連載コラム・日本の島できごと事典 その112《売春島》渡辺幸重

単行本『売春島』の表紙

5年前のある日、私が東京・お茶の水の三省堂書店本店に入ると『売春島(ばいしゅんじま)』と目立つ赤字で書いた本が目に飛び込んできました。何列にもわたって平積みにされていたのです。おどろどろしい小説かと思いきや表紙には「『最後の桃源郷』渡鹿野島ルポ 」とあり、実際にある島のことだとわかりました。表紙の帯には「売春島の実態と人身売買タブーに迫る」とあります。私はいたたまれなくなり、その場を去りました。
私は島の話題となると島に住む人間の側に立ってしまいます。その本の内容が本当か嘘かはともかく、東京のど真ん中で大々的に自分の島が「売春島」として宣伝されたら、と思うと心が痛みました。この本は9万部も売れてベストセラーになったそうで、中央紙の一面の書籍広告でも見ました。こんな言葉を堂々と島名と一緒に広めるのかと驚き、暗い気持ちになりました。

渡鹿野島(わたかのじま)は三重県の志摩諸島に属する有人島で、古くは伊勢神宮・内宮の別宮として格式が高く、「オノコロジマ」とも呼ばれる神の島でした。江戸時代の帆船交通の時代には風待ち港・避難港として栄え、船宿や遊郭があって「女護ヶ島」という別名も付きました。船乗り相手の「把針兼(はしりがね)」と呼ばれる遊女が集まり、女性の比率が極端に高かったようです。明治時代になると船舶の動力化・大型化から入港船の数は少なくなりましたが、1957(昭和32)年4月に売春防止法が施行されて一掃されるまで遊郭は残り、その後も売春を斡旋する置屋文化が続いたようです。1970年代半ばから1990(平成2)年頃までの最盛期には客で溢れかえり、ホテルや置屋のほかパチンコ店や居酒屋、ヌードスタジオ、裏カジノなどまであり、欲望むき出しの男たちの“桃源郷”になりました。法律から逃れるために自由恋愛を装い、女性の部屋で売春する建前があったようです。女性の中には台湾人やフィリピン人、タイ人もいました。『売春島』の著者・高木瑞穂が島で取材を始めた2009(平成21)年頃は寂れていて置屋は3軒、売春婦は20人だったということです。
1971(昭和46)年に内偵捜査のために島に潜入した三重県警警部補が売春婦の女性と内縁関係となって島でスナック経営者兼売春斡旋者となり、1977(同52)年10月に逮捕される事件もありました。元警部補は出所後、島の観光産業の発展に尽力したそうです。
2016(平成28)年5月、渡鹿野島と同じ志摩市に属する賢島を会場に先進国首脳会議「伊勢志摩サミット」が開かれました。その数年前から警察の取り締まりが厳しくなり、性風俗に携わる女性らは逮捕されたり島を離れたりして、渡鹿野島の“桃源郷”も幕を閉じたようです。

一方、島の負のイメージを払しょくし、家族で安心して訪れることができる観光の島にしようという取り組みが続いています。2003(平成15)年には三重県が人工海水浴場・わたかのパールビーチを設置。また、島民と大学生が体験メニュー開発などを行ったり、地域おこし協力隊による地域活性化などの活動もあります。2021(令和3)年には初めて修学旅行の誘致に成功しました。島の形から「ハートアイランド」と呼んで展開されているこれらの活動が実ることを祈っています。

とりとめのない話《風待ち地蔵》中川眞須良

西高野街道(左)と中高野街道(右)の交点(河内長野市)

古くから 商人の町として栄えてきた天領・堺。それを象徴するかのように昔からの古道、いわゆる歴史街道と呼ばれている5つの道が市内を走っている。それらは南北に市を縦貫する紀州、熊野(小栗)の両街道、そしてこの地を起点として東に伸びる長尾、竹の内、南南東への西高野街道の3街道である。 特に西高野街道は大阪、堺からの霊場高野山への参詣道として栄え、今なおあちらこちらに当時の街並み、風情を残しながら保存活動等と共に多くの市民の日常生活に溶け込み親しまれている。

そして起点から堺市内全域にわたり大小の辻 角に多くのお地蔵さんが優しく、温かく祀られていることもその大きな要因だろう。

この西高野街道沿い、市の住居表示板に「中区陶器北912番地」とあるすぐ横に真っ赤な衣を纏ったお地蔵さんが2体並んで祀られている。

大きな屋根で一部コンクリート造りの立派な祠を風雨を避けるためか更に外側を大きく広く波板トタンでガードされている事などから世話人、地元民との日頃の深い結びつきが容易に想像できる。

