ジョセフ・ヒコの幕末維新④ 井上脩身

木戸孝允編
我が国初の憲法草案

1985年、横浜開港資料館で「ジョセフ彦と横浜の新聞展」が開催された。このさい、同資料館はアメリカ・ニューヨーク州のシイラキュース大学ジョージアーレンツリサーチライブラリーからジョセフ・ヒコに関する資料を借り受けた。送られた資料のなかに日本語文の建言草案類が含まれていた。それはヒコが幕府に提言した我が国の国家構想、国政改革案だった。アメリカ
合衆国憲法を下敷きにしており、我が国初の憲法草案とも言えた。ヒコは我が国の新聞史上の先駆者であるだけでなく、リンカーン大統領にまで会った者として得た近代国家の在りようを祖国に伝えようとしたのだ。だが、幕末維新史の専門書でもヒコの建言がとりあげられることはほとんどない。だから私も知らなかった、というのは言い訳にもならないが、私なりにヒコの建言の歴史的意味を考えたいと思った。

画期的な人権保障規定案

この建言草案は佐藤孝氏によって調査、分析され、その研究論文は「ジョセフ・ヒコの日本改革建言草案」として、『横浜開港資料館紀要第4号』(86年3月)に所収されている(以下佐藤論文と呼ぶ)。
佐藤論文によると、建言草案はパーシヴィル・D・パーキンス氏が1935年、ヒコの未亡人、浜田鋹子さんから入手して所蔵。1961年にシイラキュース大図書館に寄贈したという。本文は25丁。和紙に墨筆で日本語で書かれている。表紙に「草稿」とあり、ペンか鉛筆で、本書の由来についての英文の書き込みがある。奥書によると、1865(慶応元)年5月6日、「亜米利加ヒコ」が外国奉行阿部越前守に提出したが「当時之形勢ニテハ何分難相用」として返却された草案である。
日本語文であることについての横浜資料調査会の問い合わせに対し、パーキンス氏は、二、三を除いてすべてヒコ自筆の日本語文である旨、回答した。
佐藤氏は、ヒコは日本語で書き表す能力が乏しかった、としたうえで、建言草案の日本語文については「ヒコ周辺の複数の日本人が記したものと推論しておきたい」と断定をさけている。しかし、英文の書き込みについては「ヒコの筆跡によく似ている」と判断し、全体として佐藤氏はヒコ自身の提言であるとみた。佐藤氏はヒコ周辺の日本人の推定を避けている。ヒコが日本語訳を依頼するとすれば『海外新聞』発行の協力をした岸田吟香と本間潜蔵以外に考えられない。だが岸田も本間もこのことは一切語っておらず、未解明のままである。
「ジョセフ彦と横浜の新聞展」は85年2月20日から4月24日まで開催され、ヒコの帰化記録、受洗証明書などのアメリカでの資料のほか、横浜在留記録や長崎の「外国人支那人名前調帳」など、日本での記録類が展示された。展覧会についてはこの程度で抑えて、建言草案の中身の検討に入ろう。
草案は「国体」と表題を示して32カ条から成り立っている。(以降、国体草案と表記する)
第1条で「日本六十余州之国法相建候勢は、大評定所ニ在リ。此大評定所と申者三ケ所に別れ、第一ハ国司大名詰所、第二ハ諸大名之詰所、第三ハ大百姓大町人之詰所なり」と、大評定所が国法をつかさどる根本機関であることをうたいあげた。
佐藤氏は「全32カ条にわたる憲法草案である」としたうえで、要点を以下のように解説している。
18の国持ち大名からなる議院、御家門諸大名の議院、大百姓・町人の議院からなる3院制の議会、大君(世襲制)の行政府、司法機関のそれぞれの機構と権限を規定。徴税議案の発議権は百姓・町人の議院にあり、議会の議決は、大君の拒否にあっても再議で3分の2以上の賛成があれば国法となる(第9、第10条)。政府官吏に厳正な規律を課す(第18、32条)一方、法官の身分保障(14条)のほか、信教、言論、集会の自由、私有家屋の保障を規定(第19~21条)している。
佐藤氏の解説の通りならば、混沌とした幕末期にヒコは信教や言論、集会の自由の保障を提言していたことになる。私はこのような民主的な要請は明治に入って自由民権運動の中で生まれたと思っていた。幕末期にこうした提言があったとことに私は驚く。ヒコの提言は画期的というほかない。国体草案を丁寧に読んでみた。
佐藤氏の解説の関連条項は以下の通りである。
第19 評定所二てハ宗旨之法立、又ハ宗旨を学ぶ者を指止る法等ハ決而致す事無之候、乍併宗旨之中ニて争論等有之節ハ、今まて通り寺社奉行ニて其所置を付け候事
第20 万民ニ於てハ自由に説話いたし、又ハ新聞ニ書載候事太平之世ニハ之を指留る事無之候、又は人民聚合致し候ても之を指留る事不相成事、尤其聚合之訳ハ悲哀の事有之候に付政府え嘆願致し候為めなり
第19条は信教の自由の規定。アメリカで洗礼を受けたヒコはキリスト教禁制の解禁を求めたのだ。第20条は言論、表現、集会の自由を明白に求めている。
佐藤氏はこの建言を「アメリカ合衆国憲法を下敷きとし、合衆国憲法の各条項をそっくり、あるいは部分的に翻訳したもの」とし、後で述べるようにその照応条項を示したうえで、次のように指摘している。
国を州、大評議所を連邦議会、第一の詰所を上院、第三の詰所を下院、詰所役人を議員、改役(頭役)を議長、国体を憲法、大君を大統領、日本(大君)政府を合衆国、勢いを権限、善悪を賛否などに置きかえると合衆国憲法の各条文とほとんど同文になる。しかし、単なる模倣ではなく、諸大名で構成される第二の議員、大君の規定、大名とその権限、大君と大名の関係、百姓・町人の選挙、被選挙資格などは全く新しい規定。
以上のように整理したうえで、佐藤氏は「本書(建言)は合衆国憲法に準拠し、その各条文に取捨選択を加えつつ、当時の国内事情を考慮して新たな規定条項を加えて成分化したもの。合衆国憲法をモデルにしたことで価値を少しも損なうものではないことは、我が国の憲法史や明治前期の私擬憲法草案類の場合を想起すれば十分だろう」と高く評価した。
幕末期の国家構想として1867(慶応3)年10月の老中格松平乗謨の意見書、翌11月の西周助(周)の「議題草案」がある。とくに西草案について「おそらく日本最初の日本憲法草案。日本の近代政治史上貴重な文献」としてその評価は定着している。ヒコの建言は、その奥書によればこれらの意見書や草案よりも2年も早い。
佐藤氏は建言について「詳細な国家権力の組織・運用規定に加えて、百姓・町人の国政参加、人権保障の民主主義的諸規定など、近代的先見性においてこれら(の意見書や草案)をはるかにしのいでいた。今日的な意味での憲法概念として最初の憲法草案といえるだろう」としている。

