原発を考える《坂本龍一の「脱原発」#3》文 井上脩身

『坂本龍一×東京新聞 脱原発とメディアを考える』の表紙
『坂本龍一×東京新聞 脱原発とメディアを考える』の表紙

「核のゴミ処分の国際ルールを」

東京新聞の記者たちとの討論では使用済み核燃料の処分についても話題にのぼった。わが国の原発の半数以上が、使用済み核燃料の貯蔵率について、法令で定められた量の8割を超えており、「トイレなきマンション」が現実問題になっている。六ケ所村の再処理工場建設は迷走をつづけ、プルサーマル計画は、高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉で頓挫している。こうしたなか、高レベル放射性廃棄物(核のゴミ)の最終処分場の選定をめぐり、北海道の寿都、神恵内の2町が公募に応じた。

この討論は2町が手を挙げる前に行われたが、処分についての見通しがほとんどないことはその後も変わらない。

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原発を考える《坂本龍一の「脱原発」#2》文 井上脩身

ファンに反原発を刻み込む

ロッカショ 2万4000年後の地球へのメッセージ

坂本さんは2007年、『ロッカショ 2万4000年後の地球へのメッセージ』(講談社)を著した。サブタイトルの「2万4000年」は再処理して取り出すプルトニウムの半減期だ。坂本さんは同書の冒頭、「まず知るということが大切。知らないということ、無知ということは、死を意味するというか、死につながる」と記した。そして「長期にわたり管理が必要な核物質をなぜ利用する必要があるのか。再処理工場が稼働した場合、環境への影響はどうなるのか
――などと疑問を投げかけた。(4月11日、毎日新聞夕刊)

坂本さんの著書に対し、元東電副社長や元東芝原子力事業部長らで組織する「エネルギー戦略研究会」有志が08年、出版元の講談社に「国民に再処理工場反対を呼びかけようとするセンセーショナルな出版物」などと抗議した。しかし、日本電燃が提出した申請書類約6万ページのうち3100ページに記載漏れなどの不備があり、原子力規制委員会が今年4月、同社社長に「信用に関わる問題」と厳しく指摘したことにみられる現状では、坂本さんが再処理工場に不安を持つのは当然であろう。

坂本さんは福島第一原発の事故後の2011月8月15日、福島市で開かれた芸術の祭典「FUKUSHIMA!」に参加。同市在住の詩人、和合亮一さんがツイッターで発表した詩を朗読する中、約1000人の聴衆を前に即興でピアノを弾いた。

さらに「一刻も早い脱原発」を訴えてロック・フェスティバル「NO MUKES」(ノー・ニュークス)を始めた。坂本さんの呼びかけに賛同したアーティスト、市民団体、メディアが参加して2012年に幕張メッセで第1回のフェスティバルが行われ、YMOをはじめ、トップアーティストが熱演をふるった。2014年の第2回イベントには坂本は咽頭がんの治療のため参加できなかったが、2015年イベントにはトークセッションに出演。17年、19年イベントにも顔を見せ、坂本ファンは「反原発」の意義を深く刻み込んだ。

「事故後も根強い原発神話」

東京新聞記者たちとの討議のなかで、坂本さんは「電力は原発でしかまかなえないと思っている人はまだまだ多く、原発がなくなったら停電になるとか、入院している人が死亡するとか言っている」と日本人の保守性を指摘。「電力=原発という神話は、これだけの事故の後でさえ根強い。チェルノブイリと同じ、人類最悪の事故が起きて、少しは社会が変わるかと期待したけれど、意外と手強い。むしろ前より悪くなりつつある」と悲観的な発言をした。

と言いつつも、坂本さんは「3・11によって、問題の所存に気づいた人はものすごく多い。そこは希望だと思う」と語った。話は国会前で行われた「反原発デモ」にうつり、デミ参加者が減少していることに言及。「関心があってもデモに来ないひとも多い。事故後、社会に声を上げず、関東から逃げだした人も多い。非常に強い関心を持っていても、必ずしも社会的に声を発しない人はたくさんいる」と、″声なき反原発の声″に期待をにじませた。

東京新聞記者から「(脱原発運動を進めるうえで)どういう未来を提示できるかだ。そのあたりはどう考えるか」と質問されたのに対し、「自分たちは(原発リスクを)言ってるつもりだが、届いてない現実がある」としたうえで「リスクばかり、悪い面ばかり言うと人間は暗くなるから、良いビジョンを示すことも大切。そのためには今どうすればいいか。ありうべき未来に向かって、そこから逆に今の行動を決める。バック・キャスティングという考え方をしたらいい」と提言した。(明日に続く)

 