そのお地蔵さんの名 「剣光地蔵尊」。この地蔵尊、北へ向かってわずかに下りの街道沿いに加えやや広い四叉路の西北角に鎮座するその場所は現在まで長期にわたりあらゆる種類の風を受け止めてきたに違いない。

参考 地蔵尊

私がこの辻であの時あの風に出会ってからすでに25年が過ぎる。もう一度そんな風に出会ってみたいと思い、この場を訪れた回数はゆうに50回を超える。
それは湿気を含んではいなかったし埃を舞い上げてもいなかった。生活の匂いを運んで来たのではなく沈丁花の香りを連れて来たのでもなかった。
ただそっと頬を撫でて行ったあの風に出会いたいだけである。

梅雨入り少し前、西陽を正面に受けながらいつものように前を通りかかると火のついた数本の太い線香を束にして線香立てに入れようとしているお婆さんを見た。しゃがみ込みじっとお地蔵さんを見つめ 手を合わせ何やらブツブツ、咄嗟に後方で立ち止まり一瞬同じように手を合わす自分がいる(挨拶なしで何度も前を通リ過ぎてごめんなさい・・・と)。

その時 線香の煙の一筋がお婆さんの素足の下駄に届こうとしていた。今日は珍しく無風だ。またあの風には会えそうにない。

自宅まであと約3キロメートル。

編集長が行く《太宰治の生家「斜陽館」03》文・写真 井上脩身

編集長が行く《太宰治の生家「斜陽館」02》文・写真 井上脩身

生活力なき貴族のプライド

斜陽館裏手界隈(向こうの建物は斜陽館)

斜陽館近くでバスを降りると、リンゴの甘酸っぱいにおいがした。斜陽館観光の客目あてにリンゴ市場が開かれているのだ。そこから斜陽館は目と鼻の先。だいだい色の屋根に覆われた2階建ての住宅が、あたりを睥睨するように建っている。加えて通りに面してめぐらされた頑丈そうなレンガ塀が、「この中は特別地帯」とばかりに周囲を隔てている。

中に入ると、1階は江戸時代の宿場の本陣屋敷に見られる造り。座敷が幾重にも連なっており、主人である津島源右衛門が客人をもてなすために宴会を派手に行ったのでは、と想像をはたらかせた。私が興味をおぼえたのは2階に上がる階段と、2階の応接間だ。階段は勾配がゆったりとしているうえ、丁寧に細工が施された手すりがついている。鹿鳴館の影響を受けたのであろうか。応接室は20畳ほどの広さ。窓に取り付けられた調度品も気品があり、情趣あふれる部屋である。

明治に入って、薩長の志士たちが高い位を得て、文明開化時代の貴族となった。私は「斜陽館」の部屋々々を見てまわり、「津軽の貴族」という印象をもったのだった。源右衛門が貴族院議員になったのも、さもありなんであろう。

外に出て、斜陽館の周辺を歩いた。朽ちかけた家、古ぼけた家が多く、観光客も足を運ばない裏手の界隈はひっそりと沈んでいる。斜陽館以外は″斜陽地区″なのだ。

津軽鉄道の金木駅に向かった。さびれた線路のはるか向こうに岩木山のどっしりとした山容が曇り空の下でかすんでいた。一両の列車の窓から見た金木の里は、灰色にくすんでいて、斜陽館の屋根だけがつき出ている。

小説『斜陽』には太宰の生家はおろか、津軽そのものが登場しない。舞台は伊豆半島。「日本が無条件降伏をしたとしの、十二月のはじめ」に「東京の西片町のお家を捨て、伊豆のちょっと支那風の山荘に越して来た」姉と弟の物語だ。山荘は売りに出された河田子爵の別荘。いっしょに暮らしていた母が結核で亡くなり、姉は妻子のある恋人を、東京・西荻窪の六畳の間くらいの部屋にたずねる。すると「わあっわあっとひどく騒がしいお酒盛り」をしているところだ。「ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」とだれかが言って、「ふざけ切ったリズムでもって弾みをつけて、無理にお酒を喉に流し込んでいる」のだ。

恋人は「僕は貴族はきらいなんだ」と言い、「あなたの弟の直さんも、貴族としては、大出来の男なのだが、時々ふっと、とても附き合い切れない小生意気なところを見せる」と言い加える。