合衆国憲法と国体草案

前項で少し触れたが、佐藤氏は論文「ジョセフ・ヒコの日本改革建言草案」のなかで、ヒコの国体草案とアメリカ合衆国憲法の条項対照を表にまとめている。国体草案第1条の第一の詰所は合衆国憲法第1条(連邦議会、その権限)第3節、同第三の詰所は第2節といったぐあいだ。私は鈴木康彦氏の『注釈アメリカ合衆国憲法』(国際書院)を種本として、私なりに対照をこころみた。(一部はすでに述べた国体草案の条項と重複する。なお国体草案は国体、合衆国憲法は憲法と略す)
【立法府】
国体1条 日本六十余州之国法相建候勢は、大評定所ニ在リ。此大評定所と申者三ケ所に別れ第一ハ国司大名詰所、第二ハ諸大名之詰所、第三ハ大百姓大町人之詰所なり(憲法1条1節 この憲法によって付与されるすべての立法権は、合衆国議会に属する。合衆国議会は上院及び下院からなる)
国体1条第一の詰所 第一之詰所役人というふハ国司十八大名なり、就而ハ銘々入札之時ニ札壱枚ツゝ壱人におゐて入へき勢ひ有べし、併此詰所之役目勤候大名ニ於ハ年弐十才以上之人々ニ無之而は此組に入へからす(憲法1条3節1項 合衆国上院は、各州が2名ずつ選出する上院議員で構成される。その任期は6年とする。各上院議員は、1票の投票権を有する。同3項 何人も、30才に達しない者(略)は上院議員となることができない)
国体1条第三の詰所 第三之詰所之役人ハ、諸国の百姓町人之内より撰、三年限リ交代為到 此役ニ被撰候ものハ、智巧之ものにして廿五才以上より之人、又は其者身分相応之者、百姓ハ持高三十石五十石以上、町人は身上向千金以上にあら(ママ)ニあらされハ此重役撰みかたし(憲法1条2節1項 下院は、各州の州民が2年毎に選出する議員で組織される。各州の有権者は、その州の複数の議会のうち、議員数の多い議会の選挙者となるのに必要な資格を備えていなければならない。 同2項 何人も、25才に達してない者(略)は、下院議員になることができない)
国体4条 以上三ケ所之重役ハ、年分極少ニ而も一度は寄合、国々(カ)制度評議致べし(憲法1条4節2項 連邦議会は、少なくとも毎年1回集会する)
国体5条 銘々役所ニおゐて万事之事書認置、時々役所之次第柄新聞ニ起し、可然ものに配當いたし為読為心得候事(憲法1条5節3項 各院はそれぞれ議事録を作成し、各院が秘密を要すると判断する部分を除いて、随時これを公表しなければならない)
国体9条前段 年貢運上之取立之法ハ、町人百姓之詰所より発言いたし規則を定める也、乍併弐ヶ所大名詰所ニ於ても発言致す事有之、又は町人百姓之内より持出し候書面改め直し、聢と法則となすへし(憲法1条7節1項 歳入の徴収に関するすべての法案は、まず下院で発議されなければならない。ただし、他の法案の場合と同様に、上院はこれに対し修正案を発議するか、または修正条項をこれに加えて同意することができる)
国体9条後段 銘々法立之書面三ヶ所を通し候上大君え入御覧、若大君御老中若年寄等へ改評義ニ及ひ別条無之時ハ、御名前ニ御判被為遊、然して法となる、乍併大君老中若年寄御相談之上にて其書面不都合無理之事共有之候へは、其趣を認メ差出し御役所へ可差戻、就而ハ其役所ニ於て右之謂れを記録え書留、猶又再評義ニ及ひ、又三分の二之入札ニ落札いたし候へ共、其書面え大君之書添を相添外役所え相廻し、外役所ニ而も右之通否無之候得は、大君之判は無之とも国之法則と可相成(憲法1条7節2項 下院および上院を通過した法案はすべて、法律となる前に、合衆国大統領に提出されなければならない。大統領が承認する時はこれに署名し、承認しない時は拒否理由を添えて、これを発議した議院に返還する。その議院は、拒否理由の総てを議事録に記載し、法案を再審議する。再審議の結果、その議院の3分の2がその法案の通過に同意した場合は、法案は大統領の拒否理由と共に他の議院に送付され、他の議院でも同様に再審議する。そして再び3分の2をもって可決された場合に、その法案は法律となる)
【行政府】
国体13条 国を取扱候勢ハ皆々日本之大君に有之、就大君之家は代々相族候事、其代ハ替リ候共法ハ不可動、評定所より申立候通大君之上より取扱可申事、右評定所と云ふハ時々ニ公儀之膝下二おゐて寄合、万端国之為筋、又は法を拵ひ可申す事(憲法2条1節1項 行政権は、アメリカ合衆国大統領に属する。大統領の任期は4年とし、同一の任期で選任される副大統領と共に、以下の方法で選挙される)
【司法】
国体14条 日本政府の裁判の勢ハ第一の調所ニ於て是あるへし、就てハ彼の調所ハ政府の膝下ニ立置、又ハ其外小なる調所を建置候事ハ常二評定所ニ於て決断之上是を建置候事 大小調所の役人、其勤向を実直二守リ候節ハ決而役替等無之候、就てハ夫々の扶持を頂戴すべし、又ハ此の役を勤るトキハ、扶持等減少「致」す事相ならさる事(憲法3条1節 合衆国の司法権は、一つの最高裁判所および連邦議会が随時制定、設置する下位裁判所に属する。最高裁判所および下位裁判所の判事は、善行を保持する限り、その職を保ち、またその役務に対し定時に報酬を受ける。その額は在職中減額されない)
国体15条 大君之政府え対し返逆(ママ)を企てる事 但し、政府ニ向ひ兵を起し、又は大君の敵に従加勢を致す事 反逆の罪に陥る時ハ、調所二於て自分白状致し候歟、又ハ證人者二人又ハ其餘有之候て訴之候事、相違有之候節ハ罪に陥る事決而不相成候事、返逆を致し候者を罪に行ふ其法を立る勢ハ評定所に於て有之、乍併其餘両親妻子或ハ親類に決而罪に落すへからす、只其身のミ其罪に行ふべし(憲法3条3節1項 合衆国に対する反逆罪は、武力を用いて合衆国に戦端を開くこと、または合衆国の敵に援助と便宜を与えてこれに荷坦する行為のみに限られる。何人も、同一の明白な犯行についての2人の証人の証言があるか、又は公開の法廷における自白に基づく場合を除いては、反逆罪について有罪判決を受けることはない)
【改憲手続き】
国体17条 三間(ママ)の評定所え出役する役人此の国体を改正する評議をいたし候節、十八人中七人承知致候得は、改正いたし候とも不苦候事(憲法5条 連邦議会は、両院の3分の2が必要と判断したときは、この憲法に対する修正を発議しなければならない。また、全州の3分の2の州議会から請求があったときは、修正を発議するための憲法会議を招集しなくてはならない)(以下略)
すでに触れたように国法19、20条は信教、表現、集会の自由を保障した規定である。これは合衆国憲法の修正1条の政教分離、信教の自由、言論・出版の自由、集会の自由および請願権の規定をモデルとしている。
修正第1条は1791年12月15日、権利章典に基づいて修正されたもので、「連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または国民が平穏に集会し、または苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を制限する法律を制定してはならない」と規定。当初は議会で制定された法律にのみ適用されていた。各州にも適用されるようになったのは1925年(ギトロー対ニューヨーク州事件)以降のことである。

