冬の夜更けは・・山城の国物語004《第26代継体天皇-01》片山通夫

継体天皇像

 

第26代継体天皇。その出自から謎に満ちている。継体天皇の生涯を書き始めると数冊の書物が書けるのではないかと思われるほど、エピソードがあり、また正確に書くことが出来ない謎の人物だった。ともあれ、継体天皇は木津川をはじめとする淀川水系を手中にした。ひょっとして天皇のご先祖は河童の精だったのかと実に失礼なことを思い浮かべたりもした。

ところで継体天皇はそれまでの天皇(大王)の系とは違う系譜の方だったようだ。当時の天皇・武烈天皇が崩御、しかし彼に跡継ぎがいなかったため、時の実力者・大伴金村(おおとものかなむら)らが次の天皇を選ぶことになって、近江高島生まれで越前にいた応神天皇から5代目の子孫にあたる男大迹(おをど)王を推挙したとある。
つまり当時の実力者が選んだ天皇と言える。武烈天皇は乱暴を極めた天皇だったとも言われていて、王朝交替論に拍車がかかり応神天皇から5代目の子孫に白羽の矢が立った。その後、紆余曲折を経て樟葉宮(くずはのみや)で天皇に即位した。
謎の天皇と言われる所以は次の通り。

*継体天皇が大和王権の中枢である磐余玉穂宮へ遷るのに20年を要した
*継体天皇崩御後の王位継承が混沌としている。
*応神天皇から5代目の子孫とされている点はそのこと自体が謎であり、もしかして継体から天皇家は始まったのではないか。
*継体天皇が近江高島で過ごしたのは10歳までとされる。それにしては、三重生(みおう)神社をはじめ継体天皇の史跡がかの地に多い。
(高島歴史民俗資料館)

【筆者の妄想】
高島に生まれた男大迹(おをど)王(後の継体天皇)が三国(写真)と高島を行き来して天皇となるための実力を貯えていたところ、武烈天皇が崩御の報で山城国まで進出したが、既成の勢力に阻まれて木津川をはじめとする山城国で足踏みを余儀なくされてヤマト(明日香)に入るのが20年もかかった…。そこには神武以来の北九州から来た勢力が居座ってなかなか進めなかったことと、正当性を得るための実績と理由を用意した。
継体天皇が筒城宮(つつきのみや)、弟国宮(おとくにのみや)など宮を点々としたが当時は常に河川の付近で宮を築いた。琵琶湖の湖畔や三国の海岸など彼は常に水運を利用したと言える。(続く)