原発を考える《坂本龍一の「脱原発」#1》文 井上脩身

坂本龍一さん

――東京新聞記者との討議から――

今年3月28日に亡くなった作曲家・坂本龍一さんが脱原発運動に熱心に取り組んでいたことを新聞報道で知った。映画『ラストエンペラー』の音楽に携わり、米アカデミー賞作曲賞を受賞するなど、世界的な作曲家として名を成した坂本さんだが、福島原発事故の以前から、青森県六ケ所村で進められている使用済み核燃料再処理工場について、「死につながる」と警告を発していたというのだ。福島事故から2年9カ月後の2013年12月、坂本さんは東京新聞の本社で同社記者たちと原発問題について討議した。その白熱ぶりがレポートにまとめられ、『坂本龍一
×東京新聞 脱原発とメディアを考える』(東京新聞編集局編)と題して刊行された。同書を中心に、天才的作曲家の原発観をみてみたい。 “原発を考える《坂本龍一の「脱原発」#1》文 井上脩身” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その101《鞘形褶曲》渡辺幸重

沼島の鞘形褶曲

瀬戸内海に浮かぶ淡路島には南岸すれすれに中央構造線が通っており、そこから約3km南に沼島(ぬしま)があります。沼島北端の黒崎付近の岩石にはフランスと日本だけという世界的にも珍しい鞘形褶曲(さやがたしゅうきょく)が見られます。1994(平成6)年に発見されたこの鞘形褶曲は約1億年前の“地球のシワ”とも言えるもので、中央構造線や日本列島の形成にも関係する地殻内部の動きを教えてくれます。

1億年前の東アジアでは太平洋側のイザナギプレートがユーラシアプレートの下に沈み込んでいました。このとき日本列島の土台となる陸地はまだ大陸の一部で、約2500万年前から地殻変動によって大陸から離れ始め、その後太平洋側のプレートの沈み込みによってできた付加体を付けて日本列島が形成されていきました。また、イザナギプレートが沈み込む海溝と平行に、大陸だった日本列島の土台部分に大規模な左横ずれ運動が起きてできた断層が中央構造線です。なお、イザナギプレートは約5000万年前までに完全に大陸の下に潜り込んで姿を消し、その後は太平洋プレートが沈み込むようになりました。
沼島は全域が三波川(さんばがわ)帯の結晶片岩類からできています。これは約1億年前の中生代にプレートの沈み込み帯における地殻変動によって比較的高圧の条件で生じた変成岩です。Webを見ると多くが「太平洋プレ-トとユ-ラシアプレ-トがぶつかり合うところでできた岩石が隆起した」と書いてありますが、1億年前なら太平洋プレートではなく、「イザナギプレートとユーラシアプレート」ではないでしょうか。あるいは、岩石が隆起して沼島を作った時期は太平洋プレートの時代だったということを言っているのかもしれません。
平成の時代に入ってこの結晶片岩(泥質片岩)から同心円状になった鞘状褶曲の露頭が発見されました。この鞘状褶曲はプレートが沈み込む過程で強力な褶曲作用が発生したことを物語っています。沼島の鞘状褶曲は2009(平成 21 )年に「日本の地質百選」に選ばれました。

沼島には「おのころ神社」があり、『古事記』『日本書紀』にある国生み神話の有力な舞台と言われています。確かに「天の御柱」ともいわれる上立神(かみたてがみ)岩をはじめ、多くの奇岩、巨岩、岩礁は神話の世界を感じさせます。沼島は、日本遺産「国生みの島・淡路~古代国家を支えた海人の営み~」の構成文化財にも認定されています。

徒然の章《この春のこと》中務敦行

やっとコロナが第五類に。でもこの春はどこか違います。私がこれまで撮ってきた春を振り返ると、桜は4月に咲く花でしたが、関西ではほとんどのところで3月に咲き、しかも気温のせいか、長く咲き続けました。近くの奈良公園は、修学旅行生やインバウンドですっかりコロナ前にもどっています。以下、藤、ツツジ・・・写真をご覧下さい。

以上、開花が毎年早くなってきました。50年前は小学校の入学式(4/1)に満開を迎えていました。

2023夏号Vol.46《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

菊池由貴子さん

新聞業界はいま危機を迎えています。スマホの普及にともない、中・高年層までが新聞をとらなくなったのです。そんななか、東日本大震災の被災地で一人の女性が新聞の発行を始め、「知りたい情報が載っている」と避難者らから信頼されたと知りました。女性は、取材から編集、広告取りまで1人でやり抜いたそうです。ネットなどを通じてさまざまな情報を知ることができる便利な世の中になりましたが、暮らしに必要な身の回りの情報を得るのはそうたやすいことではありません。大手新聞、タウン紙、広報紙のいずれでもない「ひとり新聞」。その身軽さのゆえに読者のニーズに応えることができたのだと思います。 “2023夏号Vol.46《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その100《与那国特区構想》渡辺幸重