四民平等の理念

ヒコの国体草案についての佐藤氏の評価はすでにふれたが、この草案については田中彰氏も自著『幕末維新史の研究』(日本史学研究叢書)の中で、「ジョセフ・ヒコの日本改革建言草案」を引用しつつ、独自の解釈を行っている。
同書によれば、ヒコが幕府に提出した「意見書」は「問答」=1862(文久2)年▽「国体草案」=1865(慶応元)年▽「日本国益書案」=1868(明治元)年▽「存寄書」=1871(明治3)年▽「改革箇条書」=同からなる。幕末期の資料である「問答」と「国体草案」について田中氏の論考は以下の通りである。
「問答」は、ヒコが故郷の姫路藩主、酒井忠績が1863年に老中に任じられた時、神奈川奉行を経て幕府に提出されようとしたが、奉行から返却された。ヒコはこの問答の中で、
①開国によって交易盛んにすれば、国内の産物はしだいに増加し、20~30年のうちには「欧羅巴の英吉利私(ヨーロッパのイギリス)」「亜細亜の日本」といわれるようになるだろう。交易によって外国の金銀を日本に集めることこそが「富国強兵の基」。
②「勅命」より重いものは「道理」であり、「道理」を天下に示せばだれもがそれに従う。
③日本の国内では必ずしも一致しておらず(筆者注=ひとつにまとまっていないという意味)、外国と戦う要件は備わっていない。日本にとっての「良策」は、「各国の定約を固く守りなば何事ありても各国は政府に荷坦する故、日本に背くもの有りても政府の危き事なし」であるから、先進国の「法度」を参考にし、「古例古格」に固執しないで「国法」を改め、開国のために種々の政策を遂行すべし。
――の3点を主張した。
田中氏によると、ヒコのいわんとするところは、開国への国策の転換であり、それを基礎として「富国強兵」の実を挙げるべき、というもので、そこには攘夷の「勅命」をこえた世界に通用する「道理」の上に立とうとするヒコの立場が鮮明に示されている、という。このうえで田中氏は「国体草案」について、ヒコの開国認識を前提として立てられたものとみる。
田中氏はこの論文の中で、「国体草案」の各条項を解説しているが、佐藤論文と重複する点が多いので、ここでは省略する。田中氏は32条に及ぶ国体草案全体について「最大の特色はヒコの体験のなかにあったアメリカ合衆国の憲法理解であり、この合衆国憲法を下敷きにしていること」としたうえで、「国家権力の組織や運用という一般的な規定のほかに、いわゆる庶民議院における百姓・町人の国政参加(もとより3万人に一人という限定がある)の機関が、大名の二つの議院と同等のレベルで規定されている」ことを評価。ヒコの草案は合衆国憲法をそのまま引き写したものでなく、彼なりにアレンジしている。「大君」の存在を世襲制としているのはそのひとつの現れで、「大君」と「国」(大名・藩)との規定などは幕藩制の現実をふまえている」とみる。
さらに軍事指揮権は「大君」にあるものの、議会は明らかに「大君」(政府)より優位に立っており、議員の不逮捕特権も認められている」と議会重視姿勢に注目。さらに宗教や言論・出版・集会の自由などの基本的人権条項が草案のなかにうたいこまれている点については「(ヒコ以外の)他の国家構想の規定にはまったくみられない。アメリカ合衆国憲法に依拠したヒコの草案の独自性としてとらえることができる」という。
この草案の受け取りを幕府が拒否したことはすでにふれた。田中氏は「幕府の要路にとっては、彼らの発想をはるかに超えた、まったく想像すらつかない草案としてこの意見書を受けとめ、ヒコに差し戻したのだろう」と推測している。
「百姓町民の詰所」で「年貢運上取り立ての法」について審議という、農工商の者にも極めて高度な政治参加を求めるヒコの建言は、幕府役人には驚天動地の発想だっただろう。政治にかかわることができる者は、藩政治でも上級武士に限られ、ほとんどの下級武士はそのらち外に置かれていた。ましてや「百姓町民」は、たとえ豪農であってもせいぜいが官僚機構の最末端に位置づけられるに過ぎなかった。こうした百姓町民を大名と対等の立場に引き上げる、というのがヒコの提言である。士農工商の四つの身分のうち農工商を士と同等に、という発想は「四民平等」の理念にほかならない。
ヒコの国体草案は「大君」を世襲制としている。ということは、幕藩体制が崩れるとは全く思ってもみなかったことを示している。幕藩体制のなかで四民平等を、仮に夢物語としても考えた者がいただろうか。私は中学校の社会科の授業で、明治新政府の画期的な政策として版籍奉還、廃藩置県、地租改正、四民平等とならった。ヒコの提言は身分制廃止への一石を投じようとしたものといえるのではないだろうか。
すでに何度もふれたように国体草案はアメリカ合衆国憲法をモデルとし、ヒコなりにアレンジを加えてつくったものだ。では、ヒコはアメリカの政治体制をどのように理解していたのだろうか。
ヒコ自身がかいたものに『アメリカ彦蔵自伝』『開国逸史 アメリカ彦蔵自叙伝』、体験記として『彦蔵漂流記』がある。いずれも本シリーズで幾度か取り上げてきているが、本稿で注目したいのは『漂流記餘話』である。10ページ程度の短い文章だが、おもにアメリカで得た知識を記しており、彼が何を学びどう認識したかを知るうえで興味深い。ここではアメリカの政治体制をどうとらえたかをみてみたい。
ヒコはアメリカ独立戦争に際して、後に大統領になるワシントン将軍はこう考えた、と以下のように記している。
戦争は(イギリス)国王の辛政に窮して蜂起したもので、国民の心が一致することによって辛政をまぬがれた。人民が一致和親しておればどんな大敵もとるにたらない。国中が一致和親する法律で国を治めること以上によいことはない。国民に貴賤の隔てなくみな平等と定め、禄位を世襲せず才能があって国民が従う者を選びそれぞれの役人とし、そのうちで最もすぐれた人物を大統領に挙げるならば、諸民もその命令に従うだろう。しかし、官位にいることが長ければおごりぜいたくする者も出てくるから、在位は四年に限って位を退き、他の賢人を選んで位につかせるべきである。
ヒコはこうした認識に立って政治、徴税、司法について、次のように書き留めている。
1)アメリカにおいて人物を選ぶ方法は、36カ国でそれぞれ国民が投票して国主(州知事)を選ぶ。これも4カ年を期限として国事を裁断する。1国から2人を選んでセネターとし、ワシントン政府に参集、アメリカ全部にかかる国政、法度を評議して、大統領の決断をまつ。
大統領の判断で博識多才の5人を選び、セネターに相談し、異存がなければその役を命じる。5人は大統領の相談相手で、1海軍を司る、2陸軍を司る、3外国のことを司る、4金銀の出入りを司る、5田畑山林を司る。2)政府は税をもって収入とし、港ごとに奉行を置き税を集め、山林、田畑、町年貢の類は国主(州知事)または奉行のもとに納め、政府に納めるものはワシントンに納める。戦争のような大出費があれば金銀の代わりに紙幣をもって通用に用い、平和になれば紙幣を税や年貢として納めて元にもどす。
3)公事訴訟は、その村その町で地面を所持し、才徳のある人物を投票で選んでおき、その者の裁判を受ける。訴答(訴訟人と被告)ともに弁才のある人を代理に頼み、訴訟したり弁護することがある。
以上の記述のなかに「国民は平等」という考えがあることは極めて重要だ。これらの記述からみると、ヒコの国体草案は、アメリカでの見聞や学習などによって、下地ができていたのではないか。こうした見聞・知識があればこそ合衆国憲法を学ぼうとしたと思われる。見聞→合衆国憲法→国体草案へと思考が進んでいったと捉えるべきであろう。