姉が伊豆に戻ると弟が遺書を残して自殺していた。弟は画家の奥さんに恋していた。「僕には、所謂、生活能力が無いんです。お金の事で、人と争う力がないんです」という弟は、姉の恋人から「それが貴族のプライド」と突き放され、「僕は、死んだほうがいいんです」と命を絶ったのだ。

弟は太宰自身であろう。文庫本(角川文庫)で200ページのごく一部を引き出しただけだが、以上をみても、テーマが「貴族の没落」であることは明らかだ。

考えてみれば、斜陽館そのものが没落貴族の象徴であろう。大地主であった太宰の生家は、戦後の農地解放で、かつての富豪も見る影なくズタズタにされたのだ。太宰はどう生きるべきか、その目標を見いだせなかったのかもしれない。

30年で首位から35位に

太宰が生きた戦前、わが国にも貴族がいた。公爵など爵位のある華族である。日本は戦後、憲法施行とともに華族制度が廃止され、法律上の貴族は存在しない。一方、イギリスでは「世襲貴族」と呼ばれる層が今なお存在する。爵位を世襲できる貴族のことで、2021年11月現在、公爵家30、侯爵家34、伯爵家191、子爵家111、男爵家443、計809家が世襲貴族である。「法の下の平等」という憲法の精神からすれば、華族制度がないわが国の方がはるかに全うだといえる。

しかし、これは法律上のことである。「世襲」自体はまかり通っているのだ。

岸田首相と長男、翔太郎氏(右)(ウィキベテアより)

岸田首相自身世襲3世であることは冒頭に述べた通りだ。その岸田内閣の全閣僚20人のうち、父親が国会議員だった者は首相も含めて8人。夫や叔父などの親族に国会議員経験者が要る人を含めると11人と過半数になる。首相だけに限ると、1996年に小選挙区が導入されて以降の12人のうち、世襲でないのは菅直人、野田佳彦、菅義偉の3氏だけ。自民党に限れば菅義偉氏以外はすべて世襲組だ。小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎の各氏は父親と同じ選挙区を引きついだ。安倍、麻生両氏の祖父は首相を務めた岸信介、吉田茂各氏である。

世襲候補者が当選できる理由について、ジバン(地盤=後援会)、カバン(鞄=選挙資金)、カンバン(看板=知名度)を引きつげるから、と説明される。カバンだけでなく、ジバンもカンバンも潤沢な財源がなければ獲得できるものではない。岸田首相の場合、父文武氏が宮沢喜一元首相と遠縁に当たっており、岸田首相は岸田家一族の代表として首相に上り詰めたといえるだろう。

こうした家として独占的地位を獲得できる実態を見れば、もはや貴族というほかない。藤原氏や平氏にみられるように、その家の一員であるだけで、議員バッジはおろか大臣にまでなれるのだ。

「奢れる平氏」といわれた。貴族は奢れるのだ。翔太郎氏は昨年末、総理公邸で親戚と忘年会を開き、新閣僚が記念写真を撮るひな壇で写真撮影したことが週刊誌に報じられたが、岸田家4世としてのおごり以外の何ものでもあるまい。

「奢れる平氏」は「久しからず」とつづく。世襲が当たり前になると、世襲以外の者の活躍の場がなくなり、全体として活力が失われるのは火を見るより明らかだ。

スイスの国際経営開発研究所(IMD)が発表した2023年版「世界競争力ランキング」で、日本が前年よりランクを一つ下げ、世界35位となった。IMDは「政府の効率性」などの4項目で競争力を評価するもので、1989年から4年間は世界首位だった。今回の発表では、アジアに関してシンガポール(4位)、台湾(6位)、香港(7位)は別格として、中国(21位)、マレーシア(27位)、韓国(28位)タイ(30位)、インドネシア(34位)にも後れをとっている。

『斜陽』では、弟は「人と争う力がないんです」という。私も争うのは好きでないが、かといって「生活能力が無い」のは困りものだ。時代の行く先を読めぬ貴族が没落するのは世のならいではあるが、世襲政治の結果、わが国の競争力がガタ落ちしているならば、ことは深刻である。

貴族院議員という文字通り貴族政治家の父をもちながら、太宰は政治家を世襲せず、文学の世界に進んだ。彼の文学もそして生き方も破滅的であったが、文学界に大きな波紋を起こし、死後75年がたった今も世代を超えて数多くの太宰ファンがいることも確かだ。

