宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#1(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身

勝海舟の書が残る本陣

古い民家が軒を並べる信達宿内の旧紀州街道

勝海舟の書の扁額が、かつて本陣だった泉州の住宅に掛けられている、と聞いた。江戸城無血開城で中学校の教科書にも登場する勝海舟。私の愛読書、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』のなかで、幕府の海軍を切り開いた人物としてたびたび現れる。だが、泉州に足を運んだという記述は全くない。そもそも勝海舟の書には何が書いてあるのだろう。調べてみると、本陣だったこの住宅は大阪府泉南市の旧紀州街道の信達宿にあり、4月下旬に催される「ふじまつり」の数日間だけ内部公開されるとわかった。

旧旅籠の庭で開かれたふじまつり
旧信達宿本陣角谷家の長屋門

紀州公が愛したお宿

泉南市のHPによると、紀州街道は熊野街道の一部を、紀州藩と岸和田藩が参勤交代路として整備した。紀州徳川家は参勤交代の折、信達宿の角谷家本陣に一泊することがならわしとなったといい、今は「紀州公の愛した宿」が旧本陣のキャッチフレーズだ。勝海舟について、HPには「宿泊したという記録は残っていないが、文久3(1863)年4月、幕府の軍艦奉行であった海舟が、紀州加太の砲台検分のために紀州を訪れた際、宿泊したと考える」とある。
『竜馬がゆく』には「勝海舟」の1項が設けられている。司馬の記述によると、海舟は通称麟太郎。文政6(1823)年、本所亀沢町の小禄の御家人の子として生まれた。「門閥主義の幕府が、多少でも人材を求めるようになった時代でなければ、とうてい陽の眼を見なかったはずの家系」だったが、ペリー来航によって起きた幕末の風雲のなか、歴史の檜舞台に上がることになった。安政2(1855)年、長崎海軍伝習所に入門、同6年、軍艦操練所教授方頭取に任じられる。万延元(1860)年、幕府が日米修好通商条約の批准書交換のため遣米使節をポーハタン号で派遣した際、この護衛の名目で渡米させた咸臨丸に艦長として乗りくんだ。

文久2(1862)年、軍艦奉行並に就任。12月、老中格小笠原長行を乗せて順動丸で品川を出航、大坂に到着すると長行に兵庫で海軍操練所を建設するよう提案するとともに、海岸線の調査を行った。この順動丸に竜馬も乗ったと『竜馬がゆく』に記されている。竜馬は海軍操練所の運営に奔走することになる。
泉南市のHPに、海舟が文久3年4月に紀州を訪れたとあることは既に述べた。ウィキペディアによると、海舟は同年2月、先に京に向けて出発した将軍家茂の後を追う形で、順動丸で大坂に行った。このとき、砲台設置を命じられていたため検分につとめ、4月23日、京から大坂に下った家茂を順動丸に乗せて神戸まで航行。大阪湾を案内するなかで、神戸港を中枢港にするよう、進言した。
泉南市のHPの記述と合わせると、家茂を追って大坂に向かったあと、砲台を検分したさいに、信達宿に泊まったように思える。幕府軍艦奉行並といえば現在で言えば本省局長級のトップ官僚だ。お殿さまが泊まる本陣に泊まるのはおかしくないが、海舟が泉州に足を踏み入れていたとしたら、司馬ファンとしてはいささか意外である。司馬は『竜馬がゆく』のなかでなぜ、海舟の書のことはひと言も触れなかったのだろう。そんな疑問をかかえて私は信達宿を訪ねたのだった。

