載コラム・日本の島できごと事典 その72《粟島航路》渡辺幸重

Webに掲載されたビデオ「感謝のメッセージ」

四方を海に囲まれた島にとって定期船は命綱のような存在です。多くの“離島航路”が赤字操業のため離島振興法などによって国や地方自治体の助成を受けながら運営されています。それが2019(平成31)年に始まった新型コロナウィルスの流行によって利用客が激減し、窮地に追い込まれています。 “載コラム・日本の島できごと事典 その72《粟島航路》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その71《北海道南西沖地震》渡辺幸重

津波被害を受けた奥尻島・青苗地区(東大地震研HPより)

1993(平成5)年7月12日午後10時17分、北海道全域はもとより東北地方や北陸地方まで広範囲に大きく揺らす地震が起きました。マグニチュード7.8という日本海観測史上最大級の「北海道南西沖地震」です。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その71《北海道南西沖地震》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム「日本の島できごと事典 その70《隠岐島コミューン》渡辺幸重

隠岐騒動勃発地碑(「 HOTELながた」HPより) https://www.hotel-nagata.co.jp/2012/11/27/10111

日本が明治維新によって近代に入る時期、日本海に浮かぶ島根県の隠岐諸島・島後(どうご)では島民が血を流すことなく松江藩の役人たちを追放し、自治政府を樹立しました。80日間という短い政権でしたが、自治機関を設置して他に例をみない島民自治を実現したのです。これは「隠岐騒動(雲藩騒動)」と呼ばれますが、「もう一つの明治維新」ともいわれており、評論家の松本健一は1868(慶応4)年のこの自治政府をパリコミューンに3年先立つ無血革命として評価し、隠岐騒動を「隠岐島コミューン」と呼んでいます。
幕末の日本は、欧米列強の姿が見え隠れする中で攘夷か開国か、勤王か佐幕かで揺れていました。江戸幕府は1825(文政8)年に外国船打払令を出し、隠岐の警備を強化しました。松江藩によって隠岐に藩兵が常駐したり、島民による農兵隊を組織することもありました。島後では異国船による危機感が強まるなかで島出身の国学者・中沼了三の影響で神官や庄屋などの指導者層に尊皇攘夷思想が広まり、米などの物価高もあって松江藩派遣の郡代や一部特権商人に対する島民の不信が高まっていきました。江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行った1867(慶応3)年、島から京都の情勢をさぐる一行が派遣したところ、王政復古により隠岐国は「朝廷御料」になったことがわかりました。支配が幕府から朝廷に代わったのです。そこに郡代が山陰道鎮撫使から隠岐の庄屋方への文書を勝手に開封した事件が起き、一気に松江藩に対する不満が噴出しました。11か村の庄屋大会が開かれた結果、郡代追放が決議され、3月19日(旧暦)、島民約3,000人が武装蜂起して陣屋を攻撃。その結果、郡代は抵抗することもなく翌日島外に脱出しました。ここに島民による自治政府「隠岐島コミューン」が成立したのです。島民は追い出した松江藩の役人に餞別として米や味噌、酒を贈ったので「優しい革命」と言われています。
自治政府は尊王攘夷の実現を目指し、長老格による議決機関「会議所」や執行機関「総会所」、警備を行う組織などの自治機関を整備しました。しかし、自治政府は松江藩による武力攻撃を受け、5月10日に崩壊してしまいます。
その後、自治体政府側は鳥取藩・長州藩・薩摩藩に援助を求め、その成果があって6月に島民自治が復活しました。明治新政府は隠岐国の管轄を鳥取藩に任せ、1869(明治2)年2月には隠岐県の設置が決まり、4月に知事が赴任したため自治政府は解散に至りました。自治政府としては80日以上あったことになりますが、後半の鳥取藩のゆるやかな支配下では実質的な自治があったとされる一方、明治新政府は自治政府を認めていなかったともされるので、ここでは「隠岐島コミューン」の活動期間を前半の80日間としました。
1871(明治4)年、明治政府の手によって島民と松江藩双方の関係者が罰せられ、一連の騒動は決着しました。

