連載コラム・日本の島できごと事典 その19《日本最西端の地》渡辺幸重

與邦国地図  地図をクリックすれば拡大

「日本最西端の地はどこですか」とたずねられると多くの人が「与那国島の西崎(いりざき)」と答えるのではないでしょうか。それは2019年(平成31)6月までは正解でした。いまでも「有人島の最西端」という意味では正解ですが、無人島を含めれば「トゥイシ」が正解になります。
トゥイシは西崎の北北西約260m、北緯24度27分5.0秒・東経122度55分57.0秒にある岩で、国土地理院は国土の東西南北端を国土地理院の2万5千分の1地形図に基づいて決定しているため、トゥイシがこの地図に記載された2019年に西崎に代わって日本最西端の地となりました。東西方向に約110mずれたことになります。日本政府は近年、領海や排他的経済水域(EEZ)を広げるためにやっきになって起点となる無人島に名前をつけていますが、トゥイシはその前から海上保安庁の航空レーザー測量に基づく海図改版(2016年)に記載され、すでに起点となっていたため最西端の地点の変更による日本の領海やEEZの変更はありませんでした。与那国島の地図を見てもらえばわかりますが、日本政府は住民の反対を押し切って2016年3月に陸上自衛隊与那国駐屯地を開設しました。移住した自衛隊員とその家族約250人は島の人口の15%近くを占めます。過酷な人頭税制度に苦しんだ象徴である「久部良(くぶら)バリ(割)」の字が地図にあるのもわかるでしょうか。税負担に耐えかねて島中の妊婦に割れ目を跳ばせ、人口調節を行ったと伝わるところです。国境の島の過酷な歴史と軍事要塞化-なんとも切ない、割り切れない思いを国土最西端の地に感じます。
ちなみに、沖縄の日本復帰前に「日本最西端の地」とされていたのは、五島列島福江島の南西約60km、男女群島の北西約35km、東シナ海に浮かぶ孤立した岩礁群「肥前鳥島」(北緯32度14分37秒・東経128度6分16秒)でした。 肥前鳥島はかつては“島”とは認められない“岩”でしたが、韓国政府が2006年頃からEEZの起点を鬱陵(うるるん)島から竹島に変更すると主張したため、日本政府が対抗して肥前鳥島を“島”に昇格し、日本側のEEZの起点とするようになったといわれます。島嶼(島や岩礁)にとって国の都合で勝手に扱われるのは迷惑千万なことでしょう。

連載コラム・日本の島できごと事典 その18《通気口の島》渡辺幸重

三池炭鉱模式断面図B

盆踊りでおなじみ、「♪月が出た出た」の炭鉱節は九州・三池炭鉱の歌です。父親が宴会でいつも歌っていました。私は子どもの頃に「男は炭鉱に、女は紡績に働きに行ってどっちも肺を病んで帰ってくる」と聞いた記憶があり、炭鉱にはどんよりと暗く重いイメージしかありません。映画や本や爆発事故のニュースでも悲惨さだけが伝わりました。大人になって筑豊の炭鉱住宅に泊まったときに、目の前に巨大なぼた山が迫り、その迫力に圧倒され、炭鉱が国家の大きな力によって動かされていたことを知りました。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その18《通気口の島》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その17《まだら節・ハイヤ節》渡辺幸重

Youtubeより

島は閉鎖的だと思われがちですが、島を取り巻く海は世界に通じています。漁業や交易によって島同士・港同士が結びつき、モノだけでなく唄や踊り、祭りも伝わりました。
「♪めでためでたの’若松様よ枝も栄える葉も茂る」という文句をご存知の方は多いでしょう。これはもともと「まだら節」という唄の文句で、佐賀県唐津市の馬渡島(まだらじま)で船乗り唄(漁師唄)として生まれました。これが九州地方で広がり、鹿児島県の「まだら節」、長崎県の「五島列島まだら」「諫早まだら」、佐賀県の「紀州まだら」「伊万里まだら」などになりました。さらに日本海を行き来する北前船や出稼ぎ漁労などによって北上し、石川県の「七尾まだら」「輪島まだら」となり、富山県の「魚津まだら」「岩瀬まだら」「新湊めでた」などとなって各地に広まりました。富山県の国選択無形民俗文化財「麦や節」なども元歌は「まだら節」だといわれています。ところが唄のふるさと・馬渡島では大正年間に伝承が途絶えていました。1999年(平成11年)になって馬渡島婦人会によって80年ぶりの復活を遂げ、本家の意地を見せました。

