びえんと《川柳人・鶴彬の反戦魂002》文・井上脩身

戦時下俳句の証言

五七五といえば一般的にはまず俳句を思い浮かべるだろう。柄井川柳の名前を知る人は少ないが、芭蕉を知らない人はまずいない。では反戦俳句を詠んだ例はあるだろうか。
『戦時下俳句の証言』(高崎隆治著、新日本新書)を開いてみた。
同書は日中戦争開始から太平洋戦争の敗戦までの間に発表された俳句の中から約150点を収録、それぞれの句を著者が注釈している。戦地編と内地編に分けて編成されていて、残忍な句が多いのは、当然のことながら戦地編だ。目に留まった句を挙げる。(カッコ内は著者の注釈から引用)

童子死ねり浅き散兵壕に寄り
(童子は中国の少年兵。15歳前後。日中戦争当初から最前線で戦った)

憎しみもなく首を打つ日寒く
(中国兵の捕虜を日本刀で切った。しかし切ったのは作者ではない)

いま兵が死にゆく暖炉すでに消え
(作者は残された衛生兵。死ぬ者のために暖炉は必要ない)

忍従の兵這ひ泥土馬を喰ふ
(泥濘の中での言語に絶する苦闘)

一本の煙草吸ひ終へず睡魔くる
(極限状態の露営の句)

戦ひの下けふも生きて凍飯(こごり)食ひにけり
(飯盒飯が凍ると箸を突き立てることもできない)

兵かなし夢にふるさと見んと言ひぬ
(妻子ある年配の応召兵の作か)

戦友を焼くことに馴れゐて寒かりき
(遺体を焼きながら自分の運命に涙する)

冬の日や灰に残れる妻の文字
(行軍が苦しく、所持品を軽くするため妻の手紙を焼いた)

蠅が吸ふ捕虜の眼二つとも撃たれ
(目が見えず捕虜となった兵の目にたかるハエ)

灯(ひとも)せば火蛾より先に来る敵機
(制空権を完全に失った南方戦線)

たたかひは蠅と屍をのこしすすむ
(兵士の糞便と死体でハエが何万倍も増える)

酷熱の野を行く骨と皮の民
(近隣諸国の人々は日本の過去を許していない)

凍死人日ごと衣をはがれゐし
(上海での1939、40年ころの凍死者は年に2万人におよんだ)

これらの句は戦争のもつ非情さ、無残さを詠んだ秀句であろう。本のタイトル通り、歴史の証言でもある。この意味で非常に価値高い作品ではあるが、読み手を圧倒する迫力では鶴彬の川柳作品にはかなわない。芭蕉から正岡子規、高浜虚子らに至る俳句の流れをみると、作品にはいずれも気品があふれている。人間を将棋のコマよりも軽く扱う戦争という残酷な現実を表すのに、俳句は本質的に向いていないのであろうか。
川柳が俳句の半分でも浸透していたら、「戦時下川柳の証言」という本が生まれたかもしれない。

「新しい戦前」のなかで

本稿は『反戦川柳人鶴彬の獄死』という新刊本の書評を引用して書きはじめた。書評氏が「『新しい戦前』とも言われる時代に何ができるか、すべきかを考えさせられる」と結んだことはすでに触れた。
鶴彬が獄死したのは1938年。敗戦の7年前に当たり、まさに戦前、反戦川柳作家として精力的にかつ果敢に活動したのである。同書の著者、佐高信氏は「1910年の大逆時代を皮切りに、鶴の生きた時代をたどれば、それはそのままファシズム激化の時代である」と述べ、「1938年の国家総動員法の年に鶴はその生涯にピリオドを打たれる」と書く。鶴の死後、戦争は拡大の一途をたどり、210万人もが命を落とす悲惨な結末を迎えた。

「新しい戦前」と呼ばれるいま、鶴が獄死したころと似た状況にあるのだろうか。
まず踏まえておかねばならないのは「戦後」とは何かである。
私は1946年11月3日の憲法発布(施行は1947年5月3日)から戦後が始まると考えている。その憲法の根本は絶対に戦争をしないという決意である。戦争によって日本国内だけでなくアジアの人たちを悲劇の渦の中に巻きこんだ戦前・戦中という暗黒時代の反省から、国民の支持を得て生まれたのが憲法なのである。
政府は2022年12月、国家安全保障戦略の中に敵基地攻撃能力の保有を明記した。岸田文雄首相は北朝鮮や中国を念頭に、「わが国周辺のミサイル能力が向上しており、相手からのさらなる武力攻撃を防ぐために敵基地攻撃能力が必要」と説明、2113億円をかけてアメリカで開発された巡航ミサイル、トマホークを配備することを決定。2027年度までに防衛費を43兆円と現行の1・57倍に増額すると表明した。

安倍晋三政権下、憲法9条を強引に拡大解釈し集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をした。ひどい憲法違反決定であるが、それでも一応、「自衛」という名目だけは残していた。「敵基地攻撃能力」は自衛すらもかなぐり捨て、積極的に相手を攻撃しようというものである。もはや憲法はなきものと言っても過言ではない。鶴が獄死したのは日中戦争が始まって2年目である。現在、中国とは戦争状態にはないが、岸田首相は繰り返し、中国の軍事行動について「深刻な懸念」と表明しており、日中間の軍事的緊張感は強まるばかりである。

実際に戦争が起きると、「万歳とあげて行った」ものの、「手と足をもいだ丸太」になるのだ。今できることは何か。川柳をかじったことのある一人として、鶴彬の川柳を少しでも多くの人たちに紹介し、読んでもらうことだろう。

本稿を自作の川柳句で締めくくりたい。

税金が上がる軍靴の音上がる       (完)

びえんと《川柳人・鶴彬の反戦魂001》文・井上脩身

ジョン・ウェインもびっくりトランプ西部劇

私が入っていた川柳の会に投句した句である。大統領在任中のトランプ氏の人種差別的傾向を詠んだのであったが、再選を目指した大統領選で敗れたあとの醜態をみると、冒頭の句の生ぬるさに恥じ入った。滑稽洒脱を表す川柳としては悪い句ではないが、しょせんは小手先だけの言葉遊びに過ぎないと、一種の自己嫌悪に陥り、1年前に会を辞めた。その後も、川柳はどうあるべきか、自問自答を繰り返し、悶々と日々を送るなか、戦前、鶴彬(つる・あきら)という川柳人がいたことを知った。