日本の島できごと事典 その69《浅沼稲次郎》渡辺幸重

浅沼稲次郎の銅像(三宅島観光協会HPより)

今年の7月8日、私は病院で大腸内視鏡検査の準備をしていました。そのとき、通りかかった看護師の突然の大声に顔を上げたら無音のテレビ画面に「安倍元首相銃撃され心肺停止」という文字が貼り紙のように映っていました。狐につままれた気持ちでボーとしているとき、頭に浮かんだのはある男の暗殺現場の白黒写真でした。1960(昭和35)年に東京・日比谷公会堂で演説中に右翼少年に刺された当時の社会党委員長・浅沼稲次郎のことです。浅沼は、伊豆諸島・三宅島(みやけじま)の出身で、島には生家が残り、すっくと立って右手を掲げたポーズの浅沼の銅像が建っています。 “日本の島できごと事典 その69《浅沼稲次郎》渡辺幸重” の続きを読む

連連載コラム・日本の島できごと事典 その68《すき焼き》渡辺幸重

『鯨肉調味方』(日本捕鯨協会HPより)

寿司、天ぷら、すき焼き、と並べると世界に知られる代表的な日本料理になりますが、このうち「すき焼き」は、一説には長崎県の生月島(いきつきじま)に起源があると言われます。どういうことでしょうか。
生月島は「捕鯨の島」として知られ、江戸時代の1700年代には島に網取式捕鯨の基地が置かれ、平戸や壱岐、五島、対馬など広い地域を漁場としていました。 “連連載コラム・日本の島できごと事典 その68《すき焼き》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その67《伊豆大島暫定憲法》渡辺幸重

大島暫定憲法(日経ビジネスHPより)https://onl.tw/q8qSHkF

第二次世界大戦後、沖縄や奄美、小笠原などが米軍に統治されたことはよく知られていますが、伊豆諸島も一時同じ状況になったことはあまり知られていません。実は、1946(昭和21)年1月29日から3月22日まで伊豆諸島は沖縄などと同じように連合国軍総司令部(GHQ)の「若干の外廓地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」によって日本政府の施政権から分離されました。このとき、伊豆大島では独立を想定し、島民の手によって伊豆大島暫定憲法(「大島大誓言(おおしまだいせいごん)」)が制定されました。この暫定憲法は「島民主権(主権在民)」「平和主義」の精神に基づいており、同じ年の11月に交付された日本国憲法の理念を先取りする民主憲法でした。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その67《伊豆大島暫定憲法》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その66《のがれの島》渡辺幸重

「のがれの島」の碑(奥武島)

1927(昭和2)年、青木恵哉(けいさい)は熊本・回春病院から派遣されて沖縄にやってきました。キリスト教を伝道しながらハンセン病患者救済のための療養所開設を目指したのです。青木は徳島出身のキリスト教宣教師で、みずからもハンセン病を患っていました。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その66《のがれの島》渡辺幸重” の続きを読む

22年夏号Vol.42 連載コラム・日本の島できごと事典 その65《ウグイス》渡辺幸重

ダイトウウグイス(「日本の野鳥識別図鑑」)

 ウグイスは国内にウグイス、ハシナガウグイス、リュウキュウウグイス、ダイトウウグイスの4種類の亜種が生息しています。亜種のウグイスは北海道から九州まで広く分布し、礼文島や壱岐・対馬、伊豆諸島、屋久島・種子島などでも見られます。ハシナガウグイスは小笠原諸島に分布、リュウキュウウグイスはトカラ列島以南の琉球弧(南西諸島)に生息し、ダイトウウグイスはかつて南大東島・北大東島で目撃されました。

