルのレール1本がまるまる外されていたのは、実験で得たデータに基づいたためとみることができであろう。GHQの謀略とみる立場からは有力な傍証であることはいうまでもない。

線路破壊事件といえば、その多くが爆破によるものである。

1928年6月4日、中国の軍閥の指導者・張作霖が乗る特別列車が奉天近郊の立体交差点にさしかかったところ、南満州鉄道(満鉄)の橋脚に仕掛けられた火薬が爆発、列車は大破、張作霖は死亡した。関東軍は国民革命軍の仕業に見せかけ、これを口実に南満州に侵攻。関東軍が行った暗殺事件とわかり、「張作霖爆殺事件」とよばれる。1931年、やはり奉天近郊の柳条湖付近で関東軍が満鉄の線路を爆破、中国軍の犯行と発表した。柳条湖事件と呼ばれるこの鉄道爆破事件が満州事変の発端となり、15年戦争につながった。日本の中国・満州侵略は鉄道爆破によって始まったといっても過言ではない。

2022年2月に始まったウクライナ戦争で、10月24日、ベラルーシとの国境に近いロシア西部ブリャンスク州で線路が爆発した。英国防相はロシア国内の反戦団体が犯行を表明したと述べた。

西部劇でもダイナマイトで爆破するシーンが少なくない。スペイン内戦を描いたヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』もクライマックスは鉄橋爆破だ。鉄道破壊には爆破が手っ取り早いのである。

このようにみると、線路を外すという手の込んだ犯行は、実験を重ねたアメリカ軍の得意分野と言えるだろう。では事件はGHQの自作自演であったのだろうか。

松川事件3カ月前の1949年5月9日午前4時23分、愛媛県北条町の国鉄予讃線、浅海―北条間で、高松桟橋発宇和島行き準急列車が脱線、機関助手ら3人が即死した。現場はカーブで、継ぎ目板が2カ所で4枚はずされ、レールが75ミリ、海側にずれた形で外されていた。「予讃線事件」と呼ばれ、警察は「共産党員」と称する21歳の男性を逮捕。男性は共犯者3人の名前を挙げて犯行を自供したが、共犯者のアリバイが証明され、男性もシロと判明、迷宮入りとなった。
予讃線事件は列車脱線の態様、その後の捜査状況ともに松川事件とうりふたつである。アリバイが証明されなかったら、松川事件にならぶ冤罪事件になったに相違ない。それはともかく、レールを外すという手口から、米軍の鉄道破壊実験を想起しないわけにはいかない。予讃線事件と松川事件をセットにして解明の努力がなされていたら、その裏に潜む共通の組織体が浮かび出たかもしれない。

99歳で亡くなった阿部市次さんは松川事件の20人の元被告のうち、最後の生存者だった。福島県の地方紙『福島民友』の電子版によると、無罪が確定したあと、阿部さんは冤罪のない社会の実現に向けて語り部活動を行い、取り調べや裁判での経験を語りつづけたという。阿部さんは事件の裏でうごめく米軍の影をどう感じていたのだろう。

不条理にも「脱線転覆殺人犯」の汚名を着せられて被告席に立たされた20人の無辜の人たち。全員が帰らぬ人となった今なお、事件の真相は深い闇の底に沈んだままである。(明日に続く)

びえんと《鮮明になった松川事件でのアメリカの謀略 #1》文・Lapiz編集長 井上脩身

~浮かび上がる米軍の鉄道破壊実験~

阿部市次氏(ウィキペデアより)

新聞の片隅に載った死亡記事に目を奪われた。見出しは「松川事件元被告」。阿部市次さん(99)が老衰のため死去したと報じている。2022年11月29日付の毎日新聞である。松川事件は私が最も関心をもつ冤罪事件の一つだ。事件が起きたのは戦後の混乱期の1949年8月。以来74年。松本清張の『日本の黒い霧』(文藝春秋)を読み返した。「アメリカ占領軍の幻影がつきまとっている」と清張はいう。そこで今回、私がネットで検索したところ、戦時中、米軍が鉄道破壊実験を行ったことを知った。事件はアメリカの何らかの謀略である可能性が一層高まった。

アリバイが証明された諏訪メモ

松川事件で脱線転覆した機関車(ウィキペデアより)