万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た

鶴彬のこの句に私が頭をガーンとたたかれるおもいがした。鶴彬は反戦のおもいを、マグマの噴出のように激烈に作句し、29歳で獄死したのであった。

心の奥深く食い入る作品

鶴彬を知ったのは、新聞の書評欄に出ていたからである。本は佐高信著『反戦川柳人鶴彬の獄死』(集英社新書)。書評には「筋金、しかも尋常でない太さと堅さを持った筋金入りの反戦反軍国主義人の評伝」とある。(6月24日、毎日新聞)
鶴彬の短い人生を紹介するには、この書評欄の記述が要領よくまとめられており、書評記事から引用したい。

鶴彬の本名は喜多一二(かつじ)。1909年、石川県に生まれ、若くして社会主義を学んだ。1930年、陸軍に入隊。2カ月後、3月10日の「陸軍記念日」、連隊長が「軍人勅諭」を「奉読」しているさなか、「連隊長、質問があります!」と突然申し出た。鶴は左翼思想を連隊内で拡大すべく活動。軍法会議で懲役2年を言い渡され、最下級の2等兵のまま除隊。

こうした中でも川柳句を作り、戦争にまみれた国と軍国主義を痛烈に非難し続けた。前述の句など、中国戦線で最前線に立った兵士たちを詠んだ作品を通して、戦争を始めた為政者たちは戦場の最前線には行かない、行く・行かされて心身にけがをしたり命を落としたりするのは庶民、という事実を鋭く突いた。日中戦争が始まって1年後の1938年9月14日、獄死した。

軍国主義、ファシズムと闘った「民衆柳人」の生き様を知るにつけ、「新しい戦前」とも言われる時代に何ができるか、すべきかを考えさせられる。と書評氏は結んでいる。早速『反戦川柳人鶴彬の獄死』を購入した。
鶴の作品が初めて世に出たのは1924年10月25日の北国新聞夕刊。治安維持法の制定(1925年)への動きなど、政府の思想弾圧が厳しくなりだしたころだ。

暴風と海との恋を見ましたか

早熟な才能が認められ、1925年、16歳のころから雑誌に寄稿し、川柳文壇に踏み出す。

出征の門標があってがらんどうの小店

屍のゐないニュース映画で勇ましい

鶴は師範学校進学を養父に認められず、養父が経営する機械工場で働き、劣悪な女子工員の労働実態を目にする。

もう綿くずを吸へない肺でクビになる

吸いにゆく?―姉を殺した綿くずを

18歳のとき東京へ出て井上剣花坊に師事。金融恐慌で倒産が相次いでいた。

目かくしをされて阿片を与えられ

釈尊の手をマルクスはかけめぐり

高く積む資本に迫る蟻となれ

都会から帰る女工と見れば病む

19歳のとき、高松プロレタリア川柳研究会の中心メンバーとなる。

人見ずや奴隷のミイラ舌なきを

鶴に対する官憲の目が厳しくなり、剣花坊の庇護を受けて作句。

屍みなパンをくれよと手をひろげ

プロレタリア生む陣痛に気が狂ひ

監獄を叩きつづけて遂に破り

1933年、金沢の第七連隊に入る。抵抗をつづけ、大半を監獄で過ごした。

出征のあとに食えない老夫婦

ざん壕で読む妹を売る手紙

暁をいだいて闇にゐる蕾

タマ除けを産めよ殖やせよ勲章やろう

鶴は800点以上の作品をかいた。すでに触れた「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」にみられるように、弾圧され、おそらく拷問されてもひるまずに作った句の激しい表現に読み手は圧倒される。
その最後の作品。

手と足をもいだ丸太にしてかえし

「人々の心の奥深く食い入る反戦平和の作品」と評価の高い傑作である。

(明日に続く)

 

 

編集長が行く《太宰治の生家「斜陽館」03》文・写真 井上脩身

編集長が行く《太宰治の生家「斜陽館」02》文・写真 井上脩身

生活力なき貴族のプライド

斜陽館裏手界隈(向こうの建物は斜陽館)

斜陽館近くでバスを降りると、リンゴの甘酸っぱいにおいがした。斜陽館観光の客目あてにリンゴ市場が開かれているのだ。そこから斜陽館は目と鼻の先。だいだい色の屋根に覆われた2階建ての住宅が、あたりを睥睨するように建っている。加えて通りに面してめぐらされた頑丈そうなレンガ塀が、「この中は特別地帯」とばかりに周囲を隔てている。

中に入ると、1階は江戸時代の宿場の本陣屋敷に見られる造り。座敷が幾重にも連なっており、主人である津島源右衛門が客人をもてなすために宴会を派手に行ったのでは、と想像をはたらかせた。私が興味をおぼえたのは2階に上がる階段と、2階の応接間だ。階段は勾配がゆったりとしているうえ、丁寧に細工が施された手すりがついている。鹿鳴館の影響を受けたのであろうか。応接室は20畳ほどの広さ。窓に取り付けられた調度品も気品があり、情趣あふれる部屋である。

明治に入って、薩長の志士たちが高い位を得て、文明開化時代の貴族となった。私は「斜陽館」の部屋々々を見てまわり、「津軽の貴族」という印象をもったのだった。源右衛門が貴族院議員になったのも、さもありなんであろう。

外に出て、斜陽館の周辺を歩いた。朽ちかけた家、古ぼけた家が多く、観光客も足を運ばない裏手の界隈はひっそりと沈んでいる。斜陽館以外は″斜陽地区″なのだ。

津軽鉄道の金木駅に向かった。さびれた線路のはるか向こうに岩木山のどっしりとした山容が曇り空の下でかすんでいた。一両の列車の窓から見た金木の里は、灰色にくすんでいて、斜陽館の屋根だけがつき出ている。

