宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#1(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身

勝海舟の書が残る本陣

古い民家が軒を並べる信達宿内の旧紀州街道

勝海舟の書の扁額が、かつて本陣だった泉州の住宅に掛けられている、と聞いた。江戸城無血開城で中学校の教科書にも登場する勝海舟。私の愛読書、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』のなかで、幕府の海軍を切り開いた人物としてたびたび現れる。だが、泉州に足を運んだという記述は全くない。そもそも勝海舟の書には何が書いてあるのだろう。調べてみると、本陣だったこの住宅は大阪府泉南市の旧紀州街道の信達宿にあり、4月下旬に催される「ふじまつり」の数日間だけ内部公開されるとわかった。 “宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#1(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身” の続きを読む

とりとめのない話《音のピント合わせ》中川眞須良

イメージ

私が長く接するモノクローム写真の世界は 日常における自身のイメージトレーニングの現状、結果を目視で確認できる唯一の手段と思っている。多くの情報や経験をもとに鈍化しがちな日常の感覚を「機知の閃き」に出合うきっかけ探しの手段として蘇らせるために思いついたのが「音へのピント合わせ」である。
実践してすでに数十年、今ではこれによるイメージの発想は新しい物語、新しい世界の創造に欠かせない手段の一つと確信している。毎年梅雨入り直後のこの時期に机の引き出しの奥から取り出すものがある。
1950年当時製造のステップ音が大きい「tokyo.clock.4jewels」と刻まれているポケットウォッチである。 “とりとめのない話《音のピント合わせ》中川眞須良” の続きを読む

びえんと《押し付けを否定した内閣憲法調査会》Lapiz編集長 井上脩身

――改憲にカジを切らなかったナゾに迫る――

矢部貞治・内閣憲法調査会副会長

日本の憲法について自民党は「アメリカに押し付けられた」として憲法改変を党是としてきた。保守合同で結党された翌年の1956年、「我が国の主体的憲法に変える」ために安倍晋三元首相の祖父・岸信介首相(当時)らによって、「内閣憲法調査会」が設置された。当時の社会党が「改憲のための調査会」と位置づけたとおり、改憲志向の議員や学者を中心に調査会は構成され、「憲法を変えるべきである」との報告がなされると予想された。7年間の審議を経て1964年に最終報告書がまとめあげられたが、「改正の可否」については両論併記にとどまり、保守派のもくろみは外れた。その理由が私にはナゾであったが、改憲論者であった矢部貞治副会長が「改正反対」に意見を変えたことが少なからず影響していたことを最近、新聞記事で知った。もし矢部副会長が当初の意見を維持していれば、わが国は早い段階で改憲へと大きくカーブをきっていたかもしれない。

マッカーサー・幣原会談

矢部副会長は政治学者で、1939年5月から1945年12月まで東大教授。近衛文麿内閣の有力ブレーンとなり、拓殖大学の総長も務めた。内閣憲法調査会最終報告書の実質的な起草者だったと言われている。
憲法調査会は自民党が、改憲発議に必要な3分の2議席を確保できなかったことから、改憲の方向を確固たるものにするために提案され、岸内閣のときに発足。定員は50人だが、社会党が不参加だったこともあって欠員が多く、国会議員20人、学識経験者19人でスタートした。委員のなかには蝋山正道(政治学)、正木亮(法学)各氏や笠信太郎・朝日新聞論説主幹ら著名な学者、ジャーナリストも入っていたが、冒頭に述べたように全体として自民党衆院議員の中曾根康弘、船田中、小坂善太郎、清瀬一郎各氏ら改憲論者で占められていた。

