連載童話《のん太とコイナ[天の川]#5》文・画 いのしゅうじ

のん太が目をさますと、のどかな海が広がっています。
たくさんのヨットが、帆をふくらませて波を切っています。
「ヨットっていいなって思うの」
コイナがしんみりといいました。
「風をうけるってことでは、こいのぼりもいっしょ。でもロープにしばりつけられて、自由がないわ。海の上ならどこへでも行けるヨットとおおちがい」
「コイナちゃんこそ、どこへでも行けるじゃないか

「こいのぼりはね、みんなどこへでも行けたの。人間に支配されるまでは」
コイナがむずかしいことを言ったので、のん太は話をかえました。
「ぼく、ヨットに乗ってみたい」
コイナが一そうのヨットにおろしてくれました。たまたま強い風がふいてきて、ヨットが沈みそうなほど傾きました。
ギャー!
コイナがおなかのヒレでのん太を救いあげました。

連載童話《のん太とコイナ[天の川]#4》文・画 いのしゅうじ

「コイナちゃん、どうして川を泳がないの」
「泳ぎたいのよ、ほんとうは。でも、ダムやらなにやらで、見えるのはコンクリートばかり。泳ぐ気がしないわ

「これからどうするの」
「里にもどるの。おばあちゃんが一人でいるんだもの

「空を泳ぐって気もちいいだろうなあ」
「いっしょに行ってみない」
「うん、行く」
のん太はまようことなく、コイナに乗ることにしました。
コイナは空を泳ぐため、おなかを上にむけます。だから、のん太はコイナのおなかにまたがりました。
コイナはけわしい山々が海にせまる、美しいリアス式海岸の上空をスイスイすすみます。
「すっごーい」「うそみたい」「夢だ」
はしゃぎすぎてつかれたのか、のん太はすーっとねむってしまいました。おなかのヒレで、ふとんのようにやさしくつつむコイナです。

連載童話《のん太とコイナ[天の川]#3》文・画 いのしゅうじ

つぎの日の明け方、のん太の部屋の窓がゴトゴトと音をたてています。
目をさましたのん太が窓に目を向けると、こいのぼりが顔をガラスにくっつけ、何かうったえています。
窓をあけると、男の子にいじめられたこいのぼりでした。
「きのうはありがとう」
こいのぼりが言葉をしゃべったので、のん太は目を丸くしました。
「空を泳いでるっていってくれたでしょ。うれしかったわ」
「じゃあ、ほんとうに空を泳いでたんだ」
「うん、川より空がいいの」
こいのぼりは「コイナ」という名の女の子。
山奥の村で暮らしています。町が見たくなりました。アカダ市の上空までやってきたとき、フェスタの係の人につかまり、ロープにつるされたのだそうです。
「フェスタが終わって解放されたので、お礼を言いたくて、まっさきにここにきたの」

連載童話《のん太とコイナ[天の川]#2》文・画 いのしゅうじ

タイコえんそうがひと休みしたとき、男の子のさわぎ声が聞こえてきました。
「コイは川で泳ぐんだろ。お前はさかさじゃないか」
折り紙のかぶとをかぶった二人の男の子が、一ぴきのこいのぼおりを、ものほしおざおでつっついているのです。
たくさんのこいのぼりのうち、ピンクのはだのこいのぼりが、みんなとは反対に、おなかを空にむけています。男の子はひっくりかえそうとしているのです。
のん太はこいのぼりが泣いているように見えました。
いじめにあってる、かわいそう!
のん太は勇敢にも男の子たちの前にたちはだかりました。

「いじめるな」
「川で泳がせるんだ。何が悪い」
「この子は空を泳いでるんだ」
えっ! 男の子はのん太の気迫におされたのか、ものほしざおをほうりなげ、ていぼうのむこうに走っていきました。