グラバーと交流

ヒコが国体草案を幕府役人に提出したのは1865(慶応元)年5月であることはすでに触れた。このころ、ヒコが横浜の居留地で発行した我が国初の邦字新聞『海外新聞』もようやく軌道にのりかかったころだった。5月11日には第5号を発行している。『海外新聞』は翌年9月着の船便に基づく第26号をもって廃刊。10月に居留地が火災に遭ったこともあって、11月、長崎に向かった。ここまでが前号までのヒコの軌跡だ。今号では長崎でのヒコの様子に迫りたい。
横浜の大火事でヒコがなすこともなく過ごしていたころ、長崎の友人Fから、アメリカに帰ることになったので商売をみてくれと言ってきた。長崎に向かう準備をしていると、幕府が雇い入れた蒸気船が長崎に出航するところだった。奉行所にかけあうと、長崎まで無料で乗せてくれた。長崎に入港したのは1867年1月3日。
ヒコはFから、隣国の諸大名が蒸気船や武器を手にいれたがっていて、大名の役人が長崎の町になだれ込んで来ている、と聞かされたと自伝に記している。とくに薩摩と長州は艦船をしきりに買い入れるとともに、大量の銃器を入手しているといわれていた。江戸から遠く、幕府の監視の目が行きとどかないことがその背景にあるのだ。こうした貿易の中心になっているのはトーマス・グラバー。とくに薩摩との結びつきが強く、他の商人の入りこむ余地はなかったという。
ヒコは大浦の居留地に住むことになった。2日後、フレイザーに連れられて大浦3番地のアメリカ名誉領事、ワォルシュをたずねた。アメリカ国籍の者はその地の領事に届ける決まりになっているためで、ジョセフ・ヒコと登録され、居住地に居住することが正式に許可された。(吉村昭『アメリカ彦蔵』新潮文庫)
長崎にはイギリス人66人、アメリカ人26人、オランダ人38人など224人の外国人が居留していた。Fの貿易の仕事を行うことで、外国の商人を多く知ることになった。吉村氏は前掲書のなかで「商人たちは、ヒコが漂流してアメリカに行き、アメリカに帰化して神奈川の領事館の通訳官であったことなども知っていた。ヒコを招いて、リンカーン大統領に会ったときの話を聞きたがった」と書く。吉村氏の想像の通り、長崎の居留地でもヒコの漂流とアメリカでの見聞は大いに興味をもたれただろう。
1月22日、佐賀藩の本野周蔵と名乗る藩士が訪ねて来た。肥前公が外国の制度を聞きたいといっているので佐賀まで来てくれないか、というのだ。「藩公は武器、船舶、戦争、文明が西洋ではどれだけ進歩しているかについてできるだけ知識を得たがっている」と本野。ヒコは本野の申し出を快諾した。佐賀行きは実現しなかったが、これを機にヒコは佐賀藩士と交流するようになった。
4月12日、Fは長崎を離れて帰国の途についた。そのしばらく後のある日、グラバー商会と関係が深いMという65歳の男性が訪ねてきて、以下のように語った。
長崎の港外にある高島炭坑は佐賀藩の所有地になっていて、産出される石炭は東洋でも最優秀。高島ほどの所は相当に金を出しも手に入らないだろう。動力ポンプを6000ドルで購入すれば、採炭量は3倍になると見込まれる。
Mが言いたいのは「グラバーは高島炭坑を佐賀藩と共同経営したいので、仲介をしてほしい」ということだった。その後、ヒコは佐賀藩の知り合いを通じて藩公の意向を確かめ、「高島炭坑の経営については佐賀藩とグラバー商会はそれぞれ2分の1ずつ出資し、利益は折半する。佐賀藩の出資金はグラバー商会がすべて負担し、利益が上がったときにグラバー商会に返金する」ことで話はまとまった。
佐賀藩は共同経営を受け入れ、ヒコの立ち会いのもとで契約が交わされた。共同経営にあたっては佐賀藩から数人が役員となり、実質経営はグラバー商会があたることになった。日本人と外国人との間でできた我が国初の合弁会社である。ヒコは炭坑の経営にもかかわり、グラバー商会とも密接な関係をもつようになった。
高島炭坑はこうして近代的な経営によって操業されるようになったが、やがてグラバーが生糸相場で失敗し、1873年に国有化された後、三菱合資会社の手にわたる。3000人の労働者が酷使されて労働争議から暴動に至る労働運動史上の問題に至るが、いうまでもなくこれは本稿の目的ではない。
話を戻す。長崎の貿易は実質上、グラバー商会を中心に動いており、ヒコは自分の商社はグラバー商会傘下に入るしかないと考えた。そしてグラバーが奉行所から借りている居留地東山手16番の洋館に移った。(『アメリカ彦蔵』)
こうした折、木戸準一郎、伊藤俊輔と名乗る二人が訪ねて来て、外国事情についていろいろと質問した。二人が去ってから、番頭の庄次郎が「薩摩なまりがない。年長の侍は長州の桂小五郎。顔をみたことがある」といった。
ヒコにとって長州は思い出深い藩だ。1863(文久3)年7月、ヒコが神奈川領事館の通訳をしているとき、アメリカの蒸気船ペンブロークが下関沖合で砲撃を受けた。アメリカ公使が領事館に奉行を呼んで談判。ヒコが通訳をした。奉行は「長州が独自に行ったことで、幕府は何の関係もない」などと返答。奉行が去ったあと、公使と領事らが相談し、ワイオミング号を現地に送って(長州の船を)拿捕し、戦利品として横浜までもってくるのがいい、との結論に達した。
領事からの命令でヒコはワイオミング号に乗り組む。7月16日、下関海峡の手前で停泊中の帆船2隻と蒸気船1隻を発見。艦長は「蒸気船をつかまえる」と叫んだ。陸上の砲台はワイオミング号をねらっているようにうかがえた。艦長はマストの先端にアメリカ国旗を掲げるように命じたが、陸上の相手は国旗に敬意を表すどころか砲火は激しくなるばかり。「合戦準備」。艦長の命令がくだり、64ポンド砲が陸上の砲台に向けて火ぶたを切った。
さらに長州側の3隻の船の真っただ中に乗り入れ、ダールゲン砲2門から発砲。蒸気船のへさきを横切り、敵に発砲を続けながら海峡に向かって前進。敵は船からも砲台からもたゆまず砲撃を続けた。だが弾丸は命中しない。陸上砲台は海峡に向かって固定されていて、弾丸が艦の上を飛び越えていくのだ。ヒコは生きたここちもしない。
敵の蒸気船は藩公の家紋のある幕が張られており、高官が何人か乗っているようにみえた。この蒸気船が港の方に逃げようとした瞬間、ダールゲン砲が発射され、大量の蒸気がデッキから噴き出すのが見えた。敵の乗組員たちは海に飛び込んで逃げた。船は一回転して1、2分で海中に没した。水夫たちは「フレー、フレー」と大声で三唱した。
この戦闘で六つの砲台、大型帆船1隻、小型帆船1隻、蒸気船1隻とわたりあい、1時間足らずの間に全部の砲台を沈黙させ、小型帆船と蒸気船を沈没させた。味方は弾丸53発を撃ち、長州側は130発を発射した。味方の兵5人が死亡、7人が負傷した。7月17日、豊後水道で停止し、乗組員が全員集合して死者を海に葬った。横浜に戻ったのは7月20日。
以上は『アメリカ彦蔵自伝』の合戦描写だ。ヒコが直接その場にいただけに、記述が生々しい。非戦闘員であるヒコにとって忘れられない体験であったのはまぎれもない。
桂小五郎が長崎でヒコに会ったのは34歳のとき。すでに木戸孝允と名乗っていた。以降、木戸(ときに木戸孝允)と表記する。ヒコが木戸に下関の砲撃のことを語ったという記録はない。だが、木戸と会ったとき、強烈な体験が頭をよぎったにちがいない。
木戸らはヒコに、「幕府が政権をとっているのは不当だ。長州は政権が朝廷に復するよう戦っている。その立場を外国人にも理解してもらえるよう、力を貸してほしい」といった意味のことを述べた。
木戸らはヒコのところに何度もやってきた。そして長州藩の貿易の特別代理人になってほしいと懇願した。ヒコが承諾すると、
「本日、アメリカ市民J・ヒコ氏を任用し、長崎港における藩公の特別代理人として勤務させることを約する」という趣旨の書面を手渡した。書面には木戸準一郎、林宇一の署名があった。林は伊藤の変名だ。

