渡来人たちの宴《白村江の戦い、その謎》 片山通夫

  すでに滅亡した百済の復興を助けるため、「渡世の仁義とやらで」とばかりに、天智天皇は次のような軍勢を朝鮮半島に派兵して白村江の戦いに挑んだ。

第一派 661年5月:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派 662年3月:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派 663年:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした) (ウイキペディアより)

この資料によると、総勢4万7千もの軍勢を、指呼の間といえども玄界灘を船舶で送ったことになっている。第一派の1万余人を船舶170隻で送っているわけだ。むろん船舶の大小があろうが、兵站、武器などを積み込むとして1隻に100人の兵を乗せなければならない。いったい誰がそのような船舶を建造し操船したのだろうか。

 玄界灘に臨む博多湾に点在する海族がいた。部族の名前は安曇族という。安曇族の全容は定かではない。簡単に言うと、漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)が出土した博多湾に浮かぶ志賀島あたりを中心に活躍したといえる。安曇族は船を自由に操り漁業を生業にしていた。飛鳥時代から奈良時代にかけて日本書紀は成立したと思われる。その日本書紀に、我らがスサノオは木の使い方について教えた話が載っており、耐久性と強度がある檜は端宮(みずみや:宮殿)に、加工しやすい杉と樟脳(しょうのう)を含み天然の防虫素材である豫樟(くす)は浮宝(うきだから:舟)に、水に強くて腐りにくい披(まき・槙)を奥津棄戸の臥具(おきつすてどのふしぐ:棺桶)に使えとある。この説明は木の性質に詳しい人によると,現代においても実に合理的だという。

面白い実験をした記録がある。安曇族とは直接関係はなさそうだが。
時は1989年7月8日。古代船「なみはや」は、出港式の後、難波の天保山岸壁を出航、随伴船「コーラルホワイト」警備船「のじぎく」とともに、漕行と曳航で瀬戸内海の各地に寄港しながら関門海峡を通過、博多、呼子から壱岐・対馬を経て朝鮮海峡を渡った。そして8月11日韓国・釜山港に入港した。漕ぎ手は大阪市立大学ボート部のメンバーであったという。
「なみはや」は古代の手漕ぎ船を実験的に建造されたものだ。そして古代の外洋船としてのなみはやは見事倭国から朝鮮半島へ着いたのだ。

驚くべきニュースが2004年2月1日の神戸新聞が伝えた。大船団が大海原を進む図だ(神戸新聞の写真)。同紙には「大船団を組む古代船」が描かれて、日本海を波しぶきを立てて進む様子が描かれた絵も見つかったと伝える。この準構造船の船団が大陸(朝鮮半島)へ向かうのか、大陸から倭国にやってきたのかは定かでないが、いずれにしても興味深い話ではある。

話を戻す。白村江の戦いで4万もの軍勢を3回に分けて送り込んだ船団は、神戸新聞の記事のような船団だったのではなかろうか。まさか、唐や新羅の船団が倭国の兵を運んだとは考えられないから、わが安曇族が・・・。
筆者の妄想は尽きないのである。(この項続く)