『日本国憲法30年』の表紙

『日本国憲法30年』(伊藤満著、朝日新聞社)によると第1委員会「司法と基本的人権」、第2委員会「国会・財政・内閣・地方自治体」、第3委員会「天皇・最高法規・戦争放棄」の3委員会で編成。会長に高柳賢三東大名誉教授(法学)、副会長に矢部氏と山崎巌・自民党衆院議員が就任した。
1956年8月、第1回総会が開かれ、岸首相は「憲法制定の事情と、その後の10年にわたる実施の経験とにかんがみ、わが国情に照らし種々検討すべき点がある」とあいさつ。ストレートに改憲とは述べなかったものの、その思いを強くにじませていた。押し付け論者の岸氏の提案による委員会だから、当然といえば当然であったが、調査・研究のための中立的な委員会という外形をとりながら、改憲への理由づくりのための委員会であることは明らかだった。
だが、首相の思惑通りには進まなかった。高柳会長が「憲法を一定方向に向けて改定することを前提とする政府機関でなく、全国民のための検討を加える場」と明言。その一環として、1958年秋、高柳会長を団長とする調査団をアメリカに派遣した。その調査で、1946年1月11日マッカーサー元帥宛ての、国務、陸軍、海軍3省調整委員会指令第228号という、アメリカの対日政策の基本方針を示した文書に接した。文書は「日本の統治体制の改革」と名づけられ、天皇制、内閣、司法、立法など多岐にわたって民主的な方針を示している。問題の「戦力不保持」については「日本における軍部支配の復活を防止するために行う政治的改革の効果は、この計画の全体を日本国民が受諾するか否かによって、大きく左右される」と記されており、日本国民の意思を重視していたことが判明した。
高柳会長は調査を終えて帰国し、羽田空港で調査結果を談話の形で語った。その中で、9条について「自衛のための戦力を保持することを認めるものであるかどうかに幾多の議論があったが、マッカーサー元帥は、他国の侵略に対し自国の安全を守るために必要な措置を続けることは当然で、第9条はなんらこれを妨げるものではないと当初から考えていた。しかし、同時に第9条は幣原元首相の高邁なステーツマンシップを表示するもので、世界の模範となるべき永久の記念碑」と述べた。第9条はアメリカの押し付けでなく幣原喜重郎元首相の理想をうたいこんだ、との認識を示したのである。

日米合作憲法論

幣原喜重郎・元首相

前項でふれた幣原元首相のステーツマンシップとは何であろうか。
マッカーサー連合軍最高司令官は1946年2月3日、戦争放棄などの3原則を示したが、その直前の1月24日、幣原首相がマッカーサーと会談。幣原は「世界中が戦力を持たないという理想論を(いだき)はじめ、戦争を世界中がしなくなるようになるには、戦争を放棄するということ以外にないと考える」と語りだすと、マッカーサーは急に立ち上がって両手で幣原の手を握り、涙を目にいっぱいためて「その通りだ」と言ったという。(古関彰一『平和憲法の深層』ちくま新書)
高柳会長はアメリカで、マッカーサー・幣原会談の内容を記した資料を目にしたのであろう。戦争放棄を最初に言い出したのは幣原氏と知ったのだと思われる。
調査会では9条について 1)現行のままでよいか 2)改正を考える場合には、その基本方向は何か――にしぼって審議された。
「自衛権のない国家は考えられない。だれにも分かるようにはっきりした文章に改めるべきだ」(法曹代表・弁護士)▽「自衛隊の保持は明記すべきだ」(中小企業代表)▽「永久平和を願う9条の理想そのものが日本の自衛権を表しており、憲法を変える必要はない」(婦人代表)▽「敗戦という異常な時代にあって、自らの力に寄らず作ったものなので、改正の必要がある」(青年代表)▽「9条は戦争の惨苦を受けた全国民の願いを表現したもの。平和主義で行くべきだ」(労働代表)▽「9条の建前を守り、全世界に戦争の放棄を呼びかけるべきだ」(中小企業代表)などの意見が出た。
以上は『日本国憲法30年』から引用したものだが、意外に9条維持の意見が多い。国会議員は発言しなかったのか、同書が取り上げなかったのかは定かでないが、高柳談話が審議に影響を及ぼした可能性が高い。
こうした審議を経て、報告書のまとめに入った段階での総会で、高柳会長が意見陳述を行った。そのなかで9条について「現行憲法は占領下でつくられた関係もあって、マッカーサー元帥を中心とする米国に押し付けられたものであるという説がかつては有力であったが、憲法調査会が行った事実調査の結果、これは誤りで、日本側の自主性も相当加味されており、正確には日米合作とみるべきだ」と述べ、押し付け憲法論を否定した。
最終報告書は池田内閣に提出されたが、池田勇人首相はこの報告書を政治的争点にすることを避けた。高柳会長の発言にみられるように、自民党の望むような明確に改憲を志向する結果にならなかったうえ、安保改定をめぐって国民の間に高まった「戦争に巻き込まれる」という反戦意識を警戒したためと思われる(田中伸尚『憲法九条の戦後史』岩波新書)。