洋式軍艦の建造見学 

幕末から明治維新にかけて、この国をリードした薩摩の西郷隆盛、大久保利通とならぶ三傑の一人、長州の木戸孝允。木戸が長崎でヒコと会うまでの前半生を概観しておきたい。
木戸は1833(天保4)年、藩医、和田昌景の長男として生まれ、7歳のとき家向かいの桂家の末期養子になる。長じて江戸の三大道場のひとつ神道無念流斎藤弥九郎道場に入門、免許皆伝を得て塾頭を務める。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では北辰一刀流千葉貞吉道場塾頭、坂本竜馬と試合をし、竜馬がツキで勝ったことになっている。司馬は「坂本竜馬と桂小五郎との試合については、残っている記録が多い」とまで書いているが、竜馬はその前日に土佐に帰った、との説もある。いずれにせよ、木戸が坂本竜馬と並ぶ剣豪であったことはまぎれもない。
木戸は竜馬同様、ペリーの来航に強く刺激された。ペリーが再来航(1854年)したさい、師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆代官、江川英龍に実地見学を申し入れ、江川の付き人としてペリー艦隊を見学。木戸は兵学家でもある江川から西洋兵学、小銃術、砲台築造術を学んだ。こうしたなか、木戸は洋式軍艦の建造を直接目にする機会を得た。
1854(嘉永7)年、ロシア大使、プチャーチン一行が日露和親条約締結のため、ディアナ号で下田港に入港したさい、大津波に見舞われて少なからず損傷した。この修理のため西伊豆の戸田港に向かったところ、沖合で沈没。戸田で代わりの船を建造することになった。洋式船の建造知識や経験が日本側にないため、大使に同行していた海軍大尉モジャイスキーが設計。幕府は江川に命じて造船資材を調達させ、伊豆の船大工ら40人が建造にかかわった。
この建造に水戸藩が関心を示し、鱸半兵衛が蘭学者や船大工を連れてやってきたほか、佐賀藩からは10人が見学。また浦賀奉行所与力、中島三郎助も足を運んで来た。
船はスクーナー型と呼ばれるもので翌年に完成。長さ25メートル、2本マスト。長さ19メートルの竜骨を基本構造としており、我が国で造られた初の洋式船だ。この船は戸田港にちなんで「ヘダ号」と名づけられ、ロシア兵49人が乗り組んで戸田を出港、アムール川河口のニコライフスクまで航海した。
幕府はこの造船経験を重視し、ヘダ号と同型船を1855年までに6隻建造。戸田があるところが君沢郡であることから「君沢型」と呼ばれた。会津と長州に各2隻が貸し出され、残る2隻が幕府用となった。(尾形征己『日本とロシアの交流――下田・戸田・富士からはじまった――』下田開国博物館刊)
大江志乃『木戸孝允』(中公新書)によると、プチャーチンが戸田号の完成を待ち切れずに帰国して後に同船が完成したさい、木戸は戸田に出向いて操縦の実況を視察した。病気のためいったん萩に帰ったあと、造船技術を学ぶため浦賀におもむき、中島三郎助に教えを請うていたのだ。中島はのちに幕府の軍艦操練教授、軍艦頭取になるほどに軍艦操縦法にたけていた。
木戸はこの時のことを獄中の吉田松陰に次のように書き送っている(前掲書)。
今から天下の情勢を探索し、教えのように海陸の備を一人から練り立てる事を精窮したいと存じます。(略)軍艦の内命も蒙り、すでに大工らも僕の願いどおりに差出してくれましたので、まず浦賀に至り、大工もいちいち彼の製造場に入り込ませ、僕は中島の若党となってでも製造場への出入りを自由にし、彼らを鼓舞し、なにとぞいちいち呑込むようにしたいと存じています。そして僕はそのひまに海軍練兵規則などを呑込むつもりです。
木戸は中島からの教えを受けて藩にスクーナー船の建造を建言、長州藩はこの意見を入れて1856(安政3)年、建造に着手し同年12月に進水式を行った。工費は4000両。船は丙辰丸と名づけられた。長さ27メートル、47トン、大砲3門が据え付けられた。
1860(万延元)年、江戸への練習航海で品川沖に停泊していた丙辰丸内で、長州側の木戸や松島剛蔵、水戸藩側の西丸帯刀らが会合し、密約を交わした。両藩が提携して急速に藩政改革を行うというもので、水戸が「破」(現体制の破壊)、長州が「成」(改革を成し遂げる)と、役割分担を決めた。「丙辰丸の盟約」と呼ばれているが、『醒めた炎――木戸孝允』(中公文庫)の著者、村松剛は「西丸の記憶違いで実際には有備館(長州藩の桜田藩邸の道場)の舎長室」としている。
国元では直目付、長井雅楽が「国是遠略は天朝から出て、幕府がこれを実行する」(航海遠略説)との公武周旋策を打ち出し、公武合体派を後押しした。これに対し木戸が中心になって公武合体策を否定し、藩政を攘夷奉勅方針に変えることに成功。木戸が右筆、政務座副役、学習院用掛と、藩政の中枢にかけ上がるにしたがい、長州藩は京都で尊王攘夷の主役になった。(松尾正人『木戸孝允』吉川弘文館)
かつて留学を希望したこともある木戸の後ろ盾もあって1863年、井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)、山尾庸三、井上勝、遠藤勤助の5人が藩の公費で秘密裏にイギリスに留学した。この年5月、久坂玄瑞らが率いる長州軍が関門海峡で通過中の外国艦船を攘夷戦として砲撃を開始。破約攘夷がなるはずはなく、幕府が英米仏蘭の4カ国に賠償金を支払うことで決着した。
1864(元治元)年、長州先遣隊が蛤門付近で会津兵と武力衝突(蛤御門の変)したことから木戸は京都市中に潜んだ後、長州藩士の残党狩りが厳しくなったため但馬の出石で潜伏。幕府は第一次長州征伐戦争をしかけた。この報で伊藤俊輔と井上聞多は急ぎ帰国。「幕府への恭順」を掲げて藩政を牛耳った俗論派に対して高杉晋作ら尊攘派(正義派)によるクーデターが成功し、木戸は帰藩することができた。
1866(慶応2)年、坂本竜馬らのあっせんによって木戸は西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らとたびたび会談し、薩長同盟が成立。幕府は第二次長州征伐(四境戦争)を目論んでおり、長州側は薩摩名義でイギリスから武器、軍艦を購入することとなった。こうした折に木戸はヒコの名を聞き知った。

合衆国憲法に関心

ヒコと木戸の出会いはどのようなものだったのだろうか。すでに一部ふれているが、『アメリカ彦蔵自伝』からその様子をここで表しておく。
6月のある日の朝、二人の役人が私の会社をたずねた。二人は木戸準一郎と伊藤俊輔と名乗り、薩摩から来た役人だと言った。二人は直ちに海外事情について質問をはじめた。ことにイギリスとアメリカ、および両国の制度や政府などの生い立ちについて質問した。私は力の及ぶ限り二人に答えてやった。年長の方(木戸)はアメリカ合衆国憲法について大いに興味をおぼえたと自ら語り、――まったく耳新しいことだと言った。
私は二人の質問に腹蔵なく答えたので、両人とも大いに喜び、親しさを感じるようになったらしい。しかし私には、二人が自分たちの身の上について打ち明ける気持ちがまったくない、ということが分かった。
不思議なことは、薩摩の役人だと名乗りながら、両人に薩摩なまりのかけらもないことだ。番頭は「年長の方は桂小五郎といって、長州のサムライです。私が米商人で景気がよかったころ、商用で何度も長州に行きましたが、そのころ桂氏とよく下関で一緒になり、碁をやったり、歌を作ったりしたものです」と言った。
数日たってのち、二人はまたやって来た。私が昼食をすすめると、二人は招待に応じた。木戸の方を向いて、あなたは桂とおっしゃる方ではありませんかと聞いた。
「ご承知のとおり」と木戸は言う。「われわれはひどく誤解され、曲解され、別に逆賊の名に値するようなことは一つもしてないのに、将軍の政府から逆賊として扱われています。こうした事情のため、われわれは取引で長崎へ来るときは、いつも薩摩の名前をかりるのです」
こうして正体をあらわしてからは、両人はずっと気軽になって長崎訪問の真の目的について語り始めた。話が日本帝国の昔の歴史のことになり、だいぶ長く話しこんでから、木戸はさらに話を進めた。
「この国の本当の君主であり支配者たる者はミカドなのです。いっぽう将軍はどうかというと、自分で大君(タイクン)と称していますが、将軍家の先祖がおよそ250年前に横領した権力を、今日も揮っているに過ぎません。徳川家はその横領した権力を行使しつづけ、今日では将軍自ら『タイクン』と称し、ミカドの裁可も得ずに自分の名前で諸外国と条約を締結するようにまでなってしまいました。しかし世界の進歩によって時代は変わりました。われわれの主君たる長州が、いやわれわれ自身も願うところは、統治の権力をわれわれの真に正当な君主たるミカドに返還し、徳川は征夷大将軍の職を退かねばならないということなのです。これが実現すれば帝国は平和になり、外国との交際ももっと自由に、もっと親密になることでしょう。しかし国内に二人の支配者がいる限り、いつまでも不和や紛争の絶えることがないでしょう。――ちょうど一軒の家に主人が二人いるようなものです」
彼は、外国人にはわが国の歴史を十分わかっていなのだから、ミカド側の運動を促進するのに力を貸していただきたい、と私(ヒコ)に頼んだ。
自伝ではこの4カ月後の10月に木戸と伊藤の二人が訪ねてきて、すでに述べたように長州公の代理人となるよう依頼する。くどくなるのでここでは省略する。
木戸に関してさまざまな本が刊行されているが、木戸の考えがこれほどわかりやすく記述されているのは他にないだろう。煎じつめれば、「真の君主はミカドであるにもかかわらず、徳川幕府は政権を横領し続けている。国の平和と外国との交際のためにミカドに返還させるための戦いをしている」ということだ。ここには「尊王・倒幕・開国」という木戸の考え方が凝縮されている。
ここで注目したいのは木戸がアメリカ合衆国憲法について大いに興味をおぼえたことだ。『醒めた炎』は、アメリカの政治制度についてジョセフ・ヒコから説明を聞いた木戸は「――そのような制度は夢にも思いつかなかった」と薩摩なまりをわざとまじえながら、嘆息した、と想像たくましく表している。ヒコが初対面の木戸に熱心にアメ合衆国憲法について述べたことは、木戸の反応からみて明らかだ。同憲法のどの部分について触れたのかについては何ら書かれていない。木戸と伊藤の「イギリスとアメリカ、および両国の制度や政府などの生い立ちについて質問」への答えであることから推測するしかない。
制度や政府とあることから大統領制や議会制を中心とした民主的制度を指すのだろう。
「合衆国議会は上院および下院からなる」(合衆国憲法1条1節)
「下院は、各州の州民が2年毎に選出する議員で組織される」(1条2節1項)
「上院は、各州が2名ずつ選出する上院議員で組織される」(1条3節1項)
「連邦議会は、少なくとも毎年1回集会する」(1条4節2項)
「行政権は大統領に属する。大統領の任期は4年とし、選挙される」(2条1節1項)
「大統領は陸海軍の最高司令官」(2条2節1項)
「大統領は、上院の助言と同意を得て、条約を締結する権限を持つ」(2条2節2項)
「司法権は最高裁判所および下位裁判所に属する」(3条1節)
以上のような立法、行政、司法の基本条項について語り、その根本構造は「三権分立」であると説明したと思われる。
さらに信教の自由、言論・出版の自由、集会の自由と請願権(修正1条)についても語ったかもしれない。
本稿ではヒコが国体草案を中心とする建言について詳細に述べた。これらの建言は幕府には一顧だにされず、ヒコが幕府に不満をいだいていたことも触れた。木戸はその幕府を倒すというのである。合衆国憲法を語ったヒコが自らの国体草案についても熱弁をふるった可能性は高い。「第三ハ大百姓大町人之詰所なり」という百姓町人の議院の提唱。木戸が聞いたなら仰天したはずだ。