わが国が斜陽状態を脱するためには、まず政治家の世襲を禁止すべきであろう。太宰の『斜陽』はそのことを教えているのである。(明日に続く)

編集長が行く《太宰治の生家「斜陽館」01》文・写真 井上脩身

世襲まかり通る斜陽国家

斜陽館

 岸田文雄首相は6月1日、総理秘書官である長男、翔太郎氏を「総理公邸で不適切な行動をした」として更迭した。岸田首相は祖父、父も衆院議員を務めた3世議員。翔太郎氏を4世にするために秘書官に任命したのではといわれ、翔太郎氏の不祥事を機に、世襲批判が国民の間で一気に噴き出した。わが国が斜陽国家になり下がったといわれて久しい。その一因に、世襲がまかり通っていることがあるのではないか。その末路はどうなるのか。私はコロナ禍のなかを訪ねた青森県五所川原市の斜陽館を思い浮かべた。作家・太宰治の生家である。戦後間なしに心中自殺をした太宰は貴族院議員の御曹司であった。

金木の殿様の大豪邸

 学生時代、青森県出身の友人がいた。彼の母校が旧制中学校時代に太宰が卒業したこともあってか、太宰文学に傾倒していた。彼に影響されて、太宰の代表作である『斜陽』を読んでみたが、自殺を図る登場人物の心情に共感することができず、私は大江健三郎に夢中になった。

 コロナ禍が始まった2020年、わが国の国民1人当たりのGDP(国内総生産)は世界26位に転落した。1989年の4位から30年間で大きく落ち込んできたのだ。G7(主要7カ国)の一員でありながら、内実が全くともなっておらず、実態は「斜陽国家」といわれる。斜陽とはどういうことだろう。

 私は太宰の『斜陽』を読み返した。そして斜陽館を訪ねたのであった。

『斜陽』の内容を語る前に、斜陽館を紹介しておきたい。

 正式名称は五所川原市立「太宰治記念館『斜陽館』」。1907(明治40)年に建設された木造2階建て入母屋造りの近代住宅。2004年、国の重要文化財に指定された。

 同館の案内チラシなどによると、敷地面積2255平方メートル、延べ床面積1302平方メートルの大豪邸。1階に11室、2階に8室があり、旧銀行店舗部分や階段室、応接室を配した和洋折衷建築。母屋をはじめ文庫蔵、中の蔵、米蔵などの土蔵や、敷地を囲むレンガ塀を含め、屋敷全体がほぼ建設当時のまま保存されている。

 太宰(本名・津島修治)は1909(明治42)年、斜陽館が建って3年目に、県下有数の大地主であった津島源右衛門の六男として生まれた。源右衛門は県会議員、衆院議員、さらに多額納税による貴族院議員などを務めた名士。当時の住所は北津軽郡金木村だったので、津島家は「金木の殿様」と呼ばれていた。源右衛門は1923(大正12)年、肺がんで死去。太宰は青森中学を経て弘前高校に進学。在学中に芥川龍之介の自殺を知り、衝撃を受けたという。1930(昭和5)年、東大に入学し、その年、カフェの女給と心中未遂事件を起こす。1935年、東大除籍。1940年『走れメロス』、1947年『斜陽』を書き、翌1948年、『人間失格』を完結させた後の6月13日、愛人の山崎富栄と東京・三鷹市の玉川上水に入水心中。38歳のときである。

 以上、太宰の生涯を足早に紹介したのであるが、その生家を「人間失格館」でも「走れメロス館」でもなく「斜陽館」と命名したのはなぜであろう。そんな思いを内にこめて、「斜陽館」を訪ねたのだった。(明日に続く)

 