意見を変えた副会長

前掲の『日本国憲法30年』には憲法調査会委員の改憲派、非改憲派の色分けが記されていて、実に興味深い。色分けは次の通り。

改憲不要論=高柳賢三、蝋山正道、正木亮、中川善之助ら7人
全面改憲論=愛知揆一、山崎巌、木村篤太郎ら19人
戦闘的改憲論=大石義雄ら3人
慎重改憲論=古井喜美ら2人
時期尚早論=井出一太郎
部分改憲論=矢部貞治
最後の矢部貞治が本稿の主人公である。

矢部副会長が意見を変えたことについては、4月15日付毎日新聞の「井上寿一の近代 史の扉」というコラム欄で取り上げられた。
同コラムによると、矢部副会長は戦前、東大で政治学を担当、戦時中新体制運動の理論を構築したことで知られているが、東大を辞したあと「浪人生活」を送るという異色の学者。改憲論者でもあった。
調査会の発足から5年後、矢部副会長は調査の実績を踏まえて「この憲法に抱いていた考えが、大きく変わってきたことを告白せざるをえない」と発言。「占領軍が日本を骨抜きにする目的で、押し付けたというのは正しくない」として、押し付け憲法論が間違いであったと認めた。矢部氏は、日本国憲法は、極東委員会(連合国の対日最高政策決定機関)の天皇制廃止の主張に先手を打って、天皇制を救うためだったと考えたという。

調査会では、9条の下でも自衛隊違憲ではないとするのがほぼ全員の見解だった。意見が対立したのは、「防衛体制の現実に合わせる方向」に9条を改正するか、「現実の防衛体制をできるかぎり9条に合致させるべきか」だった。矢部副会長は高柳会長とともに「現行憲法の規定の欠陥を指摘し、解釈の統一を期するために条文を改正すべきであるとする見解には賛成しえない」との立場をとった。

こうした矢部副会長の認識は最終報告書の「日本国憲法の制定経過」に反映された。報告書は制定過程を敗戦時における「きわめて異常」なものとしながらも、「当時のわが国をめぐる微妙な、しかも峻厳な国際情勢の中で行われたこと」と指摘。そのうえで「憲法は押し付け」なのか「日本国民の自由な意思に基づくもの」だったかについては、「事情はけっして単純ではない」と結論づけた。
矢部副会長は最終報告書が提出される直前の講演で「改憲勢力が国会で3分の2を占めたとしても、憲法改正などということはなかなかできるものではないと思います」と述べた。そして「国民のなかから盛り上がる要求があって、初めて改正というものができる」と付言した。
改憲派、非改憲派の色分けでは高柳会長が改憲不要論なのに対し、矢部副会長は部分改憲論。手元の資料では、矢部副会長がどの規定を変えるべきだと考えているのかわからないが、9条については変えるべきでないと考えたことは明白だ。

安倍晋三元首相は憲法9条について「自衛隊を明記すべきだ」との考えを示し、9条改変の方向づけをした。これに対し、九条の会は「占領時代につくられたとの相も変らぬ押し付け憲法論」と強く反発している。
岸田文雄首相は安倍政治を基本的に継承、1月26日の衆参院本会議で憲法の改変について「総裁選などで『任期中に実現したい』と言ってきた。先送りできない課題」と、改憲への強い姿勢を示した。内閣憲法調査会の高柳会長は「9条は幣原元首相の高邁なステーツマンシップを表示するもの」と述べた。その理想を岸田首相は投げ捨てるというのである。

理想だけでは敵国の侵略から守れないとの論がある。ウクライナ戦争、台湾海峡の緊張、北朝鮮のミサイル威嚇など、わが国を取り巻く環境は近年厳しさが増していることは確かだ。問題は矢部副会長が言うような「国民のなかから盛り上がる要求」があるかどうかである。世論調査などでは憲法改変を是とする国民が「変えるべきでない」をわずかに上回っているが、軍拡増税には国民の多くが反対している現状をみると、「盛り上がる要求」とまではとてもいえまい。
9条を変えることは、「平和主義国家」というわが国の心柱を抜いてしまうことである。国の屋台骨がくずれると、それこそ敵国からの侵略という暴風に耐えられなくなる。内閣憲法調査会の調査結果はそれを教えてくれているのである。