連載童話《のん太とコイナ[天の川]#1》文・画 いのしゅうじ

 1)天の川
ここはアカダ川のていぼう。男の子が寝そべっています。
男の子はのん太、小学四年生。ほんとうの名前は則夫。
のん太は学校でいやなことがあると、通学路のアカダ川の橋からていぼうに下り、あおむけになってぼおっと空をながめます。そうしてると、学校でのことを忘れられるのです。
のん太を見て、だれかが「のんびりのん太」とからかいました。それからは、友だちだけでなく、お父さんまで「のん太」とあだ名で呼ぶようになりました。
その父さんのお気に入りはアカダ高校のタイコえんそう。「高校生ばなれのうで」といいます。
こどもの日、アカダ川では毎年「こいのぼりフェスタ」が開かれます。
フェスタの一番の呼びものはアカダ高校のタイコえんそう。
なので、お父さん、お母さん、妹の一家四人で、河原でお弁当を広げるのが、のん太の家のこども日のならわしです。
今年も、家族でフェスタに行きました。千びきのこいのぼりが、気もちよさそうに泳いでいます。

宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#2(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身

宿場外れに夏の陣合戦場跡

江戸末期にたてられた3基の常夜灯
樫井古戦場の碑

高さ5メートルほどの大きな鳥居がみえた。近くに「信達神社御旅所跡」の石碑。信達神社は2キロ南東にあり、紀州街道からは離れている。この大鳥居が信達宿の南の端にあたるので、紀州街道を大坂に向かう旅人にとって格好の目印になったであろう。ここから十数分歩くと「ふじまつり」が行われた油商兼旅籠「油新」。さらに進むと、道端に三つの常夜灯が並んでいる。いずれも高さは1・5メートル。泉南市のHPによると、文政のお陰参りに際し、伊勢神宮への信仰と道中の安全祈願のために建てられたという。このお陰参りは文政13年なので、宗光が神戸に向かったときはまだ設置されていなかった。
この常夜灯のすぐ先に本陣がある。宗光は元紀州藩の奉行の子だ。本陣に泊まれないことはないだろう。海舟の書を見たという証拠はないが、海軍操練所を発案したのは海舟であることは知っていたはずだ。海舟の書に接した可能性がないとはいえない。
「暢神」というその書から宗光は「新しい時代に向かって進んでいくのだ」と決意を新たにしたに相違ない。神ですら伸び伸びするというのである。ましてや人が伸び伸びできる時代がもうすぐやってくる。海軍操練所で力を発揮するのだ。と、宗光の心は躍動したであろう。
本陣から20分先に一岡神社。白壁の本殿だけのこじんまりとした神社だが、説明板には欽明天皇に時代に創建されたとあり、由緒は正しいようだ。信長の焼き討ちで焼失したが、1596年、村民の手によって再建されたという。江戸時代、この神社が信達宿に北の端の目印だったであろう。大鳥居からここまで約2キロの距離だ。
観光マップを見ると、さらに北に「樫井古戦場の碑」がある。「大坂夏の陣」との添え書きがあり、がぜん興味がわいた。
20分ほど歩き、樫井川という幅50メートルくらいの川を渡ると、高さ2・5メートルの石碑が建っている。碑文によると、大坂方の武将、塙団衛門と岡部大学が先陣争いをした結果、徳川勢に攻め込まれて岡部軍が敗走、塙軍は孤立し団衛門は討ち取られた。この樫井合戦での敗戦が大坂方の士気をくじくことになった。宗光は、徳川体制が確固たる基盤を築くきっかけとなった合戦場の跡を歩きながら、250年がたった今、徳川の世が終わらんとしている時の流れに思いをいたしたのではないだろうか。

海舟の宗光の接点

本稿は勝海舟と陸奥宗光を登場させて、信達宿に迫ろうとした。では海舟と宗光に接点はなかったのだろうか。勝部真長編『勝海舟語録 氷川清話(付勝海舟伝)』(角川ソフィア文庫)をひもといた。『氷川清話』は海舟が晩年、東京・赤坂、氷川神社そばの勝亭で語った回顧談を弟子らが記録したもので、刊行されたのは1898年と推定されている。そのなかに「陸奥宗光」が一つの項としてたてられており、海舟が宗光をどう見ていたかがわかる。