小説『斜陽』には太宰の生家はおろか、津軽そのものが登場しない。舞台は伊豆半島。「日本が無条件降伏をしたとしの、十二月のはじめ」に「東京の西片町のお家を捨て、伊豆のちょっと支那風の山荘に越して来た」姉と弟の物語だ。山荘は売りに出された河田子爵の別荘。いっしょに暮らしていた母が結核で亡くなり、姉は妻子のある恋人を、東京・西荻窪の六畳の間くらいの部屋にたずねる。すると「わあっわあっとひどく騒がしいお酒盛り」をしているところだ。「ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」とだれかが言って、「ふざけ切ったリズムでもって弾みをつけて、無理にお酒を喉に流し込んでいる」のだ。

恋人は「僕は貴族はきらいなんだ」と言い、「あなたの弟の直さんも、貴族としては、大出来の男なのだが、時々ふっと、とても附き合い切れない小生意気なところを見せる」と言い加える。

姉が伊豆に戻ると弟が遺書を残して自殺していた。弟は画家の奥さんに恋していた。「僕には、所謂、生活能力が無いんです。お金の事で、人と争う力がないんです」という弟は、姉の恋人から「それが貴族のプライド」と突き放され、「僕は、死んだほうがいいんです」と命を絶ったのだ。

弟は太宰自身であろう。文庫本(角川文庫)で200ページのごく一部を引き出しただけだが、以上をみても、テーマが「貴族の没落」であることは明らかだ。

考えてみれば、斜陽館そのものが没落貴族の象徴であろう。大地主であった太宰の生家は、戦後の農地解放で、かつての富豪も見る影なくズタズタにされたのだ。太宰はどう生きるべきか、その目標を見いだせなかったのかもしれない。

30年で首位から35位に

太宰が生きた戦前、わが国にも貴族がいた。公爵など爵位のある華族である。日本は戦後、憲法施行とともに華族制度が廃止され、法律上の貴族は存在しない。一方、イギリスでは「世襲貴族」と呼ばれる層が今なお存在する。爵位を世襲できる貴族のことで、2021年11月現在、公爵家30、侯爵家34、伯爵家191、子爵家111、男爵家443、計809家が世襲貴族である。「法の下の平等」という憲法の精神からすれば、華族制度がないわが国の方がはるかに全うだといえる。

しかし、これは法律上のことである。「世襲」自体はまかり通っているのだ。

岸田首相と長男、翔太郎氏(右)(ウィキベテアより)

岸田首相自身世襲3世であることは冒頭に述べた通りだ。その岸田内閣の全閣僚20人のうち、父親が国会議員だった者は首相も含めて8人。夫や叔父などの親族に国会議員経験者が要る人を含めると11人と過半数になる。首相だけに限ると、1996年に小選挙区が導入されて以降の12人のうち、世襲でないのは菅直人、野田佳彦、菅義偉の3氏だけ。自民党に限れば菅義偉氏以外はすべて世襲組だ。小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎の各氏は父親と同じ選挙区を引きついだ。安倍、麻生両氏の祖父は首相を務めた岸信介、吉田茂各氏である。

世襲候補者が当選できる理由について、ジバン(地盤=後援会)、カバン(鞄=選挙資金)、カンバン(看板=知名度)を引きつげるから、と説明される。カバンだけでなく、ジバンもカンバンも潤沢な財源がなければ獲得できるものではない。岸田首相の場合、父文武氏が宮沢喜一元首相と遠縁に当たっており、岸田首相は岸田家一族の代表として首相に上り詰めたといえるだろう。

こうした家として独占的地位を獲得できる実態を見れば、もはや貴族というほかない。藤原氏や平氏にみられるように、その家の一員であるだけで、議員バッジはおろか大臣にまでなれるのだ。

「奢れる平氏」といわれた。貴族は奢れるのだ。翔太郎氏は昨年末、総理公邸で親戚と忘年会を開き、新閣僚が記念写真を撮るひな壇で写真撮影したことが週刊誌に報じられたが、岸田家4世としてのおごり以外の何ものでもあるまい。

「奢れる平氏」は「久しからず」とつづく。世襲が当たり前になると、世襲以外の者の活躍の場がなくなり、全体として活力が失われるのは火を見るより明らかだ。

スイスの国際経営開発研究所(IMD)が発表した2023年版「世界競争力ランキング」で、日本が前年よりランクを一つ下げ、世界35位となった。IMDは「政府の効率性」などの4項目で競争力を評価するもので、1989年から4年間は世界首位だった。今回の発表では、アジアに関してシンガポール(4位)、台湾(6位)、香港(7位)は別格として、中国(21位)、マレーシア(27位)、韓国(28位)タイ(30位)、インドネシア(34位)にも後れをとっている。

『斜陽』では、弟は「人と争う力がないんです」という。私も争うのは好きでないが、かといって「生活能力が無い」のは困りものだ。時代の行く先を読めぬ貴族が没落するのは世のならいではあるが、世襲政治の結果、わが国の競争力がガタ落ちしているならば、ことは深刻である。

貴族院議員という文字通り貴族政治家の父をもちながら、太宰は政治家を世襲せず、文学の世界に進んだ。彼の文学もそして生き方も破滅的であったが、文学界に大きな波紋を起こし、死後75年がたった今も世代を超えて数多くの太宰ファンがいることも確かだ。

わが国が斜陽状態を脱するためには、まず政治家の世襲を禁止すべきであろう。太宰の『斜陽』はそのことを教えているのである。(明日に続く)

編集長が行く《太宰治の生家「斜陽館」01》文・写真 井上脩身

世襲まかり通る斜陽国家

斜陽館

 岸田文雄首相は6月1日、総理秘書官である長男、翔太郎氏を「総理公邸で不適切な行動をした」として更迭した。岸田首相は祖父、父も衆院議員を務めた3世議員。翔太郎氏を4世にするために秘書官に任命したのではといわれ、翔太郎氏の不祥事を機に、世襲批判が国民の間で一気に噴き出した。わが国が斜陽国家になり下がったといわれて久しい。その一因に、世襲がまかり通っていることがあるのではないか。その末路はどうなるのか。私はコロナ禍のなかを訪ねた青森県五所川原市の斜陽館を思い浮かべた。作家・太宰治の生家である。戦後間なしに心中自殺をした太宰は貴族院議員の御曹司であった。