 ダイトウウグイスは、1922(大正11)年に鳥獣標本採集家・折居彪二郎(ひょうじろう)が南大東島で初めて2羽を発見し、捕獲して世に知られるようになりましたが、その後は1984(昭和59)年に北大東島で目撃されたのを最後に記録がなく絶滅したと考えられていました。ところが2001(平成13)年に沖縄島でダイトウウグイスと思われるウグイス群が確認され、その後も奄美群島での目撃情報があったため国立科学博物館が調査したところ、奄美群島の喜界島でオス10羽、メス5羽と巣7個が発見されたのです(2008521日発表)。環境省の2006年鳥類レッドリストでも絶滅とされたダイトウウグイスが蘇ったのです。

 ハシナガウグイスは本州の亜種ウグイスより17年早く記載されているためウグイスの“基亜種”とされており、小笠原群島の父島や西島、火山列島の南硫黄島に生息しています。ちなみに、小笠原諸島は小笠原群島(聟島列島・父島列島・母島列島)、火山列島(硫黄列島)、西ノ島、南鳥島、沖ノ鳥島からなる東京都に所属する島嶼群で、小笠原群島は小笠原諸島の一部になります。ハシナガウグイスの小笠原群島の集団と火山列島の集団は遺伝子タイプが異なることが判明しており、ルーツは同じでも交わることなく別々に変化してきたといえます。

 かつては聟島列島の聟島(むこしま)や火山列島の北硫黄島にもハシナガウグイスが生息していました。西島でも一時期は定着した個体を確認できない時期がありましたが、ノヤギなど外来動物の駆除の結果、定着が確認されるまでに回復しました。外来動物の駆除が西島では間に合い、聟島では間に合わなかったということになります。ハシナガウグイスが20世紀半ばに絶滅したといわれる聟島では近年、本州・伊豆諸島のものと同じ亜種のウグイスが見られるようになりました。 越冬のためと思われますが、聟島では外来動物が駆除されているため、かつてのハシナガウグイスに代わって本州・伊豆諸島と同じ亜種のウグイスが定着する可能性があるといわれています。

写真:ダイトウウグイス(「日本の野鳥識別図鑑」)

https://zukan.com/jbirds/internal14899

22年夏号Vol.42 連載コラム・日本の島できごと事典 その64《豊田音頭》渡辺幸重

豊田音頭を踊る人(「地域文化遺産ポータル」動画より)

120kgもの重い石地蔵を背負って盆踊りをやるなんて、誰が考えつくでしょうか。それが佐渡島の真野(まの)地区豊田では古民謡「豊田音頭(真野音頭)」として伝わっているのです。

かつて佐渡のホテルで豊田音頭を見た「東京やなぎ句会」のメンバーはその姿に感動し、絶賛しました。小沢昭一は柳家小三治との対談で「僕の心の中の、あれを見たときのざわめき、嬉しさ、……あのナンセンス……(笑)何の意味もない中に、思えばどれだけの深い哲学を、その人その人なりに、あそこから汲み取ることができるかっていう、これぞ、深い芸術、芸能っていうものの極致です」と語り、小三治に対して「あん時にあなたが喜んでる姿を右の目で見ながら、僕もおんなしに喜んで感動していたんです」と言っています(東京やなぎ句会編著『佐渡新発見』1993年5月三一書房)。このときは踊りの輪の中を60kgの石地蔵を背負った男が右から左へただ一回だけ通り過ぎたと説明されています。

豊田音頭は、佐渡金山が隆盛を極めていた頃、その道中音頭が元となってできた盆踊り唄で、昔、若くして妻子を亡くした男が、お盆に戻ってくる妻子の身代りに大光寺境内の地蔵を背負って踊ったのが地蔵を背負う始まりと伝えられ、その後若い衆が力自慢に背負うようになったようです。石地蔵の重さは60~100kgで、なかには120kgを超えるものもあるそうです。私が見た「地域文化遺産ポータル」の動画では、音頭を踊る女性たちの輪に交じって大きな石地蔵を背負った2人の男性が同じ盆踊りを踊っていました。また、豊田音頭を継承しようと活動をしている「小波会(さざなみかい)」の動画では踊り手全員が小さな石地蔵を背中に結んでいました。豊田音頭は一時途絶えたものの1978年(昭和53年)に復活し、真野小学校の子供たちも背の2倍にもなろうという大きなハリボテ地蔵を背負って踊ります。