宴会の席で心地よいリズムで歌い踊るハイヤ節も同じように全国に伝わり、40カ所以上にハイヤ系民謡が残るといわれています。そのルーツは熊本県天草地方の牛深地区で、「二上がり甚句」に奄美「六調」の熱狂的なリズムが加わって「牛深ハイヤ節」が誕生したといわれます。ハイヤは「ハエの風(南風)」のことでハイヤ節を漢字で「南風節」と書いたりします。ハイヤ節も九州に広がり、まだら節と同じルートで北にも伝わって島根県の「浜田節」、京都府の「ハイヤ踊り(宮津)」、新潟県の「佐渡おけさ」「寺泊おけさ」、山形県の「庄内ハエヤ節」、青森県の「津軽アイヤ節」、北海道の「江差餅つきばやし」などへと形を変えました。牛深では毎年「牛深ハイヤ節全国大会」が開催されるそうです。
ハイヤ節の発祥地をめぐっては、牛深のほかに鹿児島(ハンヤ節)あるいは長崎県平戸市田助とする説もありますが、ともかく、コロナ禍にあっても唄を楽しみ、踊りで発散する文化を今後も伝えていきたいものです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その16《米軍基地》渡辺幸重

米軍射爆場新島設置絶対反対誓いの塔

太平洋戦争では、日本は「全滅」を「玉砕」、「退却」を「転進」、「敗戦」を「終戦」と呼びました。事実から目をそらす言い方は姑息にも思えますが、戦後日本を占領した米軍を「進駐軍(GHQ)」と呼んだのも同じような気がします。ただ“進駐”したのではなくて日本は“占領”されたのですから「占領軍」でしょう。こういう曖昧な態度だから駐留米軍はいまだに占領軍のようにふるまっているのではないでしょうか。
茨城県には一面に広がる花々で有名な国営ひたち海浜公園があります。太平洋戦争中は大日本帝国陸軍の水戸飛行場であり、戦後は米軍が接収して1973年(昭和48年)まで米空軍の水戸射爆場(水戸対地射爆撃場)だったところです。米軍機が標的めがけて模擬核爆弾の投下訓練などを行うのですが「模擬爆弾による農作物の被害」「ジェット機墜落による原野被害」「模擬爆弾による校庭被害」など257件の事件事故が相次ぎました。1957年8月には自転車で走行中の母子に低空飛行の米軍機が接触し、63歳の母親が即死、24歳の息子が重症という信じられない事件まで起きました。抗議と撤去を求める激しい運動の末、射爆場は1970年に演習を停止し、1973年3月に日本政府に返還されたのです。
ここからが島に関する話になるのですが、実は米国は日本政府が代替地を用意する条件で水戸射爆場の撤去を約束していました。いわゆる移転です。1964年1月、防衛庁(当時)は移転候補地に伊豆諸島の御蔵島(みくらじま)を内定しました。しかし、島民の強力な反対運動にあって断念に追い込まれました。この間の経緯は有吉佐和子の小説『海暗(うみくら)』に描かれています。次に日本政府は伊豆諸島・新島(にいじま)に目を付けました。1966年(同41年)に新島移転の話が表沙汰になり、1969年(同44年)3月に防衛庁の正式申し入れがありましたが、新島村議会が全員一致で絶対反対を決議し、美濃部東京都知事も反対するなど5年近い島内外の反対運動が続きました。結局、米軍は移転を断念し、水戸射爆場を代替地なしで手放したのです。新島には住民拠出のコーガ石でできた「米軍射爆場新島設置絶対反対誓いの塔」が建っています。
この話は沖縄の普天間飛行場の移転先として辺野古新基地が必要かという話に通じます。水戸射爆場移転断念という前例にならって県知事も県民も反対する辺野古新基地を断念し、普天間飛行場を撤去すればいいのです。
(写真はブログ「旅人がゆく」2016年5月より)

連載コラム・日本の島できごと事典 その15《気仙沼大島》渡辺幸重

気仙沼津波石碑

 

マグニチュード9・最大震度7という超巨大地震「東北地方太平洋沖地震」が起きたのは2011年(平成23年)3月11日(金)14時46分のことです。この地震によって大津波が発生、広く日本列島の太平洋岸を襲い、「東日本大震災」という未曾有の大惨事となりました。福島第一原発が津波による電源喪失で水素爆発を起こしたのもこのときです。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その15《気仙沼大島》渡辺幸重” の続きを読む