金木の殿様の大豪邸

 学生時代、青森県出身の友人がいた。彼の母校が旧制中学校時代に太宰が卒業したこともあってか、太宰文学に傾倒していた。彼に影響されて、太宰の代表作である『斜陽』を読んでみたが、自殺を図る登場人物の心情に共感することができず、私は大江健三郎に夢中になった。

 コロナ禍が始まった2020年、わが国の国民1人当たりのGDP(国内総生産)は世界26位に転落した。1989年の4位から30年間で大きく落ち込んできたのだ。G7(主要7カ国)の一員でありながら、内実が全くともなっておらず、実態は「斜陽国家」といわれる。斜陽とはどういうことだろう。

 私は太宰の『斜陽』を読み返した。そして斜陽館を訪ねたのであった。

『斜陽』の内容を語る前に、斜陽館を紹介しておきたい。

 正式名称は五所川原市立「太宰治記念館『斜陽館』」。1907(明治40)年に建設された木造2階建て入母屋造りの近代住宅。2004年、国の重要文化財に指定された。

 同館の案内チラシなどによると、敷地面積2255平方メートル、延べ床面積1302平方メートルの大豪邸。1階に11室、2階に8室があり、旧銀行店舗部分や階段室、応接室を配した和洋折衷建築。母屋をはじめ文庫蔵、中の蔵、米蔵などの土蔵や、敷地を囲むレンガ塀を含め、屋敷全体がほぼ建設当時のまま保存されている。

 太宰(本名・津島修治)は1909(明治42)年、斜陽館が建って3年目に、県下有数の大地主であった津島源右衛門の六男として生まれた。源右衛門は県会議員、衆院議員、さらに多額納税による貴族院議員などを務めた名士。当時の住所は北津軽郡金木村だったので、津島家は「金木の殿様」と呼ばれていた。源右衛門は1923(大正12)年、肺がんで死去。太宰は青森中学を経て弘前高校に進学。在学中に芥川龍之介の自殺を知り、衝撃を受けたという。1930(昭和5)年、東大に入学し、その年、カフェの女給と心中未遂事件を起こす。1935年、東大除籍。1940年『走れメロス』、1947年『斜陽』を書き、翌1948年、『人間失格』を完結させた後の6月13日、愛人の山崎富栄と東京・三鷹市の玉川上水に入水心中。38歳のときである。

 以上、太宰の生涯を足早に紹介したのであるが、その生家を「人間失格館」でも「走れメロス館」でもなく「斜陽館」と命名したのはなぜであろう。そんな思いを内にこめて、「斜陽館」を訪ねたのだった。(明日に続く)

 

原発を考える。《原発事故による甲状腺がん発症者数判明》文 井上脩身

宗川吉汪・京都工芸繊維大学名誉教授(ウィキベテアより)

 福島第1原発の事故によって甲状腺がんを患ったとして6人が東京電力を訴えた「子ども甲状腺がん訴訟」が重大な局面を迎えた。政府や東電が、事故とがんの因果関係を否定するなか、宗川吉汪・京都工芸繊維大学名誉教授が、福島県で行われた検査データを詳細に分析し、事故による甲状腺がん発症者数を科学的に明らかにしたからである。宗川氏は分析プロセスを『福島小児甲状腺がんの「通常発症」と「被ばく発症」』(文理閣)として、本にまとめて刊行。甲状腺がん訴訟の原告たちを勇気づけるだけでなく、裁判の行方に大きく影響するのは必至である。

 

無理な県の因果関係否定論

『福島小児甲状腺がんの「通常発症」と「被ばく発症」』の表紙

 原発事故と甲状腺がん発症の因果関係については、福島県が2011年、事故当時18歳以下の県民37万人を対象に1巡目検査を行い、以降は2011年度に生まれた1万人を加えて、2巡目(2014,15年度)、3巡目(2016,17年度)の検査が行われた。検査によって判明した患者数、罹患率(人口10万人あたり)についてA(避難区域13市町村=大熊町、楢葉町、南相馬市など)、B(A地区以外の中通り12市町村=福島市、郡山市など)、C(A地区以外の浜通りとB地区以外の中通り17市町村=いわき市、相馬市、須賀川市など)、D(会津地方17市町村=会津若松市、喜多方市など)の4区域に分けて公表された。

1、2巡目の結果は以下の通りである。

 1巡目(患者数計115)

  A地区 患者数14  罹患率45・8

  B地区 患者数56  罹患率56・7

  C地区 患者数33  罹患率55・3

  D地区 患者数12  患者数50・8

 2巡目(患者数計71)

  A地区 患者数17  罹患率65・6

  B地区 患者数35  罹患率37・4

  C地区 患者数14  罹患率22・2

  D地区 患者数 5  罹患率19・0

 3巡目は患者数計31、4巡目は患者数37。(地区別内訳は省略)

 宗川氏はこの結果から、調査に当たった福島県の県民健康調査検討委員会の評価部会は「検査2巡目で発見された甲状腺がんには原発事故の影響が出ている」との結論を出すと思った。しかし2019年6月、同部会は「避難区域13市町村、中通り、浜通り、会津地方の順に(罹患率が)高かった」と認めながら「検査年度、検査間隔など他の多くの要因が影響を及ぼしている」とし、事実上、事故と発症の因果関係を否定した。

 1巡目のデータで地域差が出なかったのは、事故から時間がたっていないことが関係しているのであろう。しかし、事故から3,4年を経た2巡目では地区によって差が大きくなっていることは誰の目にも明らかだ。しかも、放射線量が高かった地域で罹災率が高くなっているのだから、事故の影響とみるのがまっとうな判断であろう。

ではなぜ部会は無理な結論に至ったのであろう。「事故が甲状腺がんを引き起こした、という結論は困る」という国や県の圧力があったと疑うしかないだろう。宗川氏は同書のなかで「初めに結論ありきで、地域差を否定した」という。

かねて小児甲状腺がんについては年間100万人に数人しか発症しないといわれていた。しかし宗川氏によると、のどの腫物、声がしゃがれる、のみ込みにくいなどの症状が現れず、無自覚のまま発症していることがほとんどで、発症数実態は正確には捉えられていなかった。そこで宗川氏は検査データを基に、原発事故前の福島の小児甲状腺がんの「通常発症」の頻度の解析を行った。患者数がわかっているのだから、通常発症数を差し引いた数字が被ばく発症数になるのである。