神宿る。《義経神社の栗の木》片山通夫

北海道では栗の木は石狩、日高地域に自生しているらしい。この写真の栗の木は、奥州衣川で敗れた源義経が、奥州から逃れ日高の地平取の神社に居を構えた時に植えたものと伝えられ、ここ義経神社のご神木として住民に親しまれている。
※平取:平取町(びらとりちょう)は、北海道の日高振興局管内にある町。

編集長が行く #3《元町商店街の手作り映画館》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

手作り映画館 写真ギャラリー

 

編集長が行く #2《元町商店街の手作り映画館》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

戦争の惨禍を映す

映画『ドンバス』のポスター(ウィキベテアより)

2020年からのコロナ感染拡大で元町映画館が苦境に陥るなか、私は『ドンバス』(セルゲイ・ロズニツァ監督)を見たのだ。
ウクライナ東部のドンバスは親ロシア派勢力の強いところで、2014年、一方的にウクライナからの独立を宣言。ウクライナ軍との武力衝突が日常化し、事実上内戦状態になっていた。映画はウクライナ内部の深い分断の溝による悲劇をダークユーモアを交えてえがき出したものだが、私が注目したのは政府側のアゾフ大隊の所業だった。隊の中にネオナチ的な兵がいて、親ロシア派の住民に暴行する場面もある。プーチン大統領が、ウクライナにはネオナチがいると、戦争の口実にしたことを思い起こし、戦争のためには、敵の弱みを最大限利用してプロパガンダにするものと知ったのであった。
同館で私が見た2回目の映画は『島守の塔』(五十嵐匠監督)。2022年8月だった。映画は沖縄戦最中の沖縄県知事、島田叡(あきら)の苦悩に迫った。高校、大学時代、野球の名選手だった島田は東大を出たあと内務省に入省。敗色が濃い1945年1月、米軍の上陸が必至とみられる沖縄県の知事を任命された。家族を残して沖縄に赴任した島田は県民の食糧確保に奔走。米軍が上陸し、摩文仁の丘に追い詰められて死を決した部下に「命どぅ宝、生き抜け」と諭して逃がす。自らは壕にとどまり消息は不明に。遺体は発見されていない。
今は県営平和祈念公園になっている摩文仁の丘から見た沖縄の青い海を思い浮かべながら、涙してこの映画を見たのであった。

採算度外視の映画

浦安魚市場の外観(2019年3月撮影)

政府は今年3月、コロナ対策を緩和し、マスクの着用を個人の意思に委ねた。そんな中の4月下旬、私は元町映画館で『浦安魚市場のこと』(歌川達人監督)を見た。冒頭に述べた魚市場が舞台の映画である。
浦安魚市場は1953年、千葉県浦安市に設置された。30店舗が入居、漁師が浦安で水揚げした魚介類をはじめ、築地市場で仕入れた鮮魚が販売された。元来、浦安の海は漁場だったが、経済成長とともに埋めたてが進み、臨海工場地帯になる一方で、東京ディズニーランドの開設によって、漁港の町ではなくなった。住民の買いもの動向も大きく変わり、消費者の80%以上は魚介類をスーパーで買うようになった。
加えて市場の2階建てビルが老朽化し、耐震構造になっていないこともあり、2019年3月31日、閉鎖され、65年の歴史の幕を閉じた。
私は閉鎖される少し前に同市場をたずねた。ほとんどの商品は売り切れていた。着いたのがすでに午前11時を過ぎていたこともあるが、閉鎖が決まって商品を余らせないようにしていたこともあるのだろう。売り物のない店には寂しさが漂っていて、いつもは威勢がいいであろう店員たちも、ほとんど言葉を交わさず、物静かな市場であった。
映画は「泉銀」という店の、40代半ばの店主を主人公にして描かれた。店主は「市場に客を呼び込もう」と市場の近くの路上でロックのライブを開き、自らボーカルをつとめるなど、苦心に苦心を重ねる様子を克明に描写。3人の子どもには南房総の漁港でクジラをさばく様子を見せたり、築地市場に連れて行ったりと、鮮魚商の内側を教える。
市場閉鎖の直前、泉銀の店主は復興したばかりの岩手県宮古市の市場に招かれ、マグロをさばく。たまたま私はこのころに宮古市を訪ねているだけに、このシーンに胸が詰まった。新たに生まれ変わる三陸の魚市場と、姿を消す大都会の市場。市場経済は非情である。