船中八策と五箇条の誓文

木戸孝允がヒコをどう評価していたかを推測できる史料がある。『幕末維新史の研究』によると慶応3(1867)年9月4日付の木戸が坂本竜馬に宛てた手紙には「大外向之都合も何卒其御元ひこなどゝ極内得と被仰談置、諸事御手筈専要に是また奉存候。実に大外向之よしあしは必芝居の成否盛衰に訖度相かゝわり候」とある。ここにある「芝居」は、木戸が画策していた倒幕計画を指すとされている。同書の著者、田中彰氏は「ひこ」は木戸や坂本と交流があったジョセフ・ヒコと推測できるとしたうえで、「竜馬とヒコはすでに相識る間柄であった。彼らの計画の遂行に重要な関わりをもつ対外問題について、極秘裏に竜馬とヒコが十分打ち合せておいてほしい、というのが木戸の意向だった」と解説している。
では、竜馬はヒコといつ会ったのだろうか。
竜馬は、自ら指揮する海援隊が借りていた土佐藩のいろは丸と紀州藩の明光丸が瀬戸内海で正面衝突したいろは丸事件で、紀州藩との交渉のため長崎に出向いた。長崎到着は慶応3年5月13日。翌14日、竜馬とヒコが会ったことを、同席していた肥後藩士、荘村助右衛門が報告した文書が残っている。それによると、ヒコは「度々公辺へ建言致」したが「此処ニ着眼之人物無之候」と述べたという(前掲書)。国体草案などの建言をしたが、幕府にはこれに着眼できる者がなかった、と嘆いたのだ。竜馬は国体草案についてヒコから聞かされたに違いない。
竜馬が有名な「船中八策」をまとめたのは、いろは丸事件が片付き長崎から京都に向かう船中といわれている。八策は以下の通り。
1、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ツベキ事
1、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
1、有財ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事
1、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
1、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ選定スベキ事
1、海軍宜ク拡張スベキ事
1、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守備セシムベキ事
1、金銀物貨宜ク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事
ヒコ研究家の近盛晴嘉氏は八策の第2条(上下議政局)をとらえて、「竜馬の船中八策の議院制はジョセフ・ヒコから学んだ」とみる。これに対し、『幕末維新史の研究』を著した田中氏は①国体草案の大評定所と八策の上下議政局は相通じるものがあるが、他の国家構想にも共通している②国際関係の法的確立に関する竜馬の綱領はヒコの草案の集約とはいいがたい③八策の海軍力拡張、貨幣制度の確立については、ヒコの草案では個々の細かな問題しかふれていない④ヒコの人権規定は八策には片鱗もない――などから、八策と国体草案との間に「一部に発想の共通性は認めるものの、その直接的な関係についてはなお慎重な史料的検討が必要」と、どちらかといえば消極的な見解だ。
常識的に考えても、竜馬がヒコから話を聞き、そのまま船中八策にまとめたとは思えない。
むしろ私が注目したいのは佐々木克『坂本竜馬とその時代』(河出書房新社)の、八策の第5条(無窮の大典)について「後の憲法のようなものを考えているのではないか。まだ憲法という言葉も使われていない時代である」という記述だ。本稿でヒコの「国体草案」は我が国初の憲法草案であり、それはアメリカ合衆国憲法を下敷きにしてヒコなりにアレンジしたものと述べた。竜馬はアメリカの大統領は選挙で選ばれることは知っていた。そうした制度を取りきめた憲法というものがあることをヒコから聞いたのではないだろうか。
船中八策はその第1条で大政奉還がうたいあげ、幕末史に異彩を放っているが、第5条の分析研究が十分に行われてこなかったように思う。
木戸から竜馬へと大きくそれてしまった。木戸とヒコの関係に話を戻したい。
竜馬らの陰の尽力で大政奉還がなったとき、木戸はヒコに書簡を送り、「大君も其職を替られ」と速報、「日本と外国とも真実の和親も相ととのひ、日本人の折合もよろしく相成可申と相楽み申し候。何卒乍此上、陰となり日なたとなり、日本の御為めに御尽力奉祈候」と、ヒコに日本と外国との架け橋になるよう依頼している。
大政奉還の後、戊辰戦争を経て、一気に明治維新へと時代は動く。こうしたなか、福井藩士で新政府参与の三岡(由利)八郎が起草した政策綱領五箇条が木戸の手元に届けられた(『醒めた炎』)。その冒頭は「庶民志を遂げ人心を倦まざらしむるを欲す」。三岡の師、横井小楠の思想の反映だろう、とは筆者の村松剛。第5条は「万機公論に決し私に論するなかれ」。松尾正人氏の『木戸孝允』によると、この5箇条はやはり新政府参与、福岡孝弟が修正を加え、さらに木戸が攘夷の否定と開国和親を求めて、「旧来の陋習を破り宇内の通義に従うべし」を加えた。さらに修正がなされ、最後に第1条の「列公会議」が書き改められ、以下のような五箇条の誓文となった。
1、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
1、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
1、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
1、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
1、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起すへし
佐々木克氏は『幕末史』(ちくま新書)のなかで以下のように解説している。1条は王政復古の大令でも強調された、公議・公論の原則をあらためてかかげたもの。2条と3条は、その阻害要因となっている溝をとり除くことを求め、挙国一致の体制で国家建設をすすめることを要求。4条で身分制社会のもろもろの慣習を打破し、意識変革をとげて国家の政治にたずさわることを求めた。
佐々木氏がここで示した王政復古の大令というのは「王政復古の大号令」と呼ばれる新政府の成立宣言だ。「総裁議定参与之三職ヲ置レ、万機可被為行(略)搢紳、武弁、堂上、地下ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭シ」(総裁、議定、参与の政府三職を置いて、万機の政務をおこなう。身分と官位の高い貴人、武家、公家、庶民の区別なく、公平な議論を尽くす=口語訳は前掲書より)
1条の「広く会議をおこし」は議会制度を念頭に置いているとみることができる。王政復古の大令の「公議」と併せ考えてみよう。
廃藩置県への動きを進めるため、1871(明治3)年7月、木戸の要請で制度調査会議が開かれた。メンバーは木戸(参議)のほか、三条実美(右大臣)、岩倉具視(大納言)、西郷隆盛(参議)、大久保利通(大蔵卿)ら、政府の中心メンバーやブレーン17人。議題は会議、定律、国法など。現代的な言葉に換えると会議は国会、定律は国家の基本法、国法は憲法(前掲書)。「木戸はこの会議で憲法や議会のような、国家の根本について議論し、策定することを考えていたようだ」と佐々木氏はみる。だが「木戸の主張は正論だが、準備の時間がなく」(佐々木氏)、会議は流れてしまった。
おそらく木戸はヒコの国体草案かアメリカ合衆国憲法が頭にあったのだろう。ただ、決定的に異なるのは、王政復古という天皇中心体制、もしくは天皇親政体制のなかでの憲法である。国体草案にある百姓町人の議院は木戸にとって発想外であった。というより、とても受け入れられるものでなかった。百姓・町人の出であるヒコと、武士という特権階級にいた木戸との決定的な違いである。結局、薩長を中心とする革命政権は百姓・町人の議院をつくるどころか、彼らを踏み台に富国強兵政策を進めることになる。