罹患率高い避難地区

子ども甲状腺がん訴訟の原告たち(ウィキベテアより)

宗川氏はまず1巡目検査結果から、各地区ごとの事故時の推計をした。事故からの経過年数を横軸に、罹患率を縦軸にしてその推移をグラフにして値を導くのが宗川氏の手法。その計算式の説明は数学が苦手な私には手にあまる。プロセスを省くことをご容赦願いたい。

計算の結果導かれた事故前の患者数はA地区9人(全数14人)、B地区28人(同56人)、C地区16人(同33人)、D地区6人(同12人)、4地区合計59人(同115人)。

全数引く事故前患者数が事故後患者数である。その数字はA地区5人、B地区28人、C地区17人、D地区12人、4地区合計56人。この事故後患者数が原発事故による被ばく患者数と推計できるのだ。

2巡目以降も同様の手法で計算した通常発症数と被ばく発症数は次の通り(1巡目は前述と重複)。

1巡目

 通常発症25 被ばく発症31、計56

2巡目

 通常発症29、被ばく発症42、計71

3巡目

 通常発症22、被ばく発症9、計31

4巡目

 通常発症20、被ばく発症17、計37

 2巡目の検査の際、事故による被ばく発症者が急増していたことがデータ上明白になった。しかし1巡目、つまり事故の直後から発症した例も少なくないことも浮かび上がった。

同書には事故後の地区ごとの被ばく発症割合もまとめられている。

A地区 全患者数30、被ばく発症数18、被ばく発症割合60・0%

B地区 全患者数89、被ばく発症数50,被ばく発症割合56・2%

C地区 全患者数56、被ばく発症数24,被ばく発症割合42・9%

D地区 全患者20、被ばく発症数7、被ばく発症割合35・0%

このデータをみても、放射性物質の飛散量の多い地区ほど甲状腺がん罹患率が高いことが歴然としている。

福島県では2017年度から2020年度まで、25歳時の検査が行われた。以下はその結果である。 

2017年度 受診者数2324、患者数2、罹患率(人口10万人当たり)86・1

2018年度 受診者数2224、患者数4、罹患率179・9

2019年度 受診者数1754、患者数5、罹患率285・1

2020年度 受診者数1812、患者数2、罹患率110・4

合計 受診者数8114、患者数13、罹患率160・2

宗川教授の計算では、受診者全員が1巡目から受信し、25歳で初めて発症したと仮定すると、通常発症患者はゼロ人、受診者全員が25歳まで受診しなかった場合、通常発症者は1人になる。したがって25歳時に発症した患者13人のうち12人が被ばく発症になる。

福島県の検査で発見された小児がんの原因については、「被ばく多発説」と「スクリーニング多発説」の二つに分かれる。被ばく多発説は検査で見つかった甲状腺がんのほとんどは放射線被ばくによって発症したというものだ。一方、スクリーニング発見説は超音波検査によるスクリーニングで見つかったもので、放射線被ばくと無関係に発症したという意見だ。

宗川氏は自ら解析して得たデータから、被ばく多発説、スクリーニング多発説のいずれも「正しくない」と結論づけた。

 問題はスクリーニング多発説が国、県、東電にお墨付きを与え、放射線被ばくによるがんの発症をなかったことにしようとする姿勢である。宗川氏はスクリーニング多発説について「検査で見つかったがんがすべて通常発症であるなら、検査2巡目でなぜ地域差が出るのか。25歳時検査での罹患率が異様に高いのはなぜか。被ばく発症を無視したのでは説明できない」と、痛烈に批判している。

全ての患者の救済が課題

2022年1月27日、小泉、細川、菅、鳩山、村山の5元首相が、原発をクリーンエネルギーとして認める方針を示した欧州委員会に、原発使用を止めるよう要請する手紙を送った。この中に「多くの子どもたちが甲状腺がんに苦しみ」とあるくだりに、高市早苗自民党政調会長(当時)らがかみついた。「甲状腺がんに事故の影響がないことは福島県の専門家の会議が認めており、誤った情報は言われない差別を助長する」というのであった。

5元首相の手紙送付と同じ日、原発事故当時6~16歳で、事故後の検査で甲状腺がんと診断された6人が、被ばくで発症したとして東京電力に損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。弁護団長は2006年3月、金沢地裁の裁判長として志賀原発の運転差し止めを命じた井戸謙一氏、副団長は数多くの原発訴訟の弁護をしている渡海雄一氏らという強力な布陣である。

原告は「小児甲状腺がんは100万人に2人程度の希少がん」としたうえで①原告らは全員相当量の被ばくをした②甲状腺がんの危険因子は放射線被ばく③原発事故後、福島で小児甲状腺がんが多発――などを挙げて、「原告が甲状腺がんを発症したのは東電の事故が原因」と主張した。

訴訟を起こしたとき、記者会見で原告たちは「甲状腺がんのことは他人に言えず、完全に孤立してきた」「声をあげると差別の恐怖があるので、今まで声をあげられなかった」などと心の苦しみを口々に語った。本稿でみたように、県の検査で250人以上の患者が見つかっている。だが、原告になろうと奮い立たせた勇気ある人は結局6人だけだった。

宗川氏は「百万人に数人は明らかな過小評価」とするが、甲状腺患者の半数以上は被ばくによる発症であることを突き止めたのは宗川氏である。高市氏らは「原発事故で甲状腺がんが起きたという誤報によって差別が助長された」と主張するが、事実は全くの逆なのだ。「原発で甲状腺がんは発症しない」というウソが患者を苦しめてきたのである。いわれなき差別を助長したのは国であろう。

宗川氏は言う。「甲状腺検査によって発見された甲状腺がん患者が通常発症なのか被ばく発症なのか、特定することはできない。それゆえ、すべての患者を救済することを原則としなければならない」