柳家小三治は「まいんち担いでるやつは、普通の顔になっちゃうわけ。だからあれは悲しかった。すばらしかった。で、しかも、もう担いでる自分の姿を想像して、滑稽にすら思ってる、っていう、そういう、辛い悲しい、そういうものを通り過ぎてしまった人の、……態度だね。だから、すばらしい」と言っています。小沢昭一も小三治も妻子を亡くした男の話は聞いていなかったようです。しかし、それを知っても豊田音頭に対する「あの無意味、不条理、不毛、あれは人生だなァ」(小沢昭一)という評価は変わらなかったでしょう。

連載コラム・日本の島できごと事典その63《国宝の島》渡辺幸重

源義経が奉納した鎧(国宝)https://oomishimagu.jp/national-treasure/

 本州と四国を結ぶ三つのルートのうちもっとも東にあるのが広島県と愛媛県を結ぶ「瀬戸内しまなみ海道(西瀬戸自動車道)」です。その中ほどのもっとも大きな島が「国宝の島」「神の島」と呼ばれる大三島(おおみしま)になります。大三島には海・山の守護神として尊崇される大山祇(おおやまづみ)神社があり、国宝や重要文化財を多数収蔵しています。特に、武将たちが戦勝祈願と戦勝のお礼に奉納した鎧(よろい)・兜(かぶと)・刀剣などの武具類は小物類を含めると数万点に上るといわれ、甲冑(かっちゅう)類については全国の国宝・重要文化財の約4割を有しています。

 国宝は8件あり、内訳は鎧4件・大太刀2件・太刀拵1件・禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)1件で、「工芸品」として指定されています。鎧には、瀬戸内の合戦で勝利した源義経奉納の「赤絲威鎧(あかいとおどしよろい)」、源頼朝が奉納した「紫綾威鎧」、日本の大鎧としては最古の「沢瀉(おもだか)威鎧」などがあります。義経の鎧は別名「八艘飛びの鎧」とも呼ばれ、平家物語絵巻にも登場します。また、禽獣葡萄鏡は斉明天皇の奉納と伝えられます。大三島には、国指定の文化財が国宝・重要文化財・天然記念物合わせて85件あります。重要文化財は、大山祇神社の本殿と拝殿が「建造物」として、1543年の大三島の戦いで討死(自害)したとされる大祝安用(おおほうりやすもち)の息女・鶴姫の「紺糸素懸威(こんいとすがけおどし)」や木曽義仲の鎧「熏紫韋威胴丸(あいかわおどしかたこししろどうまる)」など68点が「工芸品」として指定されています。また、「大山祇神社のクスノキ群」の1件が国指定天然記念物になっています。

 大三島の文化財の数は資料によって異なるので混乱しますが、今治市教育委員会生涯学習課に確認したのが上記のデータになります。たとえば、「武具では全国の国宝・重要文化財の約8割を収蔵」という数値を複数の資料で見ましたが、今治市教委によると、その根拠は「1919年(大正8年)113日の東京国民新聞に『帝国第一の古物館』と題して寄稿した志賀重昻が『特に兵器類の国宝に至っては日本全国の国宝の八割強を占め云々』と紹介した」ことだそうで、その後1950年(昭和25年)の文化財保護法改正で国宝の区分けが国宝と重要文化財に変更されて再指定があったことや指定文化財の数が増加したため、今では「甲冑類について全国の国宝・重要文化財の約4割を有している」が正しい表記ということでした。国の重要文化財の数も「132件」「76件」「469点」などがありました。それぞれ何らかの根拠があるのかも知れませんが、数字を孫引きするときには十分な注意が必要です。