あれから10年《国民主権を実態化するにはやはり“選挙”しかない》渡辺幸重

東日本大震災・福島原発事故10年」に思うこと

火事や土砂崩れなどの災害現場から逃げる群衆と逆方向に、現場に向かって走るのがジャーナリストの習性です。10年前の東日本大震災。原発事故にショックを受けた私は3年間、原発の周辺をうろうろしました。ボランティアもせず、何の役にも立たないことに後ろめたさを感じながらでしたが、現場の姿を脳裏に焼き付け、記録することが自分の役目、と無理に言い聞かせました。いまでも忘れないのは福島駅の前の下水溝に線量計を近づけたときのことです。甲高い音で「ピーッ」と警戒音が鳴り響きました。私は一瞬、体が凍り付き、思考停止に陥りました。放射線量が異常に高いことは確かで、“死の予感”さえしました。ジャーナリストは常に冷静に、と自分を諫め、線量計の警戒レベルの設定値を上げて音がしないようにしました。いま思えば、私はアラームのレベルを上げず、ずっと警戒音を鳴らし続けておくべきでした。原発事故以来、日本国民は原発に対する警戒心のレベルを意図的に緩和し、原発をなし崩し的に許容する方向に向かっているように思います。「原発は危険」「原発とは共生できない」から「原発は地域振興のための必要悪」「原発の弊害には目をつぶろう」「二酸化炭素削減の国際公約を守るために原発は必要」というように。私自身もその波の中に巻き込まれそうで怖い気がします。いまこそアラームを鳴り響かせなければなりません。 “あれから10年《国民主権を実態化するにはやはり“選挙”しかない》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その14《笹森儀助》渡辺幸重

笹森儀助

島のために尽くした人は数多くいますが、私が一番に思い浮かべる人は、笹森儀助(ささもり・ぎすけ)(1845-1915)です。儀助は「(幕末・明治・大正時代の)探検家・政治家・実業家」と紹介されますが、私の印象では“社会活動家”です。
儀助は青森県弘前市に生まれ、弘前藩・青森県に勤めたあと1892年に千島列島探索に加わって『千島探験』を著します。1893(明治26)年から1898年までの5年間が南島(琉球列島)に関わった時期ですが、交通が不便な時代にハブやマラリヤが恐れられた地域に入り、現地のために奔走し、貴重な記録を残す大事業をやってのけています。まず、1893年5月に沖縄島に着いた儀助は慶良間諸島・宮古島・石垣島・西表島・与那国島をまわり、帰る途中にも与論島・沖永良部島・徳之島・奄美大島にも立ち寄りました。このときの記録が1894年発行の『南嶋探験』です。さらにこの年から1898年まで奄美大島の島司をつとめ、その間にトカラ列島を視察し、『拾島状況録』という書にまとめました。
井上馨内務大臣から国内製糖の振興のため南島の糖業拡大の可能性を探るよう依頼されて始めたことでしたが、現実をストレートにとらえ、社会の矛盾をえぐりだし、政府批判を含めて提言し、自身も改革に取り組んだ儀助に私は畏敬の念を抱きます。宮古島や石垣島では過酷な人頭税や身分制度に苦しむ住民の姿を直視し、人頭税を廃止すべきとして宮古島の人頭税廃止運動にも影響を与えました。一方で旧支配者層である士族たちが豊かな生活を送る社会矛盾を指摘しています。奄美大島では黒糖の売買権を鹿児島の商人が独占し、島民が困窮にあえいでいることなどを記録し、請われて大島島司にもなったのです。
あの時代に命がけで南の島々を回って調査報告をし、社会を変える活動をダイナミックに進めた生き方は感動的です。蝙蝠傘をさし、尻をはしょった儀助の写真を見る度に私も血がたぎる思いがするのです。儀助はその後、青森市長などもつとめました。

連載コラム/日本の島できごと事典 その13《春一番発祥の地》渡辺幸重

春一番の塔

あなたは“春一番(はるいちばん)”という言葉にどんなイメージを浮かべますか。「もうすぐ春ですね」というキャンデーズの明るい歌でしょうか。では、「明日、春一番に襲われるかもしれません。海難事故に気をつけてください」という“春一番警報”が出たらどうでしょうか。実は、春一番というのは漁師に恐れられた怖い暴風でもあるのです。
幕末の1859年3月17日(安政6年2月13日)、長崎県の壱岐島の漁師が出漁中、南からの強風によって船が転覆し、53人の犠牲者が出る海難事故が起きました。この風が春一番なのです。地元では「春一(はるいち)」「春一番」「カラシ花落とし」と呼ばれており、この事故をきっかけに「春一番」という気象用語が全国に広まったといわれています。民俗学者の宮本常一は郷ノ浦(ごうのうら)町で聞いた「春一番」の言葉を1959年に『俳句歳時記』で紹介しています。
現在は東北以北と沖縄を除く地域で春先に吹く南寄りの強風のことを春一番としており、テレビの気象情報でおなじみの言葉です。石川県能登地方や三重県志摩地方以西などで昔から用いられていたといわれ、春一番の語源には諸説あるようですが、壱岐島の故事がもっとも有名で、1987年(昭和62年)に「春一番発祥の地」として郷ノ浦港入口の元居公園に「春一番の塔」が建立されました。その横には銘板「春一番海難記」があり、近くには遭難者慰霊塔があります。
なお、新聞では1963年2月15日の朝日新聞朝刊での「春の突風」という記事が初めて春一番の語を使ったとされ、この2月15日が「春一番名付けの日」となっています。