宗川氏の分析によって、原発事故によって甲状腺がんが発症したことが明らかになった以上、裁判は原告勝訴にならねばならない。そして、事故後、小児甲状腺がんを患ったすべての人に対し、国は救済措置を取らねばならない。 しかし、岸田政権は、甲状腺がんの原因にほおかむりしたまま原発再稼働を進めようとしている。原発事故の真実を隠す政治姿勢こそが、この国のがんなのである。

Lapiz2023秋号《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

主要7カ国首脳会議(G7)が5月19日から21日まで広島で行われました。首脳は原爆資料館を見学した後、そろって原爆死没者慰霊碑に献花しました。慰霊碑の向こう建つ原爆ドームを目にして、何を考えたのでしょう。私は実況されているテレビ映像を見て、俳優、吉永小百合さんが朗読した原爆詩「慟哭」を思い浮かべました。子どもを失った母親の悲しみを切々とつづったこの詩のことを首脳たちは知らないにしても、原爆がいかに残忍なものであるかを学んだはずです。ならば核廃絶を目指すのが世界のリーダーであるG7首脳の役割と自覚すべきでしょう。しかし、「核廃絶」という言葉はついに発せられませんでした。 “Lapiz2023秋号《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#2(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身

宿場外れに夏の陣合戦場跡

江戸末期にたてられた3基の常夜灯
樫井古戦場の碑

高さ5メートルほどの大きな鳥居がみえた。近くに「信達神社御旅所跡」の石碑。信達神社は2キロ南東にあり、紀州街道からは離れている。この大鳥居が信達宿の南の端にあたるので、紀州街道を大坂に向かう旅人にとって格好の目印になったであろう。ここから十数分歩くと「ふじまつり」が行われた油商兼旅籠「油新」。さらに進むと、道端に三つの常夜灯が並んでいる。いずれも高さは1・5メートル。泉南市のHPによると、文政のお陰参りに際し、伊勢神宮への信仰と道中の安全祈願のために建てられたという。このお陰参りは文政13年なので、宗光が神戸に向かったときはまだ設置されていなかった。
この常夜灯のすぐ先に本陣がある。宗光は元紀州藩の奉行の子だ。本陣に泊まれないことはないだろう。海舟の書を見たという証拠はないが、海軍操練所を発案したのは海舟であることは知っていたはずだ。海舟の書に接した可能性がないとはいえない。
「暢神」というその書から宗光は「新しい時代に向かって進んでいくのだ」と決意を新たにしたに相違ない。神ですら伸び伸びするというのである。ましてや人が伸び伸びできる時代がもうすぐやってくる。海軍操練所で力を発揮するのだ。と、宗光の心は躍動したであろう。
本陣から20分先に一岡神社。白壁の本殿だけのこじんまりとした神社だが、説明板には欽明天皇に時代に創建されたとあり、由緒は正しいようだ。信長の焼き討ちで焼失したが、1596年、村民の手によって再建されたという。江戸時代、この神社が信達宿に北の端の目印だったであろう。大鳥居からここまで約2キロの距離だ。
観光マップを見ると、さらに北に「樫井古戦場の碑」がある。「大坂夏の陣」との添え書きがあり、がぜん興味がわいた。
20分ほど歩き、樫井川という幅50メートルくらいの川を渡ると、高さ2・5メートルの石碑が建っている。碑文によると、大坂方の武将、塙団衛門と岡部大学が先陣争いをした結果、徳川勢に攻め込まれて岡部軍が敗走、塙軍は孤立し団衛門は討ち取られた。この樫井合戦での敗戦が大坂方の士気をくじくことになった。宗光は、徳川体制が確固たる基盤を築くきっかけとなった合戦場の跡を歩きながら、250年がたった今、徳川の世が終わらんとしている時の流れに思いをいたしたのではないだろうか。

海舟の宗光の接点

本稿は勝海舟と陸奥宗光を登場させて、信達宿に迫ろうとした。では海舟と宗光に接点はなかったのだろうか。勝部真長編『勝海舟語録 氷川清話(付勝海舟伝)』(角川ソフィア文庫)をひもといた。『氷川清話』は海舟が晩年、東京・赤坂、氷川神社そばの勝亭で語った回顧談を弟子らが記録したもので、刊行されたのは1898年と推定されている。そのなかに「陸奥宗光」が一つの項としてたてられており、海舟が宗光をどう見ていたかがわかる。

以下はその要約である。

陸奥宗光はおれが神戸の塾(神戸海軍操練所)で育てた腕白者であった。おれの塾へきた原因は、紀州の殿様から「いのしし武者のあばれ者をお前の塾で薫陶してくれまいか」との御沙汰があり、わざわざ紀州へいって、腕白者25名を神戸の塾に連れて帰ることになったが、陸奥だけはほかの24名とは少し違った事情があった。藩の世話人が「拙者の弟の小次郎と申す腕白者があるからこれも一緒に連れて帰ってひとかどの人物に仕上げてくだされ」と頼んだから、それで24名と共に陸奥も連れて帰った。
この通りだとすると、宗光は25人の腕白者の一人として、紀州から神戸に向かったことになる。私は『竜馬がゆく』を念頭に、竜馬が海舟に深く傾倒した影響を受けて、宗光も海舟に敬服の念を抱いていたと考えた。だから、信達宿本陣で海舟の書に接し、胸が熱くなったと思いたいのだが、私の想像のような事実はなかったのかもしれない。
しかし、宗光が海舟の影響を受けなかったはずはない。なぜなら海舟は『氷川清話』のなかで「おれはずいぶん外交の難局に当たったが、しかし幸い一度も失敗しなかったよ。外交については一つの秘訣があるのだ」といい「外交の極意は『正心誠意』にあるのだ。ごまかしなどをやりかけると、かえって向こうから、こちらの弱点を見抜かれるものだよ」と述べている。宗光が不平等条約の是正という明治政府の悲願をやってのけたことはすでに述べた。勝流の「正心誠意」の交渉が難局打開につながったのかもしれない。
海舟が亡くなったのは1899年。その2年前、宗光は死亡した。海舟はその死の報に接して哀歌をよんだ。