徒然の章《癌とともに15年 2023夏》中務敦行

あごを守るために作ったマウスピース
台風7号が接近した日の病室から

2019年8月、胃癌の内視鏡手術を受けた翌朝、手洗いに行くために病室を出たところで、いくつものビンがぶら下がった点滴のスタンドとともに転倒した。大量の吐血をみた私はそれでも、立上がろうとした。その病院では周りの病室が、真ん中のナースセンターを取り囲むようになっており、驚いた看護師が次々に飛んできて、ビニール袋で血液を受け止めた。
最初は下向きだったと思うが、横向きになって間もなく意識が無くなった。目覚めたときには家内と娘、息子がベッドの脇で「あっ起きた!気がついた!」と叫んでいた。後で知ったところでは、1日半くらい意識不明だったという。ちょうどお盆の頃であった。輸血もかなりの量だと聞かされた。
それから4年後、今年の6月に胃カメラの検査を受けた。あと一年再発がなければ、癌の再発はないだろうという、期待を持ちながら・・・。しかし、運命の女神は遠ざかった。いつもの消化器内科で担当医の診察の結果を聞いた。「咽頭癌が見つかりました・・・
なんとも返事出来なかった。「ごく初期です」、「見つかった場所は気管と食道が交差している場所で、耳鼻咽喉科の担当になります」と言われ、そちらに行った。
そこでは、鼻から内視鏡を入れてそのあたりを入念に見て「よくこんなに早く見つけられました」とビックリした様子だった。それからは両科を初め麻酔科、口腔外科などいくつもの診療科を回って8月半ばの入院に決まった。
歯科では何をするのか、手術は口と鼻が気管と食道と交差するあたりなので、患部は口を大きく開ければ見えるくらいの所にあるのだが、手術がしづらいのでパイプを口から挿入して、そこに内視鏡を通すのだ。歯や歯茎が痛んでいると手術に支障があるかもしれない。そのために、歯型を取ってマウスピースを作るのだ。癌の切除は内視鏡の操作に詳しい消化器内科の医師がすることになっている。医師二人が共同で手術するのは初めてである。
ICU(集中治療室)には行ったのは初めてだ。気がついたときは麻酔が覚めて家族が入室してからだ。かなり広い個室で、5×5m位はある。部屋はいくつあるか分からないが、患者と話す看護師の大きな声が聞こえる。すぐ向かいか隣だと思う。心電図、血圧、体温、血中酸素、など必要な情報が集中管理されている。時々ラームの音が聞こえる。ここにはトイレがなく便器が用意されている。尿意を催したら、ボタンを押す。看護師が世話をしてくれる。体が動かない人はベッドの上で済ませる。
経過は全く順調だった。1週間の退院予定を1日繰り上げて退院した。台風7号が接近していなかったら、もう1日早く帰宅できた。
私が初めて癌を患ったのは2019年。以前から、長くしゃべるとノドがかすれて声が出にくいことがあった。近所の耳鼻科で診てもらったら、「ちょっと荒れてますね」と、うがい薬を処方された。近くの病院にいっても同じような診断だった。
以前から左鎖骨下動脈が詰まっている、と診断されていた。ある朝、起きて立上がったら貧血でバタンと倒れた。病院に行くと「左鎖骨下動脈が詰まりました」。ステントを入れることになって入院。ついでに「耳の故障がないか耳鼻科に診察を受けてください」と言われ、診察の若い女医さんに「耳の異常はありません」といわれたので、「前から、ノドに違和感がるのですが・・・」と相談したら、鼻から内視鏡を入れて「アレー!」といって耳鼻咽喉科部長を呼びに行って、再び部長医師が内視鏡を診て「何かある、ちょっとこれは細胞の検査をする必要がある」入院中なので、翌日再診を受けて細胞を採取した。
「一週間後に結果を聞きに来て下さい」といわれて退院した。5日目に携帯に連絡があって「中務さん、やっぱりクロや」入院の用意をして来て下さい。こうして最初のがん治療が始まった。放射線治療で入院3ケ月あまり。
その治療中に「胃を診ておきましょう」と胃カメラの検査を受けたら、ここにも癌が・・・。
その後、胃に再発、一年おいて食道に。また一年おいて胃に、一つは癌、も胃一つはポリープ。結果は両方とも細胞検査の結果、癌だった。続いて2019年までに8つの癌が見つかり治療を終えた。
そして、今年の咽頭癌に至ったのだ。もともと私の家系は母方に癌が多かった。母は1963年、癌の出来た胃を全摘した。当時、癌は死の病で、本人にはもちろん極秘。49歳の母は疑って悩み続けました。私は「癌やけど大丈夫、しっかり養生して!」と励ました。一ヶ月の入院後、母は郷里の瀬戸内にある漁港に帰省し、姉の家の離れを借りて半年あまり養生した。その後、再発もなく、94歳の天寿を全うした。
またその母、つまり僕の祖母は80歳を過ぎて、皮膚癌になり頬に2ケ所、最後に眼球を一つ失って95歳まで生きた。また母方の従兄弟も各家系に一人はがんにかかったが、癌で死んだ者はいない。最年長の従兄は91歳まで生きた。私もどうやら癌で死ぬことはないように思う。
私と9つのがん。この命はいつまで・・・。できれば100まで、と思いながら今日ある命を大事にしよう。