以下はその要約である。

陸奥宗光はおれが神戸の塾(神戸海軍操練所)で育てた腕白者であった。おれの塾へきた原因は、紀州の殿様から「いのしし武者のあばれ者をお前の塾で薫陶してくれまいか」との御沙汰があり、わざわざ紀州へいって、腕白者25名を神戸の塾に連れて帰ることになったが、陸奥だけはほかの24名とは少し違った事情があった。藩の世話人が「拙者の弟の小次郎と申す腕白者があるからこれも一緒に連れて帰ってひとかどの人物に仕上げてくだされ」と頼んだから、それで24名と共に陸奥も連れて帰った。
この通りだとすると、宗光は25人の腕白者の一人として、紀州から神戸に向かったことになる。私は『竜馬がゆく』を念頭に、竜馬が海舟に深く傾倒した影響を受けて、宗光も海舟に敬服の念を抱いていたと考えた。だから、信達宿本陣で海舟の書に接し、胸が熱くなったと思いたいのだが、私の想像のような事実はなかったのかもしれない。
しかし、宗光が海舟の影響を受けなかったはずはない。なぜなら海舟は『氷川清話』のなかで「おれはずいぶん外交の難局に当たったが、しかし幸い一度も失敗しなかったよ。外交については一つの秘訣があるのだ」といい「外交の極意は『正心誠意』にあるのだ。ごまかしなどをやりかけると、かえって向こうから、こちらの弱点を見抜かれるものだよ」と述べている。宗光が不平等条約の是正という明治政府の悲願をやってのけたことはすでに述べた。勝流の「正心誠意」の交渉が難局打開につながったのかもしれない。
海舟が亡くなったのは1899年。その2年前、宗光は死亡した。海舟はその死の報に接して哀歌をよんだ。

桐の葉の一葉散りにし夕(ゆうべ)より
落つるこの葉の数をますらん

海舟はキリの葉が落ちるようなもの寂しさをおぼえたのであろうか。
「暢神」の書そのものごとく、海舟、宗光は新しい時代を作るために伸び伸びとした人生を送ったのであった。海舟、宗光という歴史上の大巨人からみれば、信達宿本陣に泊まったかどうかは、あまりにも小さなことではある。とはいえ、宗光が海舟の書を目にしたという証拠が見つかれば、近代史研究上の大発見であることは間違いない。(完)

宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#1(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身

勝海舟の書が残る本陣

古い民家が軒を並べる信達宿内の旧紀州街道

勝海舟の書の扁額が、かつて本陣だった泉州の住宅に掛けられている、と聞いた。江戸城無血開城で中学校の教科書にも登場する勝海舟。私の愛読書、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』のなかで、幕府の海軍を切り開いた人物としてたびたび現れる。だが、泉州に足を運んだという記述は全くない。そもそも勝海舟の書には何が書いてあるのだろう。調べてみると、本陣だったこの住宅は大阪府泉南市の旧紀州街道の信達宿にあり、4月下旬に催される「ふじまつり」の数日間だけ内部公開されるとわかった。 “宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#1(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身” の続きを読む

びえんと《押し付けを否定した内閣憲法調査会》Lapiz編集長 井上脩身

――改憲にカジを切らなかったナゾに迫る――

矢部貞治・内閣憲法調査会副会長

日本の憲法について自民党は「アメリカに押し付けられた」として憲法改変を党是としてきた。保守合同で結党された翌年の1956年、「我が国の主体的憲法に変える」ために安倍晋三元首相の祖父・岸信介首相(当時)らによって、「内閣憲法調査会」が設置された。当時の社会党が「改憲のための調査会」と位置づけたとおり、改憲志向の議員や学者を中心に調査会は構成され、「憲法を変えるべきである」との報告がなされると予想された。7年間の審議を経て1964年に最終報告書がまとめあげられたが、「改正の可否」については両論併記にとどまり、保守派のもくろみは外れた。その理由が私にはナゾであったが、改憲論者であった矢部貞治副会長が「改正反対」に意見を変えたことが少なからず影響していたことを最近、新聞記事で知った。もし矢部副会長が当初の意見を維持していれば、わが国は早い段階で改憲へと大きくカーブをきっていたかもしれない。