桐の葉の一葉散りにし夕(ゆうべ)より
落つるこの葉の数をますらん

海舟はキリの葉が落ちるようなもの寂しさをおぼえたのであろうか。
「暢神」の書そのものごとく、海舟、宗光は新しい時代を作るために伸び伸びとした人生を送ったのであった。海舟、宗光という歴史上の大巨人からみれば、信達宿本陣に泊まったかどうかは、あまりにも小さなことではある。とはいえ、宗光が海舟の書を目にしたという証拠が見つかれば、近代史研究上の大発見であることは間違いない。(完)

宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#1(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身

勝海舟の書が残る本陣

古い民家が軒を並べる信達宿内の旧紀州街道

勝海舟の書の扁額が、かつて本陣だった泉州の住宅に掛けられている、と聞いた。江戸城無血開城で中学校の教科書にも登場する勝海舟。私の愛読書、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』のなかで、幕府の海軍を切り開いた人物としてたびたび現れる。だが、泉州に足を運んだという記述は全くない。そもそも勝海舟の書には何が書いてあるのだろう。調べてみると、本陣だったこの住宅は大阪府泉南市の旧紀州街道の信達宿にあり、4月下旬に催される「ふじまつり」の数日間だけ内部公開されるとわかった。 “宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#1(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身” の続きを読む

びえんと《押し付けを否定した内閣憲法調査会》Lapiz編集長 井上脩身

――改憲にカジを切らなかったナゾに迫る――

矢部貞治・内閣憲法調査会副会長

日本の憲法について自民党は「アメリカに押し付けられた」として憲法改変を党是としてきた。保守合同で結党された翌年の1956年、「我が国の主体的憲法に変える」ために安倍晋三元首相の祖父・岸信介首相(当時)らによって、「内閣憲法調査会」が設置された。当時の社会党が「改憲のための調査会」と位置づけたとおり、改憲志向の議員や学者を中心に調査会は構成され、「憲法を変えるべきである」との報告がなされると予想された。7年間の審議を経て1964年に最終報告書がまとめあげられたが、「改正の可否」については両論併記にとどまり、保守派のもくろみは外れた。その理由が私にはナゾであったが、改憲論者であった矢部貞治副会長が「改正反対」に意見を変えたことが少なからず影響していたことを最近、新聞記事で知った。もし矢部副会長が当初の意見を維持していれば、わが国は早い段階で改憲へと大きくカーブをきっていたかもしれない。

マッカーサー・幣原会談

矢部副会長は政治学者で、1939年5月から1945年12月まで東大教授。近衛文麿内閣の有力ブレーンとなり、拓殖大学の総長も務めた。内閣憲法調査会最終報告書の実質的な起草者だったと言われている。
憲法調査会は自民党が、改憲発議に必要な3分の2議席を確保できなかったことから、改憲の方向を確固たるものにするために提案され、岸内閣のときに発足。定員は50人だが、社会党が不参加だったこともあって欠員が多く、国会議員20人、学識経験者19人でスタートした。委員のなかには蝋山正道(政治学)、正木亮(法学)各氏や笠信太郎・朝日新聞論説主幹ら著名な学者、ジャーナリストも入っていたが、冒頭に述べたように全体として自民党衆院議員の中曾根康弘、船田中、小坂善太郎、清瀬一郎各氏ら改憲論者で占められていた。

『日本国憲法30年』の表紙

『日本国憲法30年』(伊藤満著、朝日新聞社)によると第1委員会「司法と基本的人権」、第2委員会「国会・財政・内閣・地方自治体」、第3委員会「天皇・最高法規・戦争放棄」の3委員会で編成。会長に高柳賢三東大名誉教授(法学)、副会長に矢部氏と山崎巌・自民党衆院議員が就任した。
1956年8月、第1回総会が開かれ、岸首相は「憲法制定の事情と、その後の10年にわたる実施の経験とにかんがみ、わが国情に照らし種々検討すべき点がある」とあいさつ。ストレートに改憲とは述べなかったものの、その思いを強くにじませていた。押し付け論者の岸氏の提案による委員会だから、当然といえば当然であったが、調査・研究のための中立的な委員会という外形をとりながら、改憲への理由づくりのための委員会であることは明らかだった。
だが、首相の思惑通りには進まなかった。高柳会長が「憲法を一定方向に向けて改定することを前提とする政府機関でなく、全国民のための検討を加える場」と明言。その一環として、1958年秋、高柳会長を団長とする調査団をアメリカに派遣した。その調査で、1946年1月11日マッカーサー元帥宛ての、国務、陸軍、海軍3省調整委員会指令第228号という、アメリカの対日政策の基本方針を示した文書に接した。文書は「日本の統治体制の改革」と名づけられ、天皇制、内閣、司法、立法など多岐にわたって民主的な方針を示している。問題の「戦力不保持」については「日本における軍部支配の復活を防止するために行う政治的改革の効果は、この計画の全体を日本国民が受諾するか否かによって、大きく左右される」と記されており、日本国民の意思を重視していたことが判明した。
高柳会長は調査を終えて帰国し、羽田空港で調査結果を談話の形で語った。その中で、9条について「自衛のための戦力を保持することを認めるものであるかどうかに幾多の議論があったが、マッカーサー元帥は、他国の侵略に対し自国の安全を守るために必要な措置を続けることは当然で、第9条はなんらこれを妨げるものではないと当初から考えていた。しかし、同時に第9条は幣原元首相の高邁なステーツマンシップを表示するもので、世界の模範となるべき永久の記念碑」と述べた。第9条はアメリカの押し付けでなく幣原喜重郎元首相の理想をうたいこんだ、との認識を示したのである。

