宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#2(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身

宿場外れに夏の陣合戦場跡

江戸末期にたてられた3基の常夜灯
樫井古戦場の碑

高さ5メートルほどの大きな鳥居がみえた。近くに「信達神社御旅所跡」の石碑。信達神社は2キロ南東にあり、紀州街道からは離れている。この大鳥居が信達宿の南の端にあたるので、紀州街道を大坂に向かう旅人にとって格好の目印になったであろう。ここから十数分歩くと「ふじまつり」が行われた油商兼旅籠「油新」。さらに進むと、道端に三つの常夜灯が並んでいる。いずれも高さは1・5メートル。泉南市のHPによると、文政のお陰参りに際し、伊勢神宮への信仰と道中の安全祈願のために建てられたという。このお陰参りは文政13年なので、宗光が神戸に向かったときはまだ設置されていなかった。
この常夜灯のすぐ先に本陣がある。宗光は元紀州藩の奉行の子だ。本陣に泊まれないことはないだろう。海舟の書を見たという証拠はないが、海軍操練所を発案したのは海舟であることは知っていたはずだ。海舟の書に接した可能性がないとはいえない。
「暢神」というその書から宗光は「新しい時代に向かって進んでいくのだ」と決意を新たにしたに相違ない。神ですら伸び伸びするというのである。ましてや人が伸び伸びできる時代がもうすぐやってくる。海軍操練所で力を発揮するのだ。と、宗光の心は躍動したであろう。
本陣から20分先に一岡神社。白壁の本殿だけのこじんまりとした神社だが、説明板には欽明天皇に時代に創建されたとあり、由緒は正しいようだ。信長の焼き討ちで焼失したが、1596年、村民の手によって再建されたという。江戸時代、この神社が信達宿に北の端の目印だったであろう。大鳥居からここまで約2キロの距離だ。
観光マップを見ると、さらに北に「樫井古戦場の碑」がある。「大坂夏の陣」との添え書きがあり、がぜん興味がわいた。
20分ほど歩き、樫井川という幅50メートルくらいの川を渡ると、高さ2・5メートルの石碑が建っている。碑文によると、大坂方の武将、塙団衛門と岡部大学が先陣争いをした結果、徳川勢に攻め込まれて岡部軍が敗走、塙軍は孤立し団衛門は討ち取られた。この樫井合戦での敗戦が大坂方の士気をくじくことになった。宗光は、徳川体制が確固たる基盤を築くきっかけとなった合戦場の跡を歩きながら、250年がたった今、徳川の世が終わらんとしている時の流れに思いをいたしたのではないだろうか。

海舟の宗光の接点

本稿は勝海舟と陸奥宗光を登場させて、信達宿に迫ろうとした。では海舟と宗光に接点はなかったのだろうか。勝部真長編『勝海舟語録 氷川清話(付勝海舟伝)』(角川ソフィア文庫)をひもといた。『氷川清話』は海舟が晩年、東京・赤坂、氷川神社そばの勝亭で語った回顧談を弟子らが記録したもので、刊行されたのは1898年と推定されている。そのなかに「陸奥宗光」が一つの項としてたてられており、海舟が宗光をどう見ていたかがわかる。

以下はその要約である。

陸奥宗光はおれが神戸の塾(神戸海軍操練所)で育てた腕白者であった。おれの塾へきた原因は、紀州の殿様から「いのしし武者のあばれ者をお前の塾で薫陶してくれまいか」との御沙汰があり、わざわざ紀州へいって、腕白者25名を神戸の塾に連れて帰ることになったが、陸奥だけはほかの24名とは少し違った事情があった。藩の世話人が「拙者の弟の小次郎と申す腕白者があるからこれも一緒に連れて帰ってひとかどの人物に仕上げてくだされ」と頼んだから、それで24名と共に陸奥も連れて帰った。
この通りだとすると、宗光は25人の腕白者の一人として、紀州から神戸に向かったことになる。私は『竜馬がゆく』を念頭に、竜馬が海舟に深く傾倒した影響を受けて、宗光も海舟に敬服の念を抱いていたと考えた。だから、信達宿本陣で海舟の書に接し、胸が熱くなったと思いたいのだが、私の想像のような事実はなかったのかもしれない。
しかし、宗光が海舟の影響を受けなかったはずはない。なぜなら海舟は『氷川清話』のなかで「おれはずいぶん外交の難局に当たったが、しかし幸い一度も失敗しなかったよ。外交については一つの秘訣があるのだ」といい「外交の極意は『正心誠意』にあるのだ。ごまかしなどをやりかけると、かえって向こうから、こちらの弱点を見抜かれるものだよ」と述べている。宗光が不平等条約の是正という明治政府の悲願をやってのけたことはすでに述べた。勝流の「正心誠意」の交渉が難局打開につながったのかもしれない。
海舟が亡くなったのは1899年。その2年前、宗光は死亡した。海舟はその死の報に接して哀歌をよんだ。

桐の葉の一葉散りにし夕(ゆうべ)より
落つるこの葉の数をますらん

海舟はキリの葉が落ちるようなもの寂しさをおぼえたのであろうか。
「暢神」の書そのものごとく、海舟、宗光は新しい時代を作るために伸び伸びとした人生を送ったのであった。海舟、宗光という歴史上の大巨人からみれば、信達宿本陣に泊まったかどうかは、あまりにも小さなことではある。とはいえ、宗光が海舟の書を目にしたという証拠が見つかれば、近代史研究上の大発見であることは間違いない。(完)