神戸の人たちのなかに浦安魚市場に関心がある人はまずいないだろう。実際、私を入れても入館者は7、8人。人件費も出ないだろう。それにもかかわらず上映を決断した元町映画館のスタッフに私は敬意を表したい。世の中、経済の論理だけで動くわけではないのだ。
映画館の天井が低くとも、映写機の位置が低くとも、そして待合スペースがなくてもいいではないか。儲からない映画も上映する。その気概に私は拍手喝采である。
ここまで書いて、小学校のころ、学校の講堂で映画が上映されたのを思い出した。美空ひばりが双子の姉妹として登場する映画だった。スクリーンに児童の影が映ったが、気にはならなかった。あるいは私が映画が好きになった原点だったのかもしれない。ふと思う。元町映画館はあるいは新たな映画文化を切り開くきっかけになるかもしれない。手作り映画館が地元の映画好きを掘り起こすことになるのではないか。手作りのミニ映画館が地域文化の担い手になってくれることを私は願っている。(明日に続く)

とりとめのない話《睡蓮池の風》中川眞須良

睡蓮

2023年5月中旬晴天の午前 あまりの心地よい風に誘われ いつもの睡蓮池を訪れてみた。例年より早く新葉が水面に浮かび上がり(浮葉) 8分咲きの花も一輪確認でき さらに成長し白と黄色の花が咲き乱れ、池の半分以上が葉の上を歩けそうな例年の池の景色となるのも間近のようだ。

また昨年は数匹の緋鯉が足元まで挨拶に来てくれたがこの日は何故か姿を見せない。水温が低いからか・・・

さらにゆっくり池をひとめぐり、昼を少し過ぎた時刻から 今日もゆっくりと流れ始めた風を正面から待ち受けるように 睡蓮の新葉の上約1メートルに ギンヤンマのホバリングにも出会うことができた。正面から見るとバックの緑に溶け込み大変見つけにくい。 風に向かって飛ぶ昆虫の特性(走風性)が顕著な場面だ。この光景もまた例年より約3週間早い。

蓮の新葉は初め水に浮く。その上を吹き渡る風の別名を荷風(かふう)と聞くが、初夏この日のように睡蓮池の水面を優しく撫でていく風を人は何と呼ぶのだろう。

その風は 今の時期 西北(にしきた)から舞い降りる。「この夏の猛暑を予感させる風」か・・・と問い返すのは今日の風には失礼だ。

連載コラム・日本の島できごと事典 その102《たらい船》渡辺幸重

荒海や 佐渡に横たふ 天の河

佐渡島のたらい舟(「アイランドレンタカー」より)

これは松尾芭蕉が「奥の細道」を旅する途上に立ち寄った新潟県出雲崎から佐渡島(さどがしま/さどしま)の空を眺めて詠んだ句とされています。このときは雨だったとかこの時期は佐渡の方角に天の川は見えないとかで、実際には見ていない風景だという議論がありますが、それはさておき、佐渡と越後の間のこの“荒海”を毎夜「たらい舟」で恋人のもとに通った女性がいたと聞けば皆さんはびっくりするのではないでしょうか。

昔、佐渡にお弁という漁師の娘がいました。越後国・柏崎から佐渡に来た船大工の藤吉と恋仲になりましたが、藤吉は佐渡での仕事が終わると柏崎に帰ってしまいました。お弁は藤吉が忘れられず毎晩たらい舟に乗って佐渡から柏崎まで通いましたが、実は藤吉には妻子がありました。藤吉はお弁がだんだん恐ろしくも疎ましくもなってきて、お弁が目印にしていた柏崎の番神岬の常夜灯を消したため、お弁は目印を失い、荒海に漂い、波にのまれて死んでしまいました。藤吉はお弁を死なせてしまった後悔から海に身を投げて命を絶ったということです。

浪曲師の寿々木米若はこの民話と民謡「佐渡おけさ」をもとに浪曲台本「佐渡情話」を作り、その口演レコードは全国的な大ヒットとなりました。佐渡情話では、お光と漁師の吾作の恋物語となっており、お光に横恋慕する七之助が登場するなど創作が随所に見られます。また、たらい舟で恋人のところに通うという似たような話は、新潟県上越市の「人魚塚伝説」や河口湖の「るすが岩」、琵琶湖の「お満灯籠」など各地にあります。
物語の舞台となった佐渡・小木地区の番神堂には次のような与謝野晶子の歌が残されています。