日米合作憲法論

幣原喜重郎・元首相

前項でふれた幣原元首相のステーツマンシップとは何であろうか。
マッカーサー連合軍最高司令官は1946年2月3日、戦争放棄などの3原則を示したが、その直前の1月24日、幣原首相がマッカーサーと会談。幣原は「世界中が戦力を持たないという理想論を(いだき)はじめ、戦争を世界中がしなくなるようになるには、戦争を放棄するということ以外にないと考える」と語りだすと、マッカーサーは急に立ち上がって両手で幣原の手を握り、涙を目にいっぱいためて「その通りだ」と言ったという。(古関彰一『平和憲法の深層』ちくま新書)
高柳会長はアメリカで、マッカーサー・幣原会談の内容を記した資料を目にしたのであろう。戦争放棄を最初に言い出したのは幣原氏と知ったのだと思われる。
調査会では9条について 1)現行のままでよいか 2)改正を考える場合には、その基本方向は何か――にしぼって審議された。
「自衛権のない国家は考えられない。だれにも分かるようにはっきりした文章に改めるべきだ」(法曹代表・弁護士)▽「自衛隊の保持は明記すべきだ」(中小企業代表)▽「永久平和を願う9条の理想そのものが日本の自衛権を表しており、憲法を変える必要はない」(婦人代表)▽「敗戦という異常な時代にあって、自らの力に寄らず作ったものなので、改正の必要がある」(青年代表)▽「9条は戦争の惨苦を受けた全国民の願いを表現したもの。平和主義で行くべきだ」(労働代表)▽「9条の建前を守り、全世界に戦争の放棄を呼びかけるべきだ」(中小企業代表)などの意見が出た。
以上は『日本国憲法30年』から引用したものだが、意外に9条維持の意見が多い。国会議員は発言しなかったのか、同書が取り上げなかったのかは定かでないが、高柳談話が審議に影響を及ぼした可能性が高い。
こうした審議を経て、報告書のまとめに入った段階での総会で、高柳会長が意見陳述を行った。そのなかで9条について「現行憲法は占領下でつくられた関係もあって、マッカーサー元帥を中心とする米国に押し付けられたものであるという説がかつては有力であったが、憲法調査会が行った事実調査の結果、これは誤りで、日本側の自主性も相当加味されており、正確には日米合作とみるべきだ」と述べ、押し付け憲法論を否定した。
最終報告書は池田内閣に提出されたが、池田勇人首相はこの報告書を政治的争点にすることを避けた。高柳会長の発言にみられるように、自民党の望むような明確に改憲を志向する結果にならなかったうえ、安保改定をめぐって国民の間に高まった「戦争に巻き込まれる」という反戦意識を警戒したためと思われる(田中伸尚『憲法九条の戦後史』岩波新書)。

意見を変えた副会長

前掲の『日本国憲法30年』には憲法調査会委員の改憲派、非改憲派の色分けが記されていて、実に興味深い。色分けは次の通り。

改憲不要論=高柳賢三、蝋山正道、正木亮、中川善之助ら7人
全面改憲論=愛知揆一、山崎巌、木村篤太郎ら19人
戦闘的改憲論=大石義雄ら3人
慎重改憲論=古井喜美ら2人
時期尚早論=井出一太郎
部分改憲論=矢部貞治
最後の矢部貞治が本稿の主人公である。

矢部副会長が意見を変えたことについては、4月15日付毎日新聞の「井上寿一の近代 史の扉」というコラム欄で取り上げられた。
同コラムによると、矢部副会長は戦前、東大で政治学を担当、戦時中新体制運動の理論を構築したことで知られているが、東大を辞したあと「浪人生活」を送るという異色の学者。改憲論者でもあった。
調査会の発足から5年後、矢部副会長は調査の実績を踏まえて「この憲法に抱いていた考えが、大きく変わってきたことを告白せざるをえない」と発言。「占領軍が日本を骨抜きにする目的で、押し付けたというのは正しくない」として、押し付け憲法論が間違いであったと認めた。矢部氏は、日本国憲法は、極東委員会(連合国の対日最高政策決定機関)の天皇制廃止の主張に先手を打って、天皇制を救うためだったと考えたという。

調査会では、9条の下でも自衛隊違憲ではないとするのがほぼ全員の見解だった。意見が対立したのは、「防衛体制の現実に合わせる方向」に9条を改正するか、「現実の防衛体制をできるかぎり9条に合致させるべきか」だった。矢部副会長は高柳会長とともに「現行憲法の規定の欠陥を指摘し、解釈の統一を期するために条文を改正すべきであるとする見解には賛成しえない」との立場をとった。

こうした矢部副会長の認識は最終報告書の「日本国憲法の制定経過」に反映された。報告書は制定過程を敗戦時における「きわめて異常」なものとしながらも、「当時のわが国をめぐる微妙な、しかも峻厳な国際情勢の中で行われたこと」と指摘。そのうえで「憲法は押し付け」なのか「日本国民の自由な意思に基づくもの」だったかについては、「事情はけっして単純ではない」と結論づけた。
矢部副会長は最終報告書が提出される直前の講演で「改憲勢力が国会で3分の2を占めたとしても、憲法改正などということはなかなかできるものではないと思います」と述べた。そして「国民のなかから盛り上がる要求があって、初めて改正というものができる」と付言した。
改憲派、非改憲派の色分けでは高柳会長が改憲不要論なのに対し、矢部副会長は部分改憲論。手元の資料では、矢部副会長がどの規定を変えるべきだと考えているのかわからないが、9条については変えるべきでないと考えたことは明白だ。

安倍晋三元首相は憲法9条について「自衛隊を明記すべきだ」との考えを示し、9条改変の方向づけをした。これに対し、九条の会は「占領時代につくられたとの相も変らぬ押し付け憲法論」と強く反発している。
岸田文雄首相は安倍政治を基本的に継承、1月26日の衆参院本会議で憲法の改変について「総裁選などで『任期中に実現したい』と言ってきた。先送りできない課題」と、改憲への強い姿勢を示した。内閣憲法調査会の高柳会長は「9条は幣原元首相の高邁なステーツマンシップを表示するもの」と述べた。その理想を岸田首相は投げ捨てるというのである。

理想だけでは敵国の侵略から守れないとの論がある。ウクライナ戦争、台湾海峡の緊張、北朝鮮のミサイル威嚇など、わが国を取り巻く環境は近年厳しさが増していることは確かだ。問題は矢部副会長が言うような「国民のなかから盛り上がる要求」があるかどうかである。世論調査などでは憲法改変を是とする国民が「変えるべきでない」をわずかに上回っているが、軍拡増税には国民の多くが反対している現状をみると、「盛り上がる要求」とまではとてもいえまい。
9条を変えることは、「平和主義国家」というわが国の心柱を抜いてしまうことである。国の屋台骨がくずれると、それこそ敵国からの侵略という暴風に耐えられなくなる。内閣憲法調査会の調査結果はそれを教えてくれているのである。