冬の夜更けは・・山城の国物語003《目まぐるしい遷宮・遷都》片山通夫

謎に満ちている継体天皇が山城国で造宮したのには訳があった。しかしその前にここでは目まぐるしく変わる遷都・遷宮を見てみることとする。

天皇の『遷都の詔』が出された上での平城京への遷都(710年)→長岡京への遷都(784年)→平安京への遷都(794年)の3回だけで次に述べるのは遷宮というわけである。ただこの区分けもいささか疑問が残るので、通常言われている遷都を使うこととする。

写真:樟葉の宮跡

恭仁京大極殿跡

山城国内に設けられた天皇の宮殿(宮・京)

筒城宮 (京都府京田辺市(八幡市)) – 第26代継体天皇
弟国宮 (京都府長岡京市) – 第26代継体天皇
恭仁京 (京都府木津川市) – 第45代聖武天皇
長岡京 (京都府向日市・長岡京市・京都市) – 第50代桓武天皇
平安京 (京都府京都市) – 第50代桓武天皇から第122代明治天皇

この山城という地域は実に歴代の実力者が重要視したかがわかる。筆者の勝手な想像だが、主な理由に明日香が南に控えていてその北には平城京があり、古来から様々なモノや人が往来し、その通行路となる河川(木津川や淀川)が存在したことも大きい。明日香には大きな河川はないようで物流の点からも不便だといえる。

紫香楽宮跡

筒城宮(つつきのみや)は、511年から518年にかけて(継体天皇)による都が置かれた場所。
弟国宮(おとくにのみや)518年~526年継体天皇によって営まれた。京都市西京区(もと乙訓郡)大原野付近にあったといわれる。
恭仁京(くにきょう) 740年12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として右大臣(のち左大臣)・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。天平12年(740年)12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として右大臣(のち左大臣)・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。741年9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、大極殿が平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。しかし、都としては完成しないまま743年の末にはこの京の造営は中止されて、聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、742年秋には近江国で宮の建設が始まり、さらに744年2月に、穂積老を留守官に任じて難波京に遷都、さらに745年5月に都は平城京に戻された。
長岡京 「続日本紀」に桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが記されている。「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」とする桓武天皇に対し、種継は「山背国長岡」を奏上した。長岡は種継の実家があり、支持基盤がある場所でもあった。
その他の理由として、
既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く
新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係
父の光仁天皇の代から天智系に皇統が戻ったことによる人心一新
難波津の土砂の堆積によってここを外港としてきた大和国が東西間交通の接点としての地位を失い(難波津-大和国-鈴鹿関ルートの衰退)、代わって三国川(現在の神崎川)の工事の結果、淀川-山背国-琵琶湖・近江国の経路が成立したこと(長岡遷都と難波宮廃止が同時に決められている)
などがあげられる。

以上インターネットから拾いました。