たらい舟 荒海もこゆ うたがはず
番神岬の ほかげ頼めば

小木地区では現在も海藻や魚貝採りにたらい舟が用いられており、たらい舟は「南佐渡の漁撈用具」の一部として1974(昭和49)年に国の重要有形民俗文化財に指定されました。また、「小木のたらい舟製作技術」は伝統的な和船製造技術や樽桶製造技術を知る上で貴重な財産だとして2007(平成19)年に国の重要無形民俗文化財に指定されています。

Opinion《軍事大国・戦争へと向かう“国家意思”にメディアは抗わないのか》渡辺幸重・ジャーナリスト

―「自衛隊に島を奪われる」と危惧する与那国島に目を向けよう―

この記事はちきゅう座からの転載です。 

「岸田首相は何十年も続く平和主義を放棄し、自国を真の軍事大国にしたいと望んでいる」という米『タイム』誌表紙の説明(写真左)は本来、日本のメディアが指摘するべき内容だった。ジャーナリズムを標榜するならば安倍政権時代からの改憲・軍拡路線に対して警鐘を鳴らし、反戦・非戦キャンペーンを展開するべきだった日本のメディアは、日本政府の抗議で『タイム』誌が表現を変えると「外国から変な目で見られなくてよかった」と胸をなで下ろしたようだった。いったい、安保法制や安保3文書改定、防衛費倍増、兵器の爆買い・開発・輸出、琉球弧(南西諸島)へのミサイル配備などをどう考えているのだろうか。この状態は国会や国内世論とともに「軍事大国化は許さない」「戦争をするな」と大騒ぎしてもしすぎにはならないほどだから『タイム』誌も書いたのである。解散・総選挙が近いとささやかれているが、選挙や直接行動で明確な国民の意思が示されなければ国民無視の“国家意思”によって国民の命や生活は踏み潰されてしまうだろう。メディアも国民も正念場に立っている。

沖縄の軍事負担は増大、琉球弧は“軍事要塞列島”に

今年の5月15日で沖縄は日本復帰51年を迎えたが、この間沖縄の米軍専用施設は復帰時より3割以上減ったもののいまなお全国の在日米軍専用施設面積の約7割が沖縄に集中し、逆に自衛隊専用施設は復帰時の4.6倍に増えた。合計した沖縄の軍事負担は2019年以降増加を続け、軽減どころか増加しているのが実態だ。自衛隊基地は与那国島、石垣島、宮古島に新設され、沖縄島などでも拡大が続いている。鹿児島県では奄美大島に自衛隊基地ができ、馬毛島では米軍のFCLP(陸上空母離着陸訓練)も行う自衛隊基地の建設が始まった。沖縄は復帰後も変わらぬ「基地の島」であり、沖縄を含む琉球弧(南西諸島)全体が軍事要塞化されるという「軍事要塞列島」まっただ中にある。

電子戦部隊・空港拡張・港湾整備・ミサイル配置と軍備増強が進む与那国島

先島諸島では、2016年3月28日に与那国島、2019年3月26日に宮古島、そして今年の3月16日に石垣島に陸上自衛隊の駐屯地が開設され、3月18日には石垣島にミサイルが運び込まれた。
その与那国島ではいま、住民の間に大きな動揺が広がっている。当初は「自衛隊は沿岸監視部隊だけ」「米軍が来ることはない」と聞かされていたのに目の前で急速に軍備拡張が進んでいるからだ。昨年4月には航空自衛隊第53警戒隊与那国分遣班が配備され、11月の日米共同統合演習「キーンソード」では与那国島にアメリカの海兵隊員約40人が乗り込んで演習が行われ、重火器を備えた自衛隊の機動戦闘車が住民の目の前で公道を走行した。その物々しい光景は“静かで平和な島”の住民を戸惑わせるのに十分だった。12月に「安保3文書」が閣議決定され、2023年度予算案には与那国駐屯地への電子戦部隊配備に加えて地対空誘導弾(ミサイル)部隊を置くための土地(約18ha)取得などが盛り込まれた。このままでは与那国島、石垣島、宮古島、沖縄島、奄美大島と琉球弧沿いにずらっと大陸に向いたミサイルが並ぶだろう。

