編集長が行く《広島原爆の日に西宮大空襲 001》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

空襲を受けた地域を示す西宮市の地図(ウィキベテアより)

被災者に一切救済ない戦後
 広島に原爆が落とされた1945年8月6日、兵庫県西宮市南部が空爆され、その被災者の一人が大阪空襲訴訟の原告になっていたことを最近知った。同訴訟は「空襲の被害を受けたのは国に責任がある」として、被災者や遺族23人が2008年に訴えを提起。大阪訴訟に先立って07年に提訴された東京空襲訴訟の上告審で、最高裁は13年、「立法を通じて解決すべき問題」と判示し原告側を退けた。大阪空襲訴訟も14年、原告団の敗訴が確定。こうした司法の国会へのまる投げ判決を受け、空襲被害者を救済する議員立法を目指す超党派の国会議員連盟(空襲議連)が組織されたが、今年6月、国会への法案提出を見送った。一方、菅義偉首相は7月26日、原爆の「黒い雨」訴訟にからんで、被爆者援護対象区域外にいた人への被爆者健康手帳交付を決断。大きなニュースになった。その陰で、ふつうの空襲の被災者は政治からも司法からも見放されたままである。

大阪空襲訴訟の原告の証言

空襲で焼け野原となった西宮市(西宮市HPより)
空襲で道路に倒れた死体(ウィキベテアより)

西宮神社の境内に小型爆弾が2発、焼夷弾が300発以上落下、国宝の三連春日造りの本殿が焼失した。
阪神地区では1945年5月11日、B29爆撃機約60機が来襲、西宮市でも爆弾が投下されたのをはじめ、6月5日、同15日、7月24日にも150~350機からなるB29の波状攻撃をうけた。これら5回にわたる空襲の結果、同市の被災面積は7400万平方メートル、同市面積の20%にのぼり、死者は637人、重軽症者2353人、全焼全壊約1万5300戸、被災者は6万6500人に及んだ。
8月6日の西宮空襲について、大阪空襲訴訟の原告になったMさんは『空襲被災者はなぜ国の責任か――大阪空襲訴訟・原告23人の訴え』(矢野宏著、せせらぎ出版)の中で、自らの体験を要旨次のように述べている。Mさんは当時国民学校高等部1年生の13歳。父親が警察官だったため、西宮市内の警察官舎で、両親、兄、弟、妹と暮らしていた。
「空襲警報が鳴りはじめ、官舎の住人用につくられた公園内の防空壕に逃げ込んだ。逃げ遅れた人は無数にふる焼夷弾の直撃を受け、3人が即死した。防空壕に飛び込んできた爆弾の破片が左大腿部に突き刺さり貫通。足の肉が飛び出し、動けなくなった。
防空壕から逃げだすことになり、父親の部下の警察官が自転車に乗せてくれた。途中、河原にはおびただしい数の死体が転がっていた。明け方の5時ごろ、病院に着いたが、廊下には死体が並べられていた。病院では毎朝負傷部位に赤チンをぬるだけ。消毒したガーゼを巻いた棒を傷穴に通されるたび、全身がけいれんした。1カ月ほど入院した後、父親の実家の静岡で3年間通院した。治療費はすべて自分たちで負担しなければならなかった。今(2011年)も左足は伸びきったまま。足を引きずって歩く。いっそ死んでしまった方がよかった、と思いながら生きてきた」
西宮市の2020年4月のホームページにはBさんの以下の証言が掲載されている。Bさんは当時中学2年生。母、兄の3人で暮らしていた。
「8月5日夜、天井から吊るした暗い電灯を黒い布でおおい、ひっそり過ごした。その後、空襲警報が発令され、間もなく高射砲や爆音が聞こえだした。防空壕の入り口にいる時、焼夷弾が近所の何でも屋の主人にドスンとあたり、間もなくこの人は死んだ。B29の編隊が去ると、まわりの家々から火の手が上がった。町内会長が「山へ逃げろ」と叫んだので、燃え上がる家々をバケツリレーで消し止めようと気張っていた人々も南郷山の洞穴目指して一目散に逃げた。やがて真っ黒な雨が降り出した。帰ってみると盛んに燃えていた家の屋根は落ち、面影がなくなっていた。町内会長の号令が正しかったのか、間違っていたのか何ともいえないが、非常の時に組織の上に立つ者の姿勢が下に与える影響の大きいことを身にしみて感じた」
Bさんの証言で注目したいのは、町内会長が「山へ逃げろ」と皆を指示したことだ。総務省の資料には「市民は防火にめざましい活動をした」とある。しかし「防火活動」よりも「逃げる」ことを町内会長が決断してくれたおかげで、Bさんは空襲被災者にならなくて済んだのである。