連載コラム/日本の島できごと事典 その12《オトーリ文化とコロナ禍》渡辺幸重

 2020年1月以来、全世界において新型コロナウイルスが猛威を振るっており、2021年2月中旬現在で累積の感染者数は約1億854万人、死者数は約240万人に達しています。昨年4月~6月には日本の島々は一斉に来島自粛要請を出しました。医療体制が脆弱な島が多く、超高齢社会だからです。
にもかかわらず、人口約5千人の鹿児島県・与論島で7月22日~8月7日に島外在住者も含め計59人の感染が確認されました。さらに11月に入ってからも与論島で2度目のクラスター(感染者集団)が発生し、11月10日までに55人の感染が明らかになりました。患者は鹿児島県本土、奄美大島、沖永良部島、与論島の病院に入院しました。
2011年に入って沖縄県の宮古島でもクラスターが発生し、1月末までに40人が感染しました。宮古島市唯一の感染症指定病院・鹿児島県立宮古病院は1月26日から一般外来を中止する事態にまで至り、1月31日から2週間、反対の声もあがる中で県の要請を受けて陸上自衛隊第15旅団災害派遣部隊が高齢者福祉施設内で医療支援活動を行いました。
クラスター発生の原因は不可抗力も含めいくつも考えられ、必ずしもはっきりしませんが、島の風習である“回し飲み”文化も一因として挙げられています。与論島では宴席などで口上を述べながら黒糖焼酎を回し飲む「与論献奉(けんぽう)」という風習があります。同じように宮古島では泡盛を回し飲みする作法「オトーリ」があります。酒に弱い人が断りやすいように宮古保健所では2005年度から「オトーリカード(イエロー・レッド)」を発行しており、2018年度からは「美ぎ酒(かぎさき)飲みカード」と呼んでいます。宮古島市ではオトーリの自粛を強く呼びかけています。
コロナ禍は酒飲み文化を大きく変えようとしています。

連載コラム/日本の島できごと事典 その11《風土病フィラリア》渡辺幸重

八丈小島のバク患者。左足が象皮病(ウィキペディアより)

伊豆諸島・八丈島の西方約4kmに八丈小島という無人島があります。1969年(昭和 44年)に住民全員が離島するまでは24戸91人が住んでいました。
この島に八丈小島でしかみられない“バク”と恐れられた風土病があり、医師がいない島で住民は長い間苦しめられました。八丈島の人は「小島のバク」と呼んで恐れ、八丈島の漁師や海女は病気を恐れて小島へは上陸しなかったそうです。島民の多くは10代半ばまでに熱発作を出すといわれ、何の前ぶれもなく寒気と戦慄に襲われ、震えが起きました。人々は原因は島の水に毒があるからで大昔からあるバクにかかるのは仕方のないことだと考えていました。八丈小島に伝わる民謡の一節に次のような歌詞があります。
 ♬ わりゃないやだよ この小島には ここはバク山 カブラ山
(カブラとは島の太平山の山頂付近で栽培された大かぶのこと)

バクは「マレー糸状虫(しじょうちゅう)によるフィラリア症」の一種で、トウゴウヤブカが媒介し、高熱や下肢の象皮症を起こす病気でした。愛媛県佐田岬半島、長崎県、鹿児島県、奄美、沖縄県各所など日本でもフィラリア症はありましたが、それはバンクロフト糸状虫によるもので、マレー糸状虫によるものは日本では八丈小島だけにある風土病だったのです。明治期に内務省衛生局や京都帝国大学、九州帝国大学が現地調査を行いましたが原因究明に至らず、第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)から調査研究に取り組んだ東京大学付属伝染病研究所の佐々(さっさ)学によって原因解明と治療法開発が進められました。その結果、世界で初めてトウゴウヤブカによる媒介がわかり、特効薬による治療法に達したのです。この体験はその他の地域のフィラリア症治療にも生かされ、1988年(昭和63年)の沖縄県宮古保健所における根絶宣言により日本は世界で初めてフィラリア症根絶の国になりました。そのフィラリア防圧モデルは世界各地でも活かされているそうです。
佐々学がバクの研究に打ち込んだ時代は、東京~八丈島の船が5日に1便、八丈島~八丈小島への船が月に2便しか通っていませんでした。八丈島の民宿滞在中の佐々に「アメリカイキキマル スグモドレ」という電報が届いたとき佐々は電報を破り捨てて八丈小島行きの船に乗ったといいます。バク研究の使命感がアメリカ行きを諦めさせたのでした。歴史上の偉人の肝っ玉の大きさには本当に感心させられます。