原発を考える。《原発事故による甲状腺がん発症者数判明》文 井上脩身

宗川吉汪・京都工芸繊維大学名誉教授(ウィキベテアより)

 福島第1原発の事故によって甲状腺がんを患ったとして6人が東京電力を訴えた「子ども甲状腺がん訴訟」が重大な局面を迎えた。政府や東電が、事故とがんの因果関係を否定するなか、宗川吉汪・京都工芸繊維大学名誉教授が、福島県で行われた検査データを詳細に分析し、事故による甲状腺がん発症者数を科学的に明らかにしたからである。宗川氏は分析プロセスを『福島小児甲状腺がんの「通常発症」と「被ばく発症」』(文理閣)として、本にまとめて刊行。甲状腺がん訴訟の原告たちを勇気づけるだけでなく、裁判の行方に大きく影響するのは必至である。

 

無理な県の因果関係否定論

『福島小児甲状腺がんの「通常発症」と「被ばく発症」』の表紙

 原発事故と甲状腺がん発症の因果関係については、福島県が2011年、事故当時18歳以下の県民37万人を対象に1巡目検査を行い、以降は2011年度に生まれた1万人を加えて、2巡目(2014,15年度)、3巡目(2016,17年度)の検査が行われた。検査によって判明した患者数、罹患率(人口10万人あたり)についてA(避難区域13市町村=大熊町、楢葉町、南相馬市など)、B(A地区以外の中通り12市町村=福島市、郡山市など)、C(A地区以外の浜通りとB地区以外の中通り17市町村=いわき市、相馬市、須賀川市など)、D(会津地方17市町村=会津若松市、喜多方市など)の4区域に分けて公表された。

1、2巡目の結果は以下の通りである。

 1巡目(患者数計115)

  A地区 患者数14  罹患率45・8

  B地区 患者数56  罹患率56・7

  C地区 患者数33  罹患率55・3

  D地区 患者数12  患者数50・8

 2巡目(患者数計71)

  A地区 患者数17  罹患率65・6

  B地区 患者数35  罹患率37・4

  C地区 患者数14  罹患率22・2

  D地区 患者数 5  罹患率19・0

 3巡目は患者数計31、4巡目は患者数37。(地区別内訳は省略)

 宗川氏はこの結果から、調査に当たった福島県の県民健康調査検討委員会の評価部会は「検査2巡目で発見された甲状腺がんには原発事故の影響が出ている」との結論を出すと思った。しかし2019年6月、同部会は「避難区域13市町村、中通り、浜通り、会津地方の順に(罹患率が)高かった」と認めながら「検査年度、検査間隔など他の多くの要因が影響を及ぼしている」とし、事実上、事故と発症の因果関係を否定した。

 1巡目のデータで地域差が出なかったのは、事故から時間がたっていないことが関係しているのであろう。しかし、事故から3,4年を経た2巡目では地区によって差が大きくなっていることは誰の目にも明らかだ。しかも、放射線量が高かった地域で罹災率が高くなっているのだから、事故の影響とみるのがまっとうな判断であろう。

ではなぜ部会は無理な結論に至ったのであろう。「事故が甲状腺がんを引き起こした、という結論は困る」という国や県の圧力があったと疑うしかないだろう。宗川氏は同書のなかで「初めに結論ありきで、地域差を否定した」という。

かねて小児甲状腺がんについては年間100万人に数人しか発症しないといわれていた。しかし宗川氏によると、のどの腫物、声がしゃがれる、のみ込みにくいなどの症状が現れず、無自覚のまま発症していることがほとんどで、発症数実態は正確には捉えられていなかった。そこで宗川氏は検査データを基に、原発事故前の福島の小児甲状腺がんの「通常発症」の頻度の解析を行った。患者数がわかっているのだから、通常発症数を差し引いた数字が被ばく発症数になるのである。

罹患率高い避難地区

子ども甲状腺がん訴訟の原告たち(ウィキベテアより)

宗川氏はまず1巡目検査結果から、各地区ごとの事故時の推計をした。事故からの経過年数を横軸に、罹患率を縦軸にしてその推移をグラフにして値を導くのが宗川氏の手法。その計算式の説明は数学が苦手な私には手にあまる。プロセスを省くことをご容赦願いたい。