神も伸び伸びする「暢神(ちょうしん)」

勝海舟揮毫の扁額「暢神」

JR阪和線和泉砂川駅から西に約5分のところに、旧紀州街道がほぼ南北に延びている。道幅約4メートル。行き交う車がすれ違うのに一苦労するこの狭い道を、ずいぶん多くの人たちが列をなすように歩いている。どうやら「ふじまつり」が目あての行楽客のようだ。
格子窓のある古い民家がたたずむ街道を10分ほど歩くと、庭一面に藤棚がもうけられた住宅があり、その前に人だかりができている。そこが「ふじまつり」のメーン会場なのだ。中にはいってみた。幅10メートル、長さ30メールの庭に、所狭しと満開のフジの花が薄紫の房を垂れている。パンフレットによると、ここは梶本家の庭。梶本家は「油新」という屋号の油商兼旅籠。梶本昌弘さん(故人)が丹精込めて育てた1本の「野田藤」が樹齢43年のいま、華麗な世界を醸し出している。
海舟がこの地を訪ねたのも4月だが、おそらく旧暦だろう。フジは万葉の時代から日本人が好み、藤原氏という貴族まで生まれたが、海舟がいた幕末、花を愛でるような心の余裕はなかったであろう。
梶本家から5分くらいのところに、本陣であった角谷家の長屋門が建っている。入り口に「紀州街道信達本陣跡」と刷り込まれた提灯。そのそばに衣冠束帯の徳川吉宗の座像。この像といっしょに記念写真を撮ってもらおうという算段のようだ。八代将軍吉宗は元紀州藩主。将軍になる前、参勤交代の行き帰りに信達宿に宿泊したのであろう。享保の改革で倹約を奨励し、歴史に名を残したが、将来、徳川体制が揺らぐようになるとは夢にも思わなかったにちがいない。
本陣跡の住宅に入る。数室しかなく、草津宿本陣跡など今なお保存されている本陣屋敷のような大きな規模のある住宅ではない。普段は普通の住居として使用されているのであろう。「ふじまつり」のとき以外は非公開なのも成る程だ。海舟の扁額は二つの十数畳の座敷の欄間に掛けられていて、「暢神」としたためられている。奔放磊落なイメージの海舟としては意外におとなしく、上品かつ端正な筆致だ。「海舟」と、流麗な署名と押印がなされている。「暢神」とは「神を暢(の)ぶ」つまり「神の心も伸び伸びとさせる」という意味だという。
海舟はいったいどこからこの宿場にやってきたのだろう。砲台検分なら順動丸で大坂湾を航行したのであろう。泉南市南部の樽井漁港か北部の岡田浦海岸あたりの波止場に上陸し、本陣に直行したと思われる。そうであるなら、海舟は宿場内の街道をほとんど歩いていないことになる。本稿は信達宿を歩いて紹介するのが主たる目的である。海舟では本陣しか語れない。はたと困ってしまった。

陸奥宗光と海軍操練所

信達宿の南端に位置する大鳥居

海舟が海軍操練所建設を提案したことは触れた。信達宿は紀州藩と縁が深い。はっと気づいた。海軍操練所にやってきた紀州藩士がいたことを。『竜馬がゆく』のページを繰った。次のように記されている。
文久3年5月の暮れ、諸藩士や浪人たちが(神戸海軍操練所の)「航海練習生」になるために、ぞくぞくと神戸にやってきた。(略)こうしたなかで、ひとり白面の貴公子然とした青年がまじっていた。「土佐藩士伊達小次郎」とその青年は名乗った。(略)ふと気づくと、この若者は紀州なまりである。「君は、紀州人だな」と竜馬がいうと、ああ、ばれたか、と青年は平然としている。(あの伊達小次郎って若僧だけは見どころがありそうだな)竜馬は目をかけてやった。歳は竜馬より9歳下の20である。伊達小次郎は「たったいま名を変えた」という。「どんな名だ」ときくと、「陸奥陽之助宗光です」
もちろんフィクション交じりの記述である。だが、第2次伊藤博文内閣の外相時代、イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリア、フランスなど15カ国との不平等条約を改正、日清戦争ではイギリス、ロシアの中立化を図るなど「陸奥外交」として歴史上燦然と輝く成果をあげた。その陸奥は弱冠20歳のとき、海軍操練所に入門したのだ。
陸奥の父・伊達宗広は紀州藩の勘定奉行。藩主に従って江戸に向かう際、信達本陣に宿泊したことはあっただろう。しかし藩内の政争に敗れて失脚、一家は困窮に陥った。国学者でもある父を見て育った宗光は、藩に縛られずに生きていこうと心を新たにし、うわさで聞いた神戸の海軍操練所に入ることを決意したに相違ない。
宗光は和歌山から神戸に向かう途中、信達宿を通ったはずである。私は、思いつめたように歩く宗光に思いをはせ、観光マップを手に、宿場を和歌山側から歩き直すことにした。本陣跡からはバックしなければならない。(明日に続く)