阿部さんの死亡記事は次のように記されている。
1949年に福島県松川町(現福島市)で旧国鉄列車の脱線転覆により乗務員3人が死亡した「松川事件」で逮捕・起訴された20人の1人。1審判決で死刑、2審で無期懲役を言い渡されたが、関係者のアリバイを示すメモを検事が保管している事実を毎日新聞が報道。63年に最高裁で無罪が確定した。
この記事にあるように、1949年8月17日午前3時9分ごろ、青森発上野行き旅客列車が福島県金谷川村(現福島市松川町金沢)を通過中、脱線。先頭の蒸気機関車が転覆し、荷物車2両、郵便車1両、客車1両も脱線、機関車の乗務員3人が死亡した。現場は松川駅―金谷川駅間のカーブの入り口付近。現場検証の結果、線路の継ぎ目板のボルト・ナットが緩められ、継ぎ目板が外されていた。さらにレール1本(長さ25メートル、重さ925キロ)が外され、13メートル移動されていた。
事件の翌日、増田甲子七・官房長官が「(三鷹事件などと)思想底流において同じもの」との談話を発表した。三鷹事件は約1カ月前の7月15日午後9時20分ごろ、東京・三鷹市の国鉄三鷹電車区で停止していた無人電車が突然走りだし、猛スピードで約800メートル先の三鷹駅停止線を突破、約40メートル先の民家の軒先を壊したうえアパート玄関先でようやく止まった。同駅にいた人ら6人が即死、13人が重軽傷を負った。
国鉄が6月1日に施行された定員法により、7月4日、3万600人の第一次人員整理を通告した翌5日、下山定則・初代総裁が轢死体となって発見された下山事件が発生。7月12日に第二次整理として6万3000人に解雇通達が行われた3日後に三鷹事件が起きたことから、東京地検と国家警察本部は国労三鷹電車区分会長をはじめ10人を逮捕した。このうち9人が共産党員だった。
増田談話は松川事件も共産党の犯行との予断をあからさまにしたものだが、この予断のもとに、当時大量人員整理に反対していた東芝松川工場労働組合と国労の共同謀議による犯行とみて捜査。事件から24日後の9月10日、別件で逮捕した赤間勝美・元線路工の自白を突破口として国労側10人、東芝労組側10人を次々に逮捕した。赤間元線路工を除く国労の9人は、福島分会書記の阿部さんを含めて共産党員。東芝労組も8人が同党員だった。
1950年、福島地裁は被告20人全員を有罪(うち阿部さんら5人を死刑)、53年、仙台高裁は17人を有罪(うち4人が死刑)、3人が無罪になった。最高裁に上告されたのち、東芝松川工場の諏訪親一郎・事務課長代理が労使交渉などの際に記録したノートを検察に提出していたことを、毎日新聞福島支局の倉島康記者が特報。この記録によって一、二審で死刑判決を受けた東芝松川労組執行委員だった佐藤一被告のアリバイが証明された。これにより共同謀議がなかったことも判明、全員の無罪が確定した。
冤罪としての同事件は「赤間自白」に始まり、「諏訪メモ」で終わるといわれるゆえんである。(この項続く)

 

Lapiz2023春号《巻頭言》Lapiz編集長・井上脩身

 詩人の金時鐘(キム・シジョン)さんと評論家、佐高信さんの対談集『「在日」を生きる ――ある詩人の闘争史』(集英社新書)を読んでいて、「エッ!」と、思わず声を発した記述がありました。日本語の「いいえ」という言葉について、金さんは「全否定ではない」というのです。私たち日本人にとって「いいえ」は英語の「No」です。しかし金さんからみれば、「No」のような「No」でないようなどっちつかずの言葉なのです。「いいえ」という言い方に、議論を避けたがる日本人の曖昧体質が表れているのでしょうか。私は考えこみました。