計算の結果導かれた事故前の患者数はA地区9人(全数14人)、B地区28人(同56人)、C地区16人(同33人)、D地区6人(同12人)、4地区合計59人(同115人)。

全数引く事故前患者数が事故後患者数である。その数字はA地区5人、B地区28人、C地区17人、D地区12人、4地区合計56人。この事故後患者数が原発事故による被ばく患者数と推計できるのだ。

2巡目以降も同様の手法で計算した通常発症数と被ばく発症数は次の通り(1巡目は前述と重複)。

1巡目

 通常発症25 被ばく発症31、計56

2巡目

 通常発症29、被ばく発症42、計71

3巡目

 通常発症22、被ばく発症9、計31

4巡目

 通常発症20、被ばく発症17、計37

 2巡目の検査の際、事故による被ばく発症者が急増していたことがデータ上明白になった。しかし1巡目、つまり事故の直後から発症した例も少なくないことも浮かび上がった。

同書には事故後の地区ごとの被ばく発症割合もまとめられている。

A地区 全患者数30、被ばく発症数18、被ばく発症割合60・0%

B地区 全患者数89、被ばく発症数50,被ばく発症割合56・2%

C地区 全患者数56、被ばく発症数24,被ばく発症割合42・9%

D地区 全患者20、被ばく発症数7、被ばく発症割合35・0%

このデータをみても、放射性物質の飛散量の多い地区ほど甲状腺がん罹患率が高いことが歴然としている。

福島県では2017年度から2020年度まで、25歳時の検査が行われた。以下はその結果である。 

2017年度 受診者数2324、患者数2、罹患率(人口10万人当たり)86・1

2018年度 受診者数2224、患者数4、罹患率179・9

2019年度 受診者数1754、患者数5、罹患率285・1

2020年度 受診者数1812、患者数2、罹患率110・4

合計 受診者数8114、患者数13、罹患率160・2

宗川教授の計算では、受診者全員が1巡目から受信し、25歳で初めて発症したと仮定すると、通常発症患者はゼロ人、受診者全員が25歳まで受診しなかった場合、通常発症者は1人になる。したがって25歳時に発症した患者13人のうち12人が被ばく発症になる。

福島県の検査で発見された小児がんの原因については、「被ばく多発説」と「スクリーニング多発説」の二つに分かれる。被ばく多発説は検査で見つかった甲状腺がんのほとんどは放射線被ばくによって発症したというものだ。一方、スクリーニング発見説は超音波検査によるスクリーニングで見つかったもので、放射線被ばくと無関係に発症したという意見だ。

宗川氏は自ら解析して得たデータから、被ばく多発説、スクリーニング多発説のいずれも「正しくない」と結論づけた。

 問題はスクリーニング多発説が国、県、東電にお墨付きを与え、放射線被ばくによるがんの発症をなかったことにしようとする姿勢である。宗川氏はスクリーニング多発説について「検査で見つかったがんがすべて通常発症であるなら、検査2巡目でなぜ地域差が出るのか。25歳時検査での罹患率が異様に高いのはなぜか。被ばく発症を無視したのでは説明できない」と、痛烈に批判している。

全ての患者の救済が課題

2022年1月27日、小泉、細川、菅、鳩山、村山の5元首相が、原発をクリーンエネルギーとして認める方針を示した欧州委員会に、原発使用を止めるよう要請する手紙を送った。この中に「多くの子どもたちが甲状腺がんに苦しみ」とあるくだりに、高市早苗自民党政調会長(当時)らがかみついた。「甲状腺がんに事故の影響がないことは福島県の専門家の会議が認めており、誤った情報は言われない差別を助長する」というのであった。

5元首相の手紙送付と同じ日、原発事故当時6~16歳で、事故後の検査で甲状腺がんと診断された6人が、被ばくで発症したとして東京電力に損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。弁護団長は2006年3月、金沢地裁の裁判長として志賀原発の運転差し止めを命じた井戸謙一氏、副団長は数多くの原発訴訟の弁護をしている渡海雄一氏らという強力な布陣である。

原告は「小児甲状腺がんは100万人に2人程度の希少がん」としたうえで①原告らは全員相当量の被ばくをした②甲状腺がんの危険因子は放射線被ばく③原発事故後、福島で小児甲状腺がんが多発――などを挙げて、「原告が甲状腺がんを発症したのは東電の事故が原因」と主張した。