与那国島・国境交流のイメージ

台湾を西方約110㎞に見る日本最西端の“国境の島”・与那国島。「歌と踊りの島」といわれ、南方文化、中国文化、琉球王朝文化が混合した独自の祭祀・芸能を伝承しています。台湾の日本統治時代には与那国島は中継基地として栄え、米軍政下にあった第二次世界大戦直後も沖縄と台湾の間で兵器屑や軍需物資などと生活物資をバーターする密貿易(復興貿易)の中継基地となりました。1947(昭和22)年には島の人口が約1万2千人に膨らみましたが、蜜貿易に対する取り締まりが強化されると急激な人口減少が起きました。2015(平成27)年現在の人口は1,479人となっています。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その100《与那国特区構想》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その99《密貿易》渡辺幸重

密貿易ルート(三上絢子「米国軍政下の奄美における日本本土との交易の特質-密貿易の地域的展開-」より)

第二次世界大戦後の1946(昭和21)年1月29日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は最終的決定ではないとしながらも「連合国軍最高司令官指令SCAPIN?677」によって口之島を含む北緯30度線以南の地域が日本の行政権の外にあると規定し、同年2月2日の「連合国覚書宣言(二・二宣言)」によって小笠原諸島とともに北緯30度以南の琉球弧(南西諸島)を米軍政府の統治下に置くと宣言。米軍政府は2月4日に奄美諸島の海上封鎖指令を通達し、北緯30度線を境に日本本土と口之島以南の自由渡航を禁止しました。
自由渡航の禁止により、日本本土では黒糖不足になり、奄美では生活必需品が入手できなくなりました。鹿児島や大阪、大分、佐賀などから奄美に寄留していた商人は本土へ引き揚げ、寄留商人の店や土地は地元の使用人たちに売却されました。このとき本土に戻った商人と生活に困った奄美の人々によって始められたのが密貿易でした。

密貿易船は奄美大島や徳之島、喜界島、与論島を出航し、“国境の島”となったトカラ列島・口之島に黒糖やコーヒー・タバコなどを運び、口之島の港で鹿児島から運ばれてきた衣料や学用品などの生活必需品と交換して奄美に戻りました。中継基地となった口之島は1日に40~50隻ほどの小型船(ポンポン船)が入出港し、ヤミ商人や船員で賑わいました。口之島は繁栄し、民宿や小料理屋もできて男女入り乱れての賑わいがあったといいます。1950(昭和25)年竣工の口之島中学校の校舎の建築費用は、密貿易や密航で口之島に寄港する船から徴収した港の使用料で賄われたそうです。
これに対し、米軍は奄美群島・トカラ列島周辺海域に出入りする許可証不保持の船舶を密航船として取り締まりました。1947(昭和22)年4月には口之島・中之島・宝島に巡査派出所を設置。日本政府も海上保安庁の職員を700名ほど増員して密貿易に対する警戒を行いました。ヤミ商人と警察官との熾烈な逃走劇が繰り広げられたという証言もあります。
トカラ列島は1952(昭和27)年2月4日に、奄美群島は翌年の12月25日に本土復帰を果たしました。それから1972(昭和47)年5月の沖縄返還まで沖縄との密貿易の中継基地は奄美群島南部の与論島に移りました。
米軍政府時代のトカラ列島には、1946(昭和21)年8月に引揚者や復員兵を乗せた“密航船”・宝永丸が定員超過のため中之島沖で沈没し、50人の犠牲者を出したという歴史も残されています。

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その98《直接民主制》渡辺幸重

旧宇津木村(八丈小島)