防衛省は沖縄復帰の日に当たる今年の5月15日、与那国島で「与那国駐屯地への地対空誘導弾部隊配備に関する住民説明会」を開催した。そこには約150人の町民が出席。防衛省は、空からの攻撃を防ぐため中距離地対空誘導弾部隊を配備するとし、配備するミサイルは「他国を攻撃するものではない」と説明した。すなわち「敵基地攻撃能力(反撃能力)」はないというのだ。しかし、これは誰も信用してはいない。今年1月、アメリカ政府は計画していた地上発射型中距離ミサイルの在日米軍への配備を見送るという報道が流れたが、その理由は日本が敵基地攻撃能力を持つ長射程ミサイルの保有を決めたからだとしており、日本政府が琉球弧に長射程ミサイルを並べようとしているのは明らかだ。
与那国町の糸数健一町長は台湾有事を見据え、大型旅客機・大型船舶による町民の島外避難のために与那国空港滑走路の500m延伸と南部の比川集落への港湾新設を政府に要望したという。これは自衛隊のF35戦闘機の離着陸や自衛隊の護衛艦の接岸などを可能とする軍民共用施設の整備を意味する。沿岸監視だけのはずだった与那国島の軍事施設は、地対空ミサイル部隊基地、与那国空港の軍事的拡張、比川地区への港湾計画(軍港)と際限なく増殖しようとしている。地元ではどこで何が決まったかわからないまま「防衛は国の専管事項」「機密は公開できない」「まだ決定ではない」という説明だけで、軍拡という現実だけが急速に進んでいる。一方、ほとんどの国民は“前線”の緊迫した実態を知らないか知ろうとしないままでいる。

武力攻撃事態で「沖縄本島は屋内避難、先島諸島は九州に避難」

今年の3月17日、沖縄県は武力攻撃事態の際に住民を避難させるための「国民保護図上訓練」を行った。国や与那国町、石垣市、宮古島市なども参加して先島諸島などから沖縄県外に避難する手順を検討したが、その後、沖縄本島は屋内避難、先島諸島の約12万人は九州に避難させる方針が決められた。
与那国島では昨年11月30日に「国民保護法に基づく弾道ミサイル発射を想定した住民避難訓練」が町民22人の参加で実施された。サイレンが鳴ると走って公民館に逃げ込み、頭を両手で抱えてかがみ込むという訓練だったが、訓練の意義に疑問を持つ人も多く、参加者が激減したようだ。また、与那国町は台湾有事を想定して事前に島外避難する町民に対して避難のための交通費や生活資金などを支給する基金の設置を決めている。
2023年度防衛予算には自衛隊施設の司令部を地下化する費用が含まれており、沖縄島の陸上自衛隊那覇駐屯地、航空自衛隊那覇基地、那覇病院など全国6ヶ所が対象になっているが、民間人が逃げ込む場所はない。与那国町は政府に避難シェルターの設置を求めており、自民党の「シェルター(堅固な避難施設)議員連盟」は5月22日、与那国町、石垣市、竹富町を訪れ、住民が避難できるシェルター設置に対する財政支援を政府に促すと約束した。
現地では、“脅威”が煽られ、“不安”が増幅させられることが日常的に続いている。 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の軍事偵察衛星発射に備えるとして宮古島・石垣島・与那国島に展開したPAC3(地対空誘導弾パトリオット)部隊もその機能を果たしている。

「国にだまされた」――誘致派の元町長・元議長がミサイル配備に反対を表明

これらの動きに対して、とうとう我慢できなくなった自衛隊基地誘致当時の町長や町議会議長がミサイル配備反対の声を上げた。
外間守吉・元町長は「ミサイル部隊の誘致だけはどうしても阻止しなければならない」と断言。日本はアジア外交政策を持っていないことを危惧し「私たち保守のグループでもミサイル配備阻止に向け、運動を起こしていこうと話しあっている」と言う。また、前西原武三・元議長も「ミサイル配備は絶対認めてはならない」とし、その理由を「軍事の島になってしまい、島民が安心して生活する環境は失われるかもしれないという強い不安がある」と語る。「国にだまされたような気がして、誘致に賛成したのは正しかったのかと自問自答している」という葛藤も吐露している。