訴訟を起こしたとき、記者会見で原告たちは「甲状腺がんのことは他人に言えず、完全に孤立してきた」「声をあげると差別の恐怖があるので、今まで声をあげられなかった」などと心の苦しみを口々に語った。本稿でみたように、県の検査で250人以上の患者が見つかっている。だが、原告になろうと奮い立たせた勇気ある人は結局6人だけだった。

宗川氏は「百万人に数人は明らかな過小評価」とするが、甲状腺患者の半数以上は被ばくによる発症であることを突き止めたのは宗川氏である。高市氏らは「原発事故で甲状腺がんが起きたという誤報によって差別が助長された」と主張するが、事実は全くの逆なのだ。「原発で甲状腺がんは発症しない」というウソが患者を苦しめてきたのである。いわれなき差別を助長したのは国であろう。

宗川氏は言う。「甲状腺検査によって発見された甲状腺がん患者が通常発症なのか被ばく発症なのか、特定することはできない。それゆえ、すべての患者を救済することを原則としなければならない」

宗川氏の分析によって、原発事故によって甲状腺がんが発症したことが明らかになった以上、裁判は原告勝訴にならねばならない。そして、事故後、小児甲状腺がんを患ったすべての人に対し、国は救済措置を取らねばならない。 しかし、岸田政権は、甲状腺がんの原因にほおかむりしたまま原発再稼働を進めようとしている。原発事故の真実を隠す政治姿勢こそが、この国のがんなのである。

原発を考える。《安全な水なら海に捨てるな。》一之瀬明

いわき市の海

報道によると中国が日本産の水産物の放射線量チェックの方法を抜き取りから全量チェックに変更した。検疫で時間がかかり税関で通関出来るころには、新鮮な魚も下手をすれば腐ってしまう。この厳格な措置は福島第一原発の汚染水を、海へ流す計画への対抗措置と見られる。日本の鮮魚の第一の輸出先の中国のこの措置に、日本の弱小業者は倒産の危険が。また香港も同様の禁輸に踏み切った。

福島第一原発は2011年の東日本大震災で、津波による深刻な被害を受けた。以来、汚染水が100万トン以上たまっているという。政府と東電はいま、それを太平洋に放出しようとしている。原発が水を海洋放出するのは一般的なことと言えるが、今回放出しようとしているのが原発事故に絡む副産物であることを考えれば、通常の放射性廃棄物とはいえない。

また福島や近隣の漁業者はいわゆる風評被害を心配する。「汚染水」を「処理水」と言い換えるだけの姑息さに呆れるとともに先の大戦で敗戦を終戦と言い換える姑息さを見るように感じる。有力な政治家の麻生太郎氏は21年4月に「飲めるんじゃないですか、普通」と言ってのけた。もう2年あまりたっているが、「飲んだ」という話は聞かない。

これまでに1000基以上のタンクが満杯になっている。日本はこのタンクに保存措置について、持続可能な長期的解決策ではないと説明。今後30年間かけて、この水を徐々に太平洋に放出したい考えで、水は安全だと主張している。中国は「安全な水なら海に捨てる必要はない」と。

岸田首相は「この先何年でも責任を負う」と言うが、数年前の漁業者との約束も守れない政府がどんな約束をされても信じられないのではないか。

 

神宿る。《三島神社(大阪・門真市)の薫蓋樟(くんがいしょう)》:片山通夫

三島神社

 

大阪一の巨樹で、国の天然記念物に指定されている楠。薫蓋樟は「大阪みどりの100選」にも選ばれており、100選を選ぶ時の投票でも一番投票数が多かった。

樹齢 1000年越え  高さ 30メートル程度
幹回り 13m程度

大阪きってのパワースポットとして有名。

 

Lapiz2023秋号《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

主要7カ国首脳会議(G7)が5月19日から21日まで広島で行われました。首脳は原爆資料館を見学した後、そろって原爆死没者慰霊碑に献花しました。慰霊碑の向こう建つ原爆ドームを目にして、何を考えたのでしょう。私は実況されているテレビ映像を見て、俳優、吉永小百合さんが朗読した原爆詩「慟哭」を思い浮かべました。子どもを失った母親の悲しみを切々とつづったこの詩のことを首脳たちは知らないにしても、原爆がいかに残忍なものであるかを学んだはずです。ならば核廃絶を目指すのが世界のリーダーであるG7首脳の役割と自覚すべきでしょう。しかし、「核廃絶」という言葉はついに発せられませんでした。 “Lapiz2023秋号《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む