マッカーサー・幣原会談

矢部副会長は政治学者で、1939年5月から1945年12月まで東大教授。近衛文麿内閣の有力ブレーンとなり、拓殖大学の総長も務めた。内閣憲法調査会最終報告書の実質的な起草者だったと言われている。
憲法調査会は自民党が、改憲発議に必要な3分の2議席を確保できなかったことから、改憲の方向を確固たるものにするために提案され、岸内閣のときに発足。定員は50人だが、社会党が不参加だったこともあって欠員が多く、国会議員20人、学識経験者19人でスタートした。委員のなかには蝋山正道(政治学)、正木亮(法学)各氏や笠信太郎・朝日新聞論説主幹ら著名な学者、ジャーナリストも入っていたが、冒頭に述べたように全体として自民党衆院議員の中曾根康弘、船田中、小坂善太郎、清瀬一郎各氏ら改憲論者で占められていた。

『日本国憲法30年』の表紙

『日本国憲法30年』(伊藤満著、朝日新聞社)によると第1委員会「司法と基本的人権」、第2委員会「国会・財政・内閣・地方自治体」、第3委員会「天皇・最高法規・戦争放棄」の3委員会で編成。会長に高柳賢三東大名誉教授(法学)、副会長に矢部氏と山崎巌・自民党衆院議員が就任した。
1956年8月、第1回総会が開かれ、岸首相は「憲法制定の事情と、その後の10年にわたる実施の経験とにかんがみ、わが国情に照らし種々検討すべき点がある」とあいさつ。ストレートに改憲とは述べなかったものの、その思いを強くにじませていた。押し付け論者の岸氏の提案による委員会だから、当然といえば当然であったが、調査・研究のための中立的な委員会という外形をとりながら、改憲への理由づくりのための委員会であることは明らかだった。
だが、首相の思惑通りには進まなかった。高柳会長が「憲法を一定方向に向けて改定することを前提とする政府機関でなく、全国民のための検討を加える場」と明言。その一環として、1958年秋、高柳会長を団長とする調査団をアメリカに派遣した。その調査で、1946年1月11日マッカーサー元帥宛ての、国務、陸軍、海軍3省調整委員会指令第228号という、アメリカの対日政策の基本方針を示した文書に接した。文書は「日本の統治体制の改革」と名づけられ、天皇制、内閣、司法、立法など多岐にわたって民主的な方針を示している。問題の「戦力不保持」については「日本における軍部支配の復活を防止するために行う政治的改革の効果は、この計画の全体を日本国民が受諾するか否かによって、大きく左右される」と記されており、日本国民の意思を重視していたことが判明した。
高柳会長は調査を終えて帰国し、羽田空港で調査結果を談話の形で語った。その中で、9条について「自衛のための戦力を保持することを認めるものであるかどうかに幾多の議論があったが、マッカーサー元帥は、他国の侵略に対し自国の安全を守るために必要な措置を続けることは当然で、第9条はなんらこれを妨げるものではないと当初から考えていた。しかし、同時に第9条は幣原元首相の高邁なステーツマンシップを表示するもので、世界の模範となるべき永久の記念碑」と述べた。第9条はアメリカの押し付けでなく幣原喜重郎元首相の理想をうたいこんだ、との認識を示したのである。

