連載コラム・日本の島できごと事典 その103《墓参》渡辺幸重

硫黄島島民平和祈念墓地公園(小笠原村公式ページより)

小笠原諸島・父島の西方から南に、西ノ島から南硫黄島まで並ぶ島々を火山列島(硫黄列島)と呼びます。北硫黄島と南硫黄島の中間に浮かぶのが硫黄島(いおうとう)で、第二次世界大戦中に日本軍約2万人が戦死した“玉砕の島”として知られます。島には1940(昭和15)年4月の硫黄島村(いおうじまむら)施行時点で1,051人が住んでいましたが、第二次世界大戦末期の1944(同19)年7月に軍属を除く全住民が本土に強制疎開させられました。戦後の硫黄島は米軍統治となり、1968(同43)年の返還以降も自衛隊員しかいない“基地の島”となり、元島民といえども自由に行き来できなくなりました。旧島民は返還翌年に「硫黄島帰島促進協議会」を結成して帰島を求めましたが、日本政府は硫黄島の火山活動が激しいことを理由に「一般住民の定住は困難」として帰島を認めない状態が続いています。

旧島民の間には「島に戻りたい」という気持ちが強く、せめて「島の土を踏みたい」「墓参りをしたい」という願いを持っています。そこで東京都は1965(同40)年に硫黄島墓参事業を始めました。1997(平成9)年からは小笠原村も「ゆとりある墓参と里帰り」として年1回おがさわら丸による硫黄島訪島事業(墓参)を行うようになりました。激しい戦闘によって破壊された島の墓は1990(同2)年に「硫黄島島民平和祈念墓地公園」として整備され、「硫黄島旧島民戦没者の碑」や「硫黄島開拓之碑」も建てられました。2002(同14)年6には訪島する旧島民や小笠原村職員用の宿泊施設「硫黄島平和祈念会館」も開所しています。

ところが村の訪島事業は2016(同28)年から中断されています。これは同年に登場した3代目おがさわら丸が2倍近い大きさになったことに加えて、硫黄島が隆起し、おがさわら丸の係留地点の水深が浅くなって船が島に近づけなくなったからです。一方、東京都が春と秋の2回実施している訪島事業は新型コロナウイルスの影響で2020(令和2)年春から約2年半中断しました。2022(同4)年10月に再開しましたが、自衛隊輸送機を利用しているため、滞在時間の少ない日帰りで、定員も付き添いを含め30?50人と少なく、希望しても参加できないのが実情です。硫黄島帰島促進協議会は村に対して事業再開、都に対して実施回数や定員の増加などを要望しています。

107歳で亡くなったある女性は生前「パパイアやバナナが自生し、2月にスイカが採れる豊かな島だった。島に戻って畑をやりたい」と語っていたそうです。協議会(会員約120人)の元島民約40人の大半は90歳以上になりました。二世も高齢化が進んでいます。北方四島や福島県の原発事故での避難などを見てもわかるように故郷の地に戻りたいという思いは強いものがあります。

また、硫黄島での戦没者約2万2千柱のうち収容遺骨数は半数の約1万1千柱(2022年現在)で、DNA鑑定による身元判明者は6柱にすぎないことも忘れてはいけないと思います。