民衆啓蒙の新聞発行

1870(明治3)年暮れ、木戸は外遊中の品川弥次郎に宛てて手紙をかいた。新政府の役人の頑迷さを嘆き「人民あっての政府たるを悟らず嘆息しごく」としたため、開化の推進のためには民衆啓蒙のための情報機関が必要であることを力説、「一の新聞局をあひ開かせたく、内國のことはもとより外國のこともことごとくわが人民の心得にあひなり候やうのことはすべて記載させ、遍國遍藩にいたるまで流布つかまつり候やういたし候へば、自然と人民誘導の一端ともあひなり申すべく候」と、新聞発行への決意を語った(『醒めた炎』)。
『海外新聞』を出したヒコの影響をなにがしか受けての発想に相違なかった。『幕末明治新聞全集』は、その解説欄で「(木戸が出そうとする)新聞が実際には政府が指導せざるを得ないといいつつも、なお政府機関とみられることを気遣って、民間人経営の形をとらせようとしたあたり、用意周到といわねばならない。多少は政府の施策の批判も許した方がよいといっている点、完全な言論の自由と言い難いけれど、当時としては進んだ考えであったといってよいであろう」と一定の評価をしている。
木戸は長州藩の蔵版局知事をつとめていた山縣篤蔵を萩から呼び寄せ、500円の包みを二つ渡して「これで新聞をやれ」と命じ(『醒めた炎』)、『新聞雑誌』は1871(明治4)年5月に創刊された。
『幕末明治新聞全集』によると、和半紙二つ折り16ページ。表紙には「新聞雑誌」の表題や号数、その裏面に発行趣旨を述べた緒言、裏表紙に記事募集の社告などを掲載。発行はおおむね月3~5回、1884(明治7)年の廃刊まで357号が発行された。創刊号の印刷部数は13400部。第3号では3万部が刷られた。
緒言には「官許ヲ受ケテ新聞局ヲ開キ 太政ヲ始メ諸府県ノ変革又ハ里港ノ些事外国ノ異聞マデ見聞ニ随イ刊行スルハ我 日本国中ノ人人ト新知ヲ開くノ楽ヲ同シ」と、新聞によって人びとが新しい知識を得ることをうたいあげた。(興津要『明治新聞事始め―[文明開化]のジャーナリズム』大修館書店)
記事の内容をみてみよう。
創刊号には「二月中皇太后ノ宮東京城内吹上ノ御苑ニ於テ親ク蠺(カイコ)ヲ養ヒ玉ハントノ御事」「外国人ノ説ニ日本人ハ性質総テ智巧ナルモ根気甚乏シ。是肉食セザルニ因レリ。然し老成ノ者今俄(ニワカニ)肉食シタレバトテ急ニ其驗(シルシ)アルニモ非ズ。小児(コドモ)ノ内ヨリ牛乳ヲ以テ養ヒ立テナハ自然根気ヲ増シ身体モ随(シタガッ)テ強健ナルベシ」といった皇室のニュースや庶民の健康に関する記事がみられる。
「海外留学生ヨリ贈レル書中ニ、佛国ニテ内乱鎮静ノ後共和政治ノ政体ヲ樹立」(19号)。ここにある海外留学生は品川を指すのだろう。品川は木戸からの手紙を受け取った後、外国のニュースを集めるよう心がけていた(『幕末明治新聞全集』)のだ。
39号に「義婦多数の徒が集合しての建言」という注目に値する記事がある。「米国華盛遁(ワシントン)からの書簡」の内容を紹介したもので、「議員は衆人の代人(かわり)である。この議員を選挙するのに婦人を関しないの理はない。というのは議員の中に愚物と目される者が数々ある。この愚物がでるゆえんは、婦人選挙に関しないため。男子を見るに婦人にしくはなし。元来人というものは、男女によって天禀の知愚賢不肖はなし。人の愚は学ぶ、学ばざるによる」
「外国人に対しては恨を含むことがあっても、なるべく堪忍いたし、やむを得ない場合は土地の役所へ訴えたて静に筋合をいたせ。急怒に堪えざる事でも決して外国人を殺害するな」(49号)。開化を急ぐ新政府の外国人への気の遣いかたがうかがえる記事だ。
59号には「アメリカの大統領グラントは人望背いて当年の選挙でその地位を奪われた」とある。木戸は後述するように、実際にグラント批判の新聞報道に接することになる。
すでに触れたように『新聞雑誌』は357号で廃刊になった。山縣篤蔵が木戸に「各新聞も日に増し、盛大に相成り、殊に日報(東京日日新聞)初跋扈之勢」などとつづった手紙を送っており、東京日日、新聞報知などに圧倒されて、経営が成り立たなくなったのが廃刊に踏み切った理由のようだ。
『新聞雑誌』が創刊された年の12月22日、岩倉使節団一行50人が乗り込んだアメリカ丸が横浜港をサンフランシスコに向けて出航した。各国との間の不平等条約を撤廃し、平等な条約に結び直そうというもので、全権大使は岩倉具視、副使には大久保利通、伊藤博文らとともに木戸孝允が選ばれた。一行は欧米諸国10カ国を1年9カ月もかけて視察した。木戸は途中、召喚命令をうけて8カ月後に帰国したが、ワシントンで国会議事堂を訪ねたさいには、下院議長と使節との意見交換などでアメリカの政治制度を学んだ。さらにホワイトハウスでグラント大統領から招待されて各長官たちと懇親するなど、ヒコの足跡をもなぞった。
一行が欧米列強の近代産業を直接目にして圧倒されたのはいうまでもない。もちろん木戸もその一人だが、彼が見聞したものを書きだせば紙数がいくらあっても足らない。ここでは、久米邦武編著『米欧回覧実記・アメリカ編』(慶応義塾大学出版会)と宮永孝『白い崖の国をたずねて――岩倉使節団の旅・木戸孝允のみたイギリス』(集英社)から、新聞というものにどう触れたかに絞りたい。
ワシントンでは議事堂のそばの印刷局を訪ねた。4階建ての建物の最上階に活字印刷機械が据えられていて、蒸気機関で動いていた。アメリカではワシントンによる建国以来、全国すべてで安価に書籍が買えるシステムが作り上げられており、学問は民衆にまで普及していた。コロンビア特別区でも印刷会社、新聞社の資本は80余万ドルに達している――といった知識を得る。
上院の元老であるマサチューセッツ州のサムナー議院が、グラントが大統領に不適であると国会で逐条的に5時間も論じたところ、その論旨がすぐに新聞に掲載された。サムナー氏自身、この論を数万部印刷して各地に配布した。
イギリス・エディンバラでは生徒1300人ほどの学校を訪ねた後、スコッチメンといいう新聞社におもむいた。新聞が1分間に200枚ほど刷られるのを木戸は興味深く見学した。
こうして、欧米の新聞事情をたとえ表面に過ぎないとしても見聞した木戸にとって、『新聞雑誌』の廃刊は残念であっただろう。「開化推進のための民衆啓蒙」という新聞発行の目的に達したかとなると、木戸自身忸怩たる思いだったに相違ない。
松尾正人氏の『木戸孝允』によると、ワシントンに着いた翌日、使節団のなかで兵部と文部を担当した木戸は「根本律法」の調査を企画した。「五箇条の誓文」を踏まえ、新たな「確乎の根本」になる律法の制定が急務と考えたのだ。米国留学生の三等書記官、畠山義成(杉浦弘蔵)から「米国の憲法対訳」の研究を勧められ、畠山が旅宿で米国憲法の翻訳を行ったさいに木戸も加わった。木戸はドイツに滞在中の青木周蔵にドイツ憲法の事前調査を依頼。さらにイギリスでは「英国政体の書」の研究を試みた。イギリスの政治の原点に、国民が一体となり、財産権と立法権を守っていく姿勢を学んだという。フランスでも仏国政事書の研究を進め、ドイツでは、青木の案内で帝国憲法制定に影響を与えたルドルフ・グナイスト博士を訪ねた。
こうして米欧諸国を回覧中に調査・研究した憲法について、帰国後、その制定を求める建言書を政府に提出した。
木戸は、「君民同治の憲法」の目標を掲げながら、現段階の急務は五箇条誓文に条例を増加して「典則」を設けて弊害がないように補う。人民を教育してゆるやかに品位が上がるようにし、まず「確然たる法則」の政規・典則を作成することが急務とした。
「人民の会議」を設けて憲法を作成することについては、人民の進歩が不十分であるとし、「政府の有司」が万機を議論して「天皇陛下夙(つと)に独裁」して制定するのが妥当とした。天皇の英断をもって、「民意を迎え、国務を条例し、其裁判を課し以て有司の随意を抑制し、一国の公事に供す」るよう求めた。こうすれば「独裁の憲法」であっても「他日人民の協議」を起すことで「同治憲法の根種」になると論じた。(前掲書)
松尾氏の『木戸孝允』には「木戸は憲法制定を求める建言書を政府に提出しただけでなく、それを『新聞雑誌』に掲載した」とある。私は『幕末明治新聞全集』に収録されている60号までを点検したが、この建言書の掲載はなかった。61号以降に掲載されているのだろう。この確認は私自身への宿題にしたい。
いずれにせよ、木戸の建言にはヒコが提唱した人権規定への論及は全くない。何度も述べたが、ヒコは百姓・町人の議院を求めた。しかし木戸にとって百姓・町人は「進歩が不十分」というのだ。
ヒコは熱心に木戸にアメリカの憲法を語ったと思われる。だが、木戸がとりいれたのは極めて限定的だった。ヒコの思いは自由民権運動を待たねばならなかった。