日米合作憲法論

幣原喜重郎・元首相

前項でふれた幣原元首相のステーツマンシップとは何であろうか。
マッカーサー連合軍最高司令官は1946年2月3日、戦争放棄などの3原則を示したが、その直前の1月24日、幣原首相がマッカーサーと会談。幣原は「世界中が戦力を持たないという理想論を(いだき)はじめ、戦争を世界中がしなくなるようになるには、戦争を放棄するということ以外にないと考える」と語りだすと、マッカーサーは急に立ち上がって両手で幣原の手を握り、涙を目にいっぱいためて「その通りだ」と言ったという。(古関彰一『平和憲法の深層』ちくま新書)
高柳会長はアメリカで、マッカーサー・幣原会談の内容を記した資料を目にしたのであろう。戦争放棄を最初に言い出したのは幣原氏と知ったのだと思われる。
調査会では9条について 1)現行のままでよいか 2)改正を考える場合には、その基本方向は何か――にしぼって審議された。
「自衛権のない国家は考えられない。だれにも分かるようにはっきりした文章に改めるべきだ」(法曹代表・弁護士)▽「自衛隊の保持は明記すべきだ」(中小企業代表)▽「永久平和を願う9条の理想そのものが日本の自衛権を表しており、憲法を変える必要はない」(婦人代表)▽「敗戦という異常な時代にあって、自らの力に寄らず作ったものなので、改正の必要がある」(青年代表)▽「9条は戦争の惨苦を受けた全国民の願いを表現したもの。平和主義で行くべきだ」(労働代表)▽「9条の建前を守り、全世界に戦争の放棄を呼びかけるべきだ」(中小企業代表)などの意見が出た。
以上は『日本国憲法30年』から引用したものだが、意外に9条維持の意見が多い。国会議員は発言しなかったのか、同書が取り上げなかったのかは定かでないが、高柳談話が審議に影響を及ぼした可能性が高い。
こうした審議を経て、報告書のまとめに入った段階での総会で、高柳会長が意見陳述を行った。そのなかで9条について「現行憲法は占領下でつくられた関係もあって、マッカーサー元帥を中心とする米国に押し付けられたものであるという説がかつては有力であったが、憲法調査会が行った事実調査の結果、これは誤りで、日本側の自主性も相当加味されており、正確には日米合作とみるべきだ」と述べ、押し付け憲法論を否定した。
最終報告書は池田内閣に提出されたが、池田勇人首相はこの報告書を政治的争点にすることを避けた。高柳会長の発言にみられるように、自民党の望むような明確に改憲を志向する結果にならなかったうえ、安保改定をめぐって国民の間に高まった「戦争に巻き込まれる」という反戦意識を警戒したためと思われる(田中伸尚『憲法九条の戦後史』岩波新書)。

意見を変えた副会長

前掲の『日本国憲法30年』には憲法調査会委員の改憲派、非改憲派の色分けが記されていて、実に興味深い。色分けは次の通り。

改憲不要論=高柳賢三、蝋山正道、正木亮、中川善之助ら7人
全面改憲論=愛知揆一、山崎巌、木村篤太郎ら19人
戦闘的改憲論=大石義雄ら3人
慎重改憲論=古井喜美ら2人
時期尚早論=井出一太郎
部分改憲論=矢部貞治
最後の矢部貞治が本稿の主人公である。

矢部副会長が意見を変えたことについては、4月15日付毎日新聞の「井上寿一の近代 史の扉」というコラム欄で取り上げられた。
同コラムによると、矢部副会長は戦前、東大で政治学を担当、戦時中新体制運動の理論を構築したことで知られているが、東大を辞したあと「浪人生活」を送るという異色の学者。改憲論者でもあった。
調査会の発足から5年後、矢部副会長は調査の実績を踏まえて「この憲法に抱いていた考えが、大きく変わってきたことを告白せざるをえない」と発言。「占領軍が日本を骨抜きにする目的で、押し付けたというのは正しくない」として、押し付け憲法論が間違いであったと認めた。矢部氏は、日本国憲法は、極東委員会(連合国の対日最高政策決定機関)の天皇制廃止の主張に先手を打って、天皇制を救うためだったと考えたという。