金時鐘(キム・シジョン)さん

対談のテーマは多岐にわたっていて、「サムライは日本人の根深い郷愁」などと、日本人に関する金さんの興味深い発言が髄所に出ています。中でも私が引き込まれたのが「いいえ」についてでした。佐高さんが「時鐘さんは″いいえ″という言葉を特殊、日本的なものだとおっしゃってますね」と問いかけたのに対し、金さんは「柔らかくいなしてしまうとこがあるんじゃないでしょうか」と受け、次のように語ります。
朝鮮語は英語と同じで、「である」か、「でない」しかない。ところが、日本語の「いいえ」は中間的な打ち消し。「いいえ」は「そうではない」という言い切りでなく、全否定しないという感じ。そこに日本人の、行き渡った生活の知恵みたいなものを感じる。
佐高さんが「日本人はイエスかノーかはっきりしないから、そこを改めよとよくいわれます。私の大雑把な感覚からすると、″いいえ″も否定のように見えるんですが」と、多くの日本人が持つ感想を述べます。すると金さんは「″いいえ″は相手の言い分を根柢から否定する感じがなくて、打ち消しが柔らかいんです。朝鮮語なら、″違う″という」と、朝鮮語とのちがいを強調しました。
金さんは1929年、日本の植民地だった朝鮮の釜山に生まれました。当時の釜山の国民学校は皇国史観で貫かれており、金さんは熱烈な皇国少年として育ちました。対談のなかで国民学校での一つのエピソードを次のように紹介しています。
朝礼前、運動場に出ていた校長が、落ちていた縄跳びの荒縄の切れ端を指さし、「お前が落としたんだろう」と言った。金少年が「いいえ」と言えず、「違います」と答えると、激しいビンタをくらった。そのとき、金少年は「いいえ」という言葉が骨身にしみた。 “Lapiz2023春号《巻頭言》Lapiz編集長・井上脩身” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その92《五島崩れ》渡辺幸重

世界文化遺産登録を記念して制作された芝居「五島崩れ」のポスター

明治新政府は神道を国教とし、維新後も江戸幕府と同じようにキリシタン禁制を続け、キリシタンを弾圧しました。「信徒発見」後、次々にキリスト教(カトリック)の信仰を表明した各地のキリシタンを捕らえ、拷問を加えて改宗を迫ったことで多くの人々が犠牲になったのです。五島列島(長崎県)におけるキリシタン弾圧事件は「五島崩れ」と呼ばれ、数年にわたって激しい弾圧が続きました。それは1868(明治元)年に久賀(ひさか)島の信徒たちが捕らえられたことに始まりました。これは特に「牢屋の窄(さこ)事件」と呼ばれています。
五島列島は江戸時代にたびたび飢饉に苦しんだため五島藩(福江藩)は生産力向上を図って1797(寛政9)年に大村藩と協定を結び、移民政策を進めました。長崎・外海(そとめ)地区からは多くの農民が海を渡り、全体では3,000人以上にのぼりますが、そのほとんどは潜伏キリシタンだったといわれます。
牢屋の窄事件では幼児や老人を含む信徒約200人が捕らえられ、12畳ほどの狭い牢を中央の厚い壁で男女別に区切られた空間に8ヶ月間押し込められました。畳1枚あたり17人という狭い中で信徒は横にもなれず、その場で排泄するという悲惨な状況だったといいます。一日にひと切れの芋しか与えられず、極寒の海に漬けたり炭火を手のひらに置いたりする厳しい拷問によって出牢後の死者3人を加え42人の犠牲者が出ました。プチジャン神父は1868(明治元)年末にこの弾圧事件をパリの神学校長ルッセイ神父に書簡で報告しています。現在、殉教の場所には牢屋の窄殉教記念教会が建てられ、碑には「十三歳のドミニカたせはウジに腹部を食い破られて死亡した」などと殉教者の様子が記されています。また、毎年秋には五島内外の信徒や巡礼者によって牢屋の窄殉教祭が執り行われます。
五島崩れは五島列島全体に及び、久賀島以外でも福江島、姫島、有福島、若松島、中通島、頭ヶ島(かしらがしま)、野崎島などで激しい弾圧が行われました。姫島では18人が捕らえられて福江島・水ノ浦の牢で、頭ヶ島では31人が捕らえられて中通島の有川の牢で、野崎島・野首、若松島・瀬戸脇の約50人は小値賀島の牢で拷問を受けました。五島の住民によるキリシタンへのリンチ(私刑)もあり、中通島・曽根では柱に縛り付けられて殴られたり、隠れ小屋に火をつけられたり、家財道具や衣類、食物などが奪われたりしたそうです。若松島では五島崩れから逃れたキリシタンが断崖の洞窟“キリシタンワンド”に隠れ住み、頭ヶ島や中通島・福見の信徒は外海(そとめ)(現長崎市)や黒島(現佐世保市)などに移り住む逃亡生活を送りました。
頭ヶ島天主堂(国指定重要文化財)は2018(平成30)年7月に「頭ヶ島の集落」の一部としてユネスコの世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されています。