日本の政治体制は間接民主制を基本とし、一部直接民主制を取り入れています。その直接民主制とは、憲法改正に際して必要とされる国民投票制、地方公共団体における住民投票制や首長などの解職請求権(リコール)などですが、根幹は国会議員や地方議会議員を代議員として選挙で選ぶ議会政治です。ところが近年、人口減少や議員のなり手不足などで地方議会の成立が危ぶまれる事態が見られ、2017年には高知県大川村の村長が村議会を設置しないですむ「町村総会」の設置検討を表明しました。町村総会とは選挙権を持つすべての住民が参加し、議会に代わって同等の権限を行使するもので、直接民主制の組織となります。あわてた国は総務省に「町村議会のあり方研究会」を設置し、2018年に「町村総会の実効的な開催は困難」とし、代わりに少数の専業議員と有権者が参加する「集中専門型議会」と多数の非専業議員が夜間・休日を中心に運営する「多数参画型議会」の2つのタイプを選択肢として追加しました。現在、大川村は議員の兼業や公共事業の委託制限などを緩和して通常の議会を維持しています。
実は、1947(昭和22)年10月の地方自治法制定以降、一度だけ町村議会が設置された事例があります。東京・伊豆諸島の八丈島の西約4kmに今では無人となった八丈小島が浮かんでいますが、かつては有人島で、東南部 に宇津木村、北西部に鳥打村の2村(現在はいずれも八丈町)がありました。明治期に入っても八丈小島には島嶼町村制・普通町村制とも適用されず、地方自治法施行まで江戸時代からの名主制による島政が続きました。このうち宇津木村は人口50人規模の極小村だったため1951年に村条例によって宇津木村議会を廃止し、満20歳以上の住民で構成する町村総会(名称は村民総会)を設置して直接民主制を実施したのです。これは八丈村などと合併して八丈町となった1955年まで続きました。
榎澤幸広・名古屋学院大学准教授の研究(「地方自治下の村民総会の具体的運営と問題点」)によると、宇津木村の人口は1935年10月114人、1947年10月72人、1950年10月66人となっています。榎澤准教授は村民総会の構成や運営、歴史などに関して詳細な調査を行っていますが、宇津木村で地方自治法が施行されて名主制が終わり、村議会ができてからも封建的な名主制の名残から暴力や強権による支配が続いたことから若者層が変革を求めて村民総会を実現させたという証言を記録しています。旧来の支配層に抗して戦後の民主主義を求める若者の変革の意識を感じます。
ちなみに旧憲法下において町村総会を設置した事例が1件あります。神奈川県足柄下郡芦之湯村(現箱根町)で旧町村制の下で選挙権を有する公民による町村総会(名称は公民総会)が少なくとも1891年から1945年まで設置されたという記録が残っています。

連載コラム・日本の島できごと事典 その97《タイの楽園》渡辺幸重

海面から見える鯛の浦のタイ(ウィキペディアより)

千葉県の外房、太平洋に面して水族館「鴨川シーワールド」で知られる鴨川市があります。その鴨川シーワールドの東約7km周辺に位置する内浦湾から入道が崎にかけての一部海域が世界有数のタイ群生地になっており、約200ヘクタールの海域と陸地が「鯛の浦タイ生息地」として国の「特別天然記念物」に指定され、海域内では釣りなどの遊漁が禁止されています。1922(大正11)年に国の天然記念物となり、1967(昭和42)年に現在の特別天然記念物に昇格しました。船べりを叩くと天然のマダイなどが寄り集まってきて餌を食べる習性があることで知られており、本来は水深20~200mほどの砂礫底や岩礁帯などに棲み、同じ場所に長く居着くことが少ないマダイがなぜ浅い海に群れ集まっているのか、科学的な解明がされておらず、謎に包まれたままになっています。

鯛の浦の海域には伊貝島(いがいじま)や大弁天島(おおべんてんじま)・小弁天島などの小島・岩礁が浮かんでいます。1498(明応7)年の明応地震で地盤沈下が起きるまではこの周辺は陸地が多く、1222(貞応元)年に蓮華ヶ淵(蓮華潭)と呼ばれていた大弁天島・小弁天島の入り江付近で日蓮宗(にちれんしゅう)の開祖・日蓮が誕生しました。日蓮生誕の際には「三奇瑞(さんきずい)」と呼ばれる三つの不思議な出来事が起きたという伝説が残っています。
その一つは庭の片隅から泉が湧き出したこと、二つ目は庭先の海上に蓮華の花が咲き誇ったこと、三つ目はタイの群れが海面に現れ誕生を祝ったことです。蓮華ヶ淵の名前の由来はこの二つ目の出来事にあります。このとき、タイの群れは日蓮が「南無妙法蓮華経」と海面に書くとその文字を飲み込んだそうです。それからタイは日蓮の化身となり、この海域を禁漁としてタイに餌を与えるようになりました。地元では周辺のタイを食べることをせず、網にかかっても生きていれば放流し、死んでいれば誕生寺(たんじょうじ)境内のタイ塚に埋葬しました。昭和時代には「鯛のお葬式」まで行われたそうです。

誕生寺は1276(建治2)年に日蓮の生家跡に建立された日蓮宗の大本山で、明応地震で海中に没したため妙ノ浦に移り、さらに1703(元禄16)年の元禄地震による津波の被害を受けたあと現在の小湊に移転しました。
内浦湾一帯は南房総国定公園に含まれ、小湊漁港から小湊妙の浦遊覧船協業組合による鯛の浦遊覧船が運航されています。また、小弁天島の対岸には「波の間に 姿を見せつつ 鯛のむれ ふなべにあつまり あまたよりくる」という香淳(こうじゅん)皇后(昭和天皇の妻)の歌碑が建っています。

写真: 海面から見える鯛の浦のタイ(ウィキペディアより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%9B%E3%81%AE%E6%B5%A6