調査会では、9条の下でも自衛隊違憲ではないとするのがほぼ全員の見解だった。意見が対立したのは、「防衛体制の現実に合わせる方向」に9条を改正するか、「現実の防衛体制をできるかぎり9条に合致させるべきか」だった。矢部副会長は高柳会長とともに「現行憲法の規定の欠陥を指摘し、解釈の統一を期するために条文を改正すべきであるとする見解には賛成しえない」との立場をとった。

こうした矢部副会長の認識は最終報告書の「日本国憲法の制定経過」に反映された。報告書は制定過程を敗戦時における「きわめて異常」なものとしながらも、「当時のわが国をめぐる微妙な、しかも峻厳な国際情勢の中で行われたこと」と指摘。そのうえで「憲法は押し付け」なのか「日本国民の自由な意思に基づくもの」だったかについては、「事情はけっして単純ではない」と結論づけた。
矢部副会長は最終報告書が提出される直前の講演で「改憲勢力が国会で3分の2を占めたとしても、憲法改正などということはなかなかできるものではないと思います」と述べた。そして「国民のなかから盛り上がる要求があって、初めて改正というものができる」と付言した。
改憲派、非改憲派の色分けでは高柳会長が改憲不要論なのに対し、矢部副会長は部分改憲論。手元の資料では、矢部副会長がどの規定を変えるべきだと考えているのかわからないが、9条については変えるべきでないと考えたことは明白だ。

安倍晋三元首相は憲法9条について「自衛隊を明記すべきだ」との考えを示し、9条改変の方向づけをした。これに対し、九条の会は「占領時代につくられたとの相も変らぬ押し付け憲法論」と強く反発している。
岸田文雄首相は安倍政治を基本的に継承、1月26日の衆参院本会議で憲法の改変について「総裁選などで『任期中に実現したい』と言ってきた。先送りできない課題」と、改憲への強い姿勢を示した。内閣憲法調査会の高柳会長は「9条は幣原元首相の高邁なステーツマンシップを表示するもの」と述べた。その理想を岸田首相は投げ捨てるというのである。

理想だけでは敵国の侵略から守れないとの論がある。ウクライナ戦争、台湾海峡の緊張、北朝鮮のミサイル威嚇など、わが国を取り巻く環境は近年厳しさが増していることは確かだ。問題は矢部副会長が言うような「国民のなかから盛り上がる要求」があるかどうかである。世論調査などでは憲法改変を是とする国民が「変えるべきでない」をわずかに上回っているが、軍拡増税には国民の多くが反対している現状をみると、「盛り上がる要求」とまではとてもいえまい。
9条を変えることは、「平和主義国家」というわが国の心柱を抜いてしまうことである。国の屋台骨がくずれると、それこそ敵国からの侵略という暴風に耐えられなくなる。内閣憲法調査会の調査結果はそれを教えてくれているのである。

編集長が行く #3《元町商店街の手作り映画館》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

手作り映画館 写真ギャラリー

 

編集長が行く #2《元町商店街の手作り映画館》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

戦争の惨禍を映す

映画『ドンバス』のポスター(ウィキベテアより)