連載コラム・日本の島できごと事典 その91《浦上四番崩れ》渡辺幸重

鶴島での野外ミサ(2022年鶴島巡礼報告より)

1865(元治2)年の「信徒発見」のあと潜伏していたキリシタンが次々にカトリックに復帰するようになり、2年後の1867(慶応3)年には長崎・浦上村のキリシタンは葬式をそれまでの仏式からキリスト教によって執り行うことにしました。それが長崎奉行所の取り調べるところとなり、信徒68人が激しい拷問を受ける事件に発展しました。改宗を迫られた浦上のキリシタンはこれを拒否しましたが、明治維新で権力を握った明治新政府は神道を国教として江戸幕府のキリスト教禁制を継承し、1868(慶応4/明治元)年に浦上の全信徒約3,400人を流罪としました。流刑地は津和野(島根県)をはじめ鹿児島、広島、岡山、金沢など約20藩に及ぶといわれ、そこでの過酷な拷問や重労働によって約600人が亡くなっています。この弾圧事件は「浦上四番崩れ(浦上教徒弾圧事件)」と呼ばれます。
日生 (ひなせ) 諸島に属し、瀬戸内海に浮かぶ鶴島(岡山県備前市)には1870(明治3)年に岡山を経て117人が流されました。岡山では約10ヶ月留められ拷問を受けたといいます。鶴島では開拓に従事させられ、重労働と空腹との戦いの中で拷問を受け、半数以上が改宗させられました。1873(明治6)年の明治政府のキリスト教禁制撤廃までの2年半に18人が命を落としています。
浦上四番崩れに対しては神父たちや諸外国からの激しい抗議があり、「信仰の自由を国民に与えない国は野蛮である」と諸外国から軽蔑されることが明治政府がめざす不平等条約撤廃に大きな支障となることからキリスト教禁制が撤廃されました。日本の宗教の自由は宗教弾圧の歴史の上に勝ち取られたものなのです(明治政府がキリスト教の活動を公式に認めるのは1899(明治32)年の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」以降になります)。鶴島で信仰を守り通した岩永マキは禁制撤廃後、浦上に戻り、修道女として孤児養育などの活動を行い、それが長崎県内各地に広がって現在の「お告げのマリア修道会」につながっています。
鶴島は1990(平成2)年に無人島になりましたが、毎年カトリック岡山教会が主催する鶴島巡礼が行われ、昨年は52回目を数えました(2020年、2021年はコロナ禍のために非公開)。島内には殉教者碑や十字架が建立され、流された人たちを集めて神官の説教が行われた「改宗の祠」や当時使用された井戸も残っています。また、鶴島巡礼の際の野外ミサでは「鶴島哀歌」という潜伏キリシタンの歌が歌われます。
慰霊碑の碑文には次のような三好達治の詩が添えられています。カトリック中央協議会「カトリック情報ハンドブック2013」には「なぜか三好達治の詩が添えられている」とありますが、なぜだかわからないようです。

沖の小島の流人墓地
 おぐらき墓のむきむきに
 ともしき花の紅は
 だれが手向けし山つつじ

連載コラム・日本の島できごと事典 その90《信徒発見》渡辺幸重

信徒発見のレリーフ(大浦天主堂)