植木枝盛の憲法私案

ヒコは自伝の1877年10月の項に、西郷隆盛が起こした西南戦争に関する新聞記事を引用して、熊本城を攻めた官軍の最初の勝利にふれたのにつづいて、「事件が西南の果てで起こっている間に、土佐の国の各党の態度がかなり憂慮すべきものとなった。前枢密院議院たる板垣は、ここしばらく政府の行動に不満をいだいていたが、いまや政府と反乱軍の間に中立の立場をとることを公言した」と書いている。ここに出てくる板垣が前参議、板垣退助であることはいうまでもない。なぜヒコは板垣に言及したのだろう。
板垣退助は西郷に同調して征韓論を唱えたが、米欧回覧から帰って来た岩倉らの慎重論に破れて下野し、1874(明治7)年、民選議員設立の建白書を政府左院に提出した。これが新聞に報じられ、自由民権運動への口火となった。こうした報道から板垣という政治家に注目したのかもしれない。
板垣が高知で立志社を設立すると、その書生となったのが植木枝盛だ。土佐藩士だった植木は上京して福沢諭吉に師事し、いくつかの新聞に投書をはじめた。郵便報知に投書した『猿人君主』が讒謗律に触れ、2カ月入獄している。植木は板垣の帰郷とともに土佐に帰り、立志社に参加、立志社建白書も起草した。なによりも彼を歴史上有名にしたのは1881(明治14)年に私擬憲法『東洋大日本国国憲按』(以下国憲按)を起草したことだ。同年以降のものでは『山田顕義憲法私案』、『国憲意見』(福地源一郎)、『国憲汎論』(小野梓)、『憲法草案』(西周)などが知られるが、これらのなかで最も民主的、急進的な内容とされる。本稿は自由民権運動がテーマではないので、植木の国憲按の簡単な紹介にとどめたい。
以下は家永三郎氏の『植木枝盛研究』(岩波書店)による。
国憲按は第1条に「此日本国憲法ハ明治十○年日本憲法会議ニ於テ議定セル所也」と規定。植木は明白に民約憲法の制定を意図していたことを示している。議会は1院制とし「現ニ租税ヲ納メサル者現ニ法律ノ罪ニ服シ居ル者政府ノ官吏ハ議員ニ選挙スルコトヲ得ス」(第143条)と、選挙で議員を選ぶこととした。
人権保障について植木は「人民が国家を組織する目的なのであるから、憲法においても最も優先する位置を占めるのは当然」とし、第4編に35条にわたって「日本人民ノ自由権利」を規定。具体的には生命身体の自由、生命を奪われない権利、法律の外において処罰・逮捕・監禁されない権利、拷問を加えられない権利、思想の自由、信教の自由、発言の自由、演説の自由、出版の自由、集会の自由、結社の自由、歩行の自由、住居を犯されない権利、教授および学問の自由、産業の自由、法律によらずして家宅捜索を受けない権利、信書の秘密を犯されない権利などの権利を列挙した。
そしてこれらの権利を守るための国の義務として「日本ノ国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺減スル規則ヲ作リテ之ヲ行フヲ得ス」(第5条)とし、加えて第6条で「日本ノ国家ハ日本国民各自ノ私事ニ干渉スルコトヲ施スコトヲ得ス」と、私権への国家権力の干渉を拒否した。
同書は上下2段組みで750ページにもわたる長論文で、とても私の手に及ぶものではない。しかしあえていうならば、ヒコの国体草案の考えをさらに推し進めたのが植木の国憲按といえるだろう。
ヒコの自伝には1875年4月14日の項に次のような記述がある。
ミカドの政府は二つの重大声明を公表した。第1は上院(元老院)と下院(地方官会議)を設け通常の形式における代議制度を取りいれることを通達したものであった。第2の声明は司法組織の中央集権化に関するものであった。5月には、最高裁判所(大審院)の構成法や規則が、全帝国にわたって完備した司法大系の新機構についての細則と共に公布された。
6月20日の項。東京では、第1回地方官会議が参議の木戸氏を議長にして、東本願寺で開かれた。
地方官会議では地方民会開設の議案に関して、府県会・大区会の議員選出を公選とするか区戸長とするかの議事が行われた。公選論の議案も別に提出されたが木戸は却下した。(『木戸孝允』)
ヒコにしてみれば木戸の後ろ向きの姿勢にいらいらしていたに違いない。
自伝には植木の国憲按についての言及はない。知らなかったのかもしれない。
大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されたのは1889(明治22)年、ヒコが52歳のときだ。28、29条に信教の自由、言論・集会・結社の自由が規定された。いずれも「臣民の義務を背かず」「法律の範囲内で」という制限つきの自由の保障だ。ヒコの伝記はその前年で終わっている。ヒコがこの憲法をどう受けとめたのかを書きとめた資料が見当たらない。もしヒコに会えるなら、私はこの一点だけは聞いておきたいと思う。(了)