2020年からのコロナ感染拡大で元町映画館が苦境に陥るなか、私は『ドンバス』(セルゲイ・ロズニツァ監督)を見たのだ。
ウクライナ東部のドンバスは親ロシア派勢力の強いところで、2014年、一方的にウクライナからの独立を宣言。ウクライナ軍との武力衝突が日常化し、事実上内戦状態になっていた。映画はウクライナ内部の深い分断の溝による悲劇をダークユーモアを交えてえがき出したものだが、私が注目したのは政府側のアゾフ大隊の所業だった。隊の中にネオナチ的な兵がいて、親ロシア派の住民に暴行する場面もある。プーチン大統領が、ウクライナにはネオナチがいると、戦争の口実にしたことを思い起こし、戦争のためには、敵の弱みを最大限利用してプロパガンダにするものと知ったのであった。
同館で私が見た2回目の映画は『島守の塔』(五十嵐匠監督)。2022年8月だった。映画は沖縄戦最中の沖縄県知事、島田叡(あきら)の苦悩に迫った。高校、大学時代、野球の名選手だった島田は東大を出たあと内務省に入省。敗色が濃い1945年1月、米軍の上陸が必至とみられる沖縄県の知事を任命された。家族を残して沖縄に赴任した島田は県民の食糧確保に奔走。米軍が上陸し、摩文仁の丘に追い詰められて死を決した部下に「命どぅ宝、生き抜け」と諭して逃がす。自らは壕にとどまり消息は不明に。遺体は発見されていない。
今は県営平和祈念公園になっている摩文仁の丘から見た沖縄の青い海を思い浮かべながら、涙してこの映画を見たのであった。

採算度外視の映画

浦安魚市場の外観(2019年3月撮影)

政府は今年3月、コロナ対策を緩和し、マスクの着用を個人の意思に委ねた。そんな中の4月下旬、私は元町映画館で『浦安魚市場のこと』(歌川達人監督)を見た。冒頭に述べた魚市場が舞台の映画である。
浦安魚市場は1953年、千葉県浦安市に設置された。30店舗が入居、漁師が浦安で水揚げした魚介類をはじめ、築地市場で仕入れた鮮魚が販売された。元来、浦安の海は漁場だったが、経済成長とともに埋めたてが進み、臨海工場地帯になる一方で、東京ディズニーランドの開設によって、漁港の町ではなくなった。住民の買いもの動向も大きく変わり、消費者の80%以上は魚介類をスーパーで買うようになった。
加えて市場の2階建てビルが老朽化し、耐震構造になっていないこともあり、2019年3月31日、閉鎖され、65年の歴史の幕を閉じた。
私は閉鎖される少し前に同市場をたずねた。ほとんどの商品は売り切れていた。着いたのがすでに午前11時を過ぎていたこともあるが、閉鎖が決まって商品を余らせないようにしていたこともあるのだろう。売り物のない店には寂しさが漂っていて、いつもは威勢がいいであろう店員たちも、ほとんど言葉を交わさず、物静かな市場であった。
映画は「泉銀」という店の、40代半ばの店主を主人公にして描かれた。店主は「市場に客を呼び込もう」と市場の近くの路上でロックのライブを開き、自らボーカルをつとめるなど、苦心に苦心を重ねる様子を克明に描写。3人の子どもには南房総の漁港でクジラをさばく様子を見せたり、築地市場に連れて行ったりと、鮮魚商の内側を教える。
市場閉鎖の直前、泉銀の店主は復興したばかりの岩手県宮古市の市場に招かれ、マグロをさばく。たまたま私はこのころに宮古市を訪ねているだけに、このシーンに胸が詰まった。新たに生まれ変わる三陸の魚市場と、姿を消す大都会の市場。市場経済は非情である。

神戸の人たちのなかに浦安魚市場に関心がある人はまずいないだろう。実際、私を入れても入館者は7、8人。人件費も出ないだろう。それにもかかわらず上映を決断した元町映画館のスタッフに私は敬意を表したい。世の中、経済の論理だけで動くわけではないのだ。
映画館の天井が低くとも、映写機の位置が低くとも、そして待合スペースがなくてもいいではないか。儲からない映画も上映する。その気概に私は拍手喝采である。
ここまで書いて、小学校のころ、学校の講堂で映画が上映されたのを思い出した。美空ひばりが双子の姉妹として登場する映画だった。スクリーンに児童の影が映ったが、気にはならなかった。あるいは私が映画が好きになった原点だったのかもしれない。ふと思う。元町映画館はあるいは新たな映画文化を切り開くきっかけになるかもしれない。手作り映画館が地元の映画好きを掘り起こすことになるのではないか。手作りのミニ映画館が地域文化の担い手になってくれることを私は願っている。(明日に続く)