命投げ出しての消火義務

焼夷弾の破片で足に大ケガを負ったMさんが大阪空襲訴訟の原告団の一人になったことはすでに述べた。大阪空襲そのものを整理しておきたい。
大阪が初めて大空襲を受けたのは1945年3月13日から14日にかけの夜間である。274機のB29が襲来し、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町などの集合住宅を照準に爆撃。中心市街地が焼き尽くされ3987人が死亡、678人が行方不明になった。

(上の写真「焼夷弾には突撃」と書かれた防火ポスター(『空襲被害はなぜ国の責任か』より)
第2回は6月1日。509機が大阪市西部を空襲、8・2平方キロにわたって被害がでた。6月7日の第3回空襲では鶴橋駅付近が照準点となったほか、大阪陸軍造兵廠を狙って爆弾が落とされ、数百人が犠牲になった。6月15日の第4回空襲では尼崎市、堺市、布施市(現東大阪市)、豊中市、守口町(現守口市)にも被害が及んだ。477人が死亡。第5回は6月26日。此花区の住友金属(現日本製鉄)製鋼所、砲兵廠が狙われた。7月10日の第6回空襲は堺大空襲とも呼ばれ、116機が堺市中心部に1万3000発(778トン)の爆弾を落とした。泉大津市、岸和田市、貝塚市でも被害を受けた。死者1370人。
第7回空襲は7月24日。117機が伊丹と木津川飛行場を爆撃。第8回は終戦前日の8月14日。150機のB29が大阪陸軍造兵廠を狙って空爆、約700個の1トン爆弾を集中的に投下した。これによって国鉄京橋駅でおびただしい犠牲者が出たことから「京橋駅空襲」とも呼ばれている。犠牲者は身元判明者210人、身元不明者500~600人。1955年から毎年8月14日に京橋駅南口で慰霊祭が行われている。
こうした空襲に対し、国はどう対処するよう国民に求めていたのであろうか。それを解くカギは先にふれた総務相の資料のなかにある。爆撃に遭った人たちが「防火にめざましい活動」をしたとの記述がそれだ。自らの命を守ることよりも消火活動が義務づけられていたのである。
前掲の『空襲被災者はなぜ国の責任か――大阪空襲訴訟・原告23人の訴え』によると、政府は1937年、国民に防空の義務を課す「防空法」を制定。41年、同法を改定し、「空襲時の退去禁止」を規定した。退去禁止の例外は乳幼児、妊産婦や高齢者のみとし、違反者は1年以下の懲役または1000円以下の罰金が科せられた。当時の教員の初任給は55円。1000円は庶民にはとても手が届かない金額だった。さらに空襲に際し、建物の管理者、所有者、居住者らは応急の消火活動が義務付けられ、たまたま現場付近にいた人も消火活動に協力することが求められた。違反者は500円以下の罰金である。このほか、建物の除去、移転、建物禁止、強制収用など「防空上必要なる措置」を国が命じることができると定めた。
国民に防空義務を徹底するため、真珠湾攻撃から2日後の1941年12月10日、国は『時局防衛必携』という手の平サイズの手引き冊子を400万部作成、都市部の全戸に配布した。この中で、焼夷弾攻撃で火災に遭った場合について、1)被服を水に濡らして消火にあたる、2)燃えているところにどんどん水をかける、3)隣家が火をかぶっている時は、バケツ、水ひしゃく、水道ホースなどで水をかける、4)飛び火の警戒には、水で濡らした火たたきで飛び火をたたき消すか、バケツ、水ひしゃくなどで水をかける――などと記載。「国土防衛の戦士であるとの責任を十分自覚」し、「命を投げ出して国を守ること」を求めた。
以上の「防空法」や防衛必携にしたがって、全国でバケツリレーによる消火訓練が実施された。大阪空襲訴訟の原告の一人、吹田市のMさんは「焼夷弾が数発、家と隣家の間に落ち、隣組の人たちがバケツリレーで火を消しはじめた」と証言している。しかし、Mさんが避難後、戻ってみると一面焼け野原と化していた。空襲による火災をバケツリレーで消し止められるはずはなかったのだ。総務省の資料も「ほとんど効果をあげなかった」ことを認めている。B29に竹ヤリで向かうに等しいこのバケツリレーの結果、逃げ遅れたり、逃げ場を失って犠牲になった人は数知れないであろう。(明日に続く)