江戸幕府はキリスト教を禁止し、信者に対して激しい弾圧を行いました。そのため、信者は信仰を隠し、潜伏しました。明治新政府も禁教政策を継承し、諸外国の圧力などからキリスト教禁制の高札を撤去して実質的に禁教政策をやめたのは1873(明治6)年のことでした。この間、実に260年という気の遠くなるような長い潜伏と弾圧の歴史が流れました。
日仏修好通商条約締結(1858年)の翌年、長崎に居住するようになったフランス人のためにフランス寺と呼ばれる大浦天主堂(日本二十六聖人殉教者聖堂)が建てられました。1865年3月(元治2年2月)、大浦天主堂で画期的な“事件”が起きました。長崎・大浦村の潜伏キリシタン15人がサンタ・マリア像を見て「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)とプチジャン神父に信仰を告白したのです。これは「信徒発見」または「キリシタンの復活」と呼ばれています。このことは潜伏キリシタンの間に口伝えで広まり、みずからキリシタンであることを表明してカトリックに復帰する信徒が相次ぎました。信徒は「フランス寺の見学」と装って大浦天主堂に出向き、礼拝したり洗礼をうけたといいます。潜伏キリシタンは浦上だけでなく外海(そとめ)・平戸・五島など各地にキリシタンが潜伏していることがわかり、神父らは密かに布教して回りました。
平戸諸島に属する黒島(現佐世保市)では、信徒発見の2ヵ月後、島の指導者・出口大吉らが大浦天主堂に赴いて600人の信者がいると告げ、その後に正式に全員がカトリックに復帰しました。現在は陸続きになっている神ノ島(現長崎市)でも島の水方(洗礼役の指導者)を務める西政吉らが島の潜伏キリシタンをカトリックに復帰させています。
黒島は佐世保港の西約16kmに位置する面積4.6平方キロメートルの島で、1803(享保3)年に平戸藩の牧場が廃止され、大規模な田畑の開墾が始まると西彼杵半島の外海地方や生月(いきつき)島、五島などからキリシタンが移住してきました。潜伏キリシタンは仏教徒を装い、観音菩薩立像を聖母マリア像に見立てた「マリア観音」を安置するなどしてひそかに信仰を維持したのです。1879(明治12)年に初代の黒島天主堂が建てられ、いまも島の住民の約8割がカトリック信者といわれます。
信徒発見は大喜びしたプチジャン神父によってフランス、ローマに報告され、日本のキリシタンが世界に知られることになりました。神父は1867(慶応3)年には日本信徒発見の記念式典を盛大に催したそうです。しかし、一方では信徒発見は明治政府による大弾圧事件「浦上四番崩れ」をもたらすことにもなりました。

連載コラム・日本の島できごと事典 その89《オオコウモリの島》渡辺幸重

エラブオオコウモリ(鹿児島県教育委員会)

実家の裏山に防空壕跡があり、その洞穴の中には小さなコウモリが棲んでいました。コウモリは鳥かごから抜け出るくらいの大きさしかいないと思っていたらカラスと同じくらいの大きさのオオコウモリがいると聞き、無性に見たくなりました。世界のオオコウモリ類の生息北限地とされる口之永良部島に行きましたが、頭胴長が約25cmあるというエラブオオコウモリに遭遇することはありませんでした。小笠原諸島や沖縄島、石垣島でもオオコウモリの姿を見ることができず、私はいまでも“あこがれのオオコウモリ”を追い求めています。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その89《オオコウモリの島》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その88《特務艦関東の遭難》渡辺幸重

座礁・沈没した特務艦関東(「海軍艦艇殉難史 関東」

今年1月10日昼頃、瀬戸内海の沖家室島(おきかむろじま:山口県周防大島町)の南約2.5km沖で海上自衛隊の護衛艦「いなづま」が座礁し、自力航行できなくなったという事故が報じられました。現場は岩礁が多い「センガイ瀬」と呼ばれる海域で、浅瀬を示す灯標も設置され目視可能な天候だったのに「なぜ?」と不思議がられています。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その88《特務艦関東の遭難》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その87《糸満海人(いとまんうみんちゅ)》渡辺幸重

海を渡る帆掛サバニ(写真提供:糸満帆掛サバニ振興会)

島を取り巻く海は魚介類を育て、島の生活を支える“豊穣の海”でもあります。海に乗り出す島の漁民は勇猛で、なかでも明治以降に遠く中部・南太平洋からアフリカ、南米にまで進出して追込漁を行った沖縄島・糸満の海人が有名です。

 沖縄戦の戦跡が集中することで知られる糸満地区は糸満海人の本拠地でもあり、今でも漁業が盛んで旧暦54日の祭りには勇壮な「糸満ハーレー(爬龍船競漕)」が行われます。糸満地区はかつては日本でも有数の漁村で、18世紀以降の中国貿易の中心地でもありました。琉球王府時代の記録には中国から派遣された使節・冊封使に託す魚貝類は糸満の漁民が獲っていたとあります。明治期に入ると糸満海人は漁場を求めて八重山地方や台湾、九州地方をはじめ日本列島の各地に進出しました。さらに海外にまで新天地を開拓し、当時の南洋群島(ミクロネシア)やフィリピン、シンガポールなどへも活動範囲を広げました。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その87《糸満海人(いとまんうみんちゅ)》渡辺幸重” の続きを読む