国は与那国島を「全島無人化・全島要塞化」しようとしているのではないか

また、山田和幸さんらミサイル配備に反対する与那国町の住民3人は5月10日、沖縄県・沖縄県議会への要請文、沖縄防衛局への質問状を提出。国に対してはミサイル攻撃の際の島の安全確保、沖縄県議会からの「外交による平和構築を政府に求める意見書」などについての見解を求めた。
同行した「ノーモア沖縄戦 命(ぬち)どぅ宝の会」発起人の新垣邦雄さんによると、3人は与那国島が“人の住まない島、住めない島”になるのではないかという切実な思いで直訴に及んだと言う。山田さんらは「県が全島避難計画、町も全島避難要領を出し、防衛省は大規模な基地建設を計画している。住民を追い出し全島要塞化する狙いではないか」と危惧しているのだ。国は与那国島を、第二次世界大戦“玉砕”の島・硫黄島のような「住民がいない自衛隊基地の島」にしようとしているのではないか。そうでないなら、国はなぜ軍拡が必要か、山田さんら地元住民が納得するまで説明しなければならない。

自衛隊誘致につぶされた「島の自立へのビジョン」

実は、与那国島は自衛隊誘致がささやかれ始める2007年頃までは自立・自治・共生を基本理念に据えた「与那国・自立へのビジョン」「与那国自立・自治宣言」を掲げ、姉妹都市である台湾・花蓮市との交流を足がかりに国が進めている構造改革特区を活用して“国境交流を通じた地域活性化と人づくり”を進めようとしていた。これが全国的に話題を呼び、実現するかと思われたものの2度にわたる特区申請は2006年、2007年とも国に却下され、島の振興策は自衛隊誘致へと流れが変わった。2007年6月には米国のケビン・メア在沖縄総領事と米海軍掃海艇が地元の反対を押し切って与那国島に入港し、翌年1月には島に防衛協会が設立された。日本政府による自衛隊受け入れの働きかけや締め付けは相当強かったようだ。
自立へのビジョンプロジェクトの初代事務局長や2007年4月に開設した与那国町の花蓮市連絡事務所初代所長を務めた田里千代基さんは「もしも特区申請が通っていたら、自衛隊誘致は潰せたと思う」と断言。今でも集会などで「自立ビジョンはあきらめていない」と訴えている。
与那国・自立へのビジョンは自民党の有力者も評価し、実現への協力を表明したという。それが“国策”の自衛隊基地建設によってひっくり返された。人口減少対策と経済振興をねらって沿岸警備隊を誘致したら中国に向けたミサイルまでやってくるという。“国境の島”として交易・交流を考えていた安全・安心の島がまったく真逆の、軍事部隊が対峙する危険極まりない島になりそうなのである。

国家権力に戦争をさせないのがメディアの責務

そこで、冒頭の問いに戻るが、日本のメディアはこのような与那国島の現実に目を伏せたままでいいのか、ということなのだ。この経過を見るに、ほとんどが日本政府の政策や対応が問題であり、「国際情勢」や「地政学的位置」を理由に国境に接する与那国島に“迷惑施設”である軍事施設と部隊を押しつけている。まずは国の施策や国民全体の姿勢を問うべきであろう。
日本のメディアは、岸田政権が「平和主義を放棄し、自国を真の軍事大国にし」、戦争への道を突き進んでいることを『タイム』誌以上に叫ばなければならない。その根拠は与那国島の例一つでも十分であろう。メディアは社運を賭しても国家権力に戦争をさせてはならないのだ。

原発を考える《震度6強》山梨良平

志賀原子力発電所周辺の過去1年間の地震の震源分布と地殻変動.jpg

5月5日午後2時42分ごろ、石川県能登地方を震源とする地震があり、石川県珠洲市で震度6強を観測した。同県志賀町の北陸電力志賀原発について、北陸電力は5日、「1、2号機とも定期検査により停止中。モニタリングポストの数値に変化はなく、外部への放射能の影響はない。発電所の設備への影響もない」と発表した。原子力規制庁によれば、同原発では地震後、異常は確認されていないという。 2023年5月5日 15時41分 朝日新聞

何事もなく無事でよかった。この報道が事実ならである。松野博一官房長官は「北陸電力志賀原発(石川県)など原発については、『現時点で異常はないと報告を受けている』と述べた。停電や通信障害、断水などの情報はなく、北陸新幹線は一部区間で運転を見合わせていると説明した。政府は石川県に内閣府の調査チームを派遣する。自衛隊については、石川県知事から災害派遣要請はないが、自主派遣で活動しているという。

この地震で5月6日15時現在、一名の死亡が確認されている。情報は見ている限り混乱はなさそうだ。隠ぺいされていない限り。 “原発を考える《震度6強》山梨良平” の続きを読む