編集長が行く《広島原爆の日に西宮大空襲 002》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

置き去りの空襲被災者

国は1953年、恩給法の改正で旧軍人に対する恩給制度を復活させ、普通恩給(本人に対する給付)、扶助料(遺族への給付)の支給をはじめた。さらに「戦傷病者、戦没者遺族等援護法」を制定、軍属、準軍属や遺族、戦傷病者にも給付対象とすることになった。しかし、戦災に遭った普通の市民やその遺族は何らの援護の対象にもならず、何の補償も受けられなかった。「国土防衛の戦士」とされながら、民間の空襲被害者は置き去りにされたのである。(写真)
その論拠は、「戦争で受けた損害を国民は受忍しなければならない」との「戦争損害受忍論」である。「国を挙げて戦争をしているのだから、銃後の国民として耐え忍ぶべきだ」というのである。
実に残忍で痛ましい悲劇ではあるが、広島・長崎の原爆で被害に遭った人たちのために「被爆者援護法」が制定されている。被爆者健康手帳が交付され、十分ではないにせよ、医療給付をはじめ各種の手当てが支給されている。しかも冒頭にふれたように、広島の原爆投下後に降った「黒い雨」をめぐる訴訟で、広島高裁は7月14日、国の援護対象区域外にいた原告84人全員を被爆者と認定。菅首相はこれを受けて上告を断念するとともに、原告全員のほか、同様の事情をかかえる人に被爆者援護手帳を交付すると述べた。
私はこの政治判断は当然のことであり、むしろ遅すぎた決定だと考える。ではなぜ、空襲被災者は何の救済も受けられないのであろうか。原爆は受忍限度を超えているが、1トン爆弾や焼夷弾は受忍すべき範囲内というのであろうか。
こうした素朴な疑問を多くの人たちがもち、1970年代になって、民間の空襲被害者の補償を盛り込んだ「戦時災害援護法」の制定を求める運動が展開されるようになった。これを受けて、議員立法として1973年から88年まで14回にわたって国会に提出されたが、いずれも継続審議もしくは審議未了で成立しなかった。2005年、シベリア抑留者など戦争被害者に対する慰藉事業を行うに際して、与党自民党と公明党の幹部、関係閣僚が名を連ね「この措置により、戦後処理問題に関する措置は確定・終了したものとする」との「了解事項」が交わされた。空襲被災者はシャットアウトされたのである。
政府与党だけでかってに「了解」されたのでは、空襲被害者たちが黙っているはずがない。2年後の2007年3月、東京大空襲の被害者131人が原告となり、国に対し謝罪と総額2億2000万円の支払いを求めて東京地裁に提訴。「東京大空襲の被害は現在まで継続している。国が民間人被害者を切り捨て放置し、軍人・軍属との差別を肯定している不条理が原告の苦しみを拡大している。いかなる差別も人間として耐えがたい」との声明を発表した(『東京大空襲訴訟原告団報告集――援護法制定をめざして』発行・東京大空襲訴訟原告団)。続いて大阪空襲の被害者らが翌2008年12月、「戦争損害受忍論を空襲被害者だけに押し付けるのは法の下の平等をうたった憲法に違反している」として大阪地裁に訴えを起こした。口頭弁論で原告側弁護人は「空襲による被害は原子爆弾による被害と比べて決して軽微なものではない」と指摘、空襲被害者が受ける差別が不合理であることを強調した。
東京地裁は2009年12月、「原告らの受けた苦痛は計り知れない」と原告に同情しながらも、「司法が基準を定めて救済者を選別すること困難」とし、「戦争被害者救済は政治的配慮に基づき、立法を通じて解決すべき問題」と判示、請求を棄却した。この判決が東京、大阪の訴訟に対する最高裁の判断にも踏襲された。
原告にすれば、政治が解決してくれないから提訴したのである。振り出しに戻された形であった。

23億円の涙金も出さない政府

裁判と並行して2011年、当時の与党である民主党が中心になって議員連盟が発足、法案の作成をはじめた。戦災孤児や遺族も対象とすることにし、対象者は65万人、支援額は6800億円と試算された。しかし、12年の衆院選でメンバーの多数が落選し、議連は事実上活動停止状態に。その後、鳩山邦夫衆院議員が会長に就任し活動を再開。鳩山氏が死去後、河村建夫氏(元官房長官)が会長を継ぎ、法案作成を継続。1人一律50万円を支給することを柱にし、対象は空襲などで障害やケロイドを負った人とした。対象者は推計で4600人、予算額は23億円。当初の計画から大きく縮小しているが、立法に実現性を優先した結果だという(6月12日付毎日新聞)。同紙の記事では、空襲で左足の膝から下を失った堺市に住むAさん(82)は「50万円では義足も買えない」とため息をついている。
23億円の予算でしかない議員立法すら、国会で成立の見通しがないため提出が見送られた。自民党の下村博文氏は記者会見で「(了解事項により)戦後処理に関する措置はすべて確定、終了している」と述べた。だが、この程度の予算で済むものなら、了解事項の例外とすることは難しくないはずだ。本当の理由は別にあるとの疑いを禁じ得ない。
これは戦争というものをどうとらえるか、の問題であろう。「国を挙げて行う戦争だから、国民は受忍しなければならない」という受忍論は、言い換えれば「天皇のために行う戦争であるから、被害を受けたからといって補償を求めるのはけしからん」という考えであり、天皇中心の明治憲法的思考である。一方、国を相手どった原告側は、法の下の平等という憲法の基本的人権尊重を主張の中心にすえた。現憲法の基本は平和主義である。国が戦争を起こすことは許されない。許されない戦争の犠牲者なのだから、補償を求めるのは当然の権利となる。
このように考えると、民間人空襲被害者救済に背を向ける姿勢には、その根柢に明治憲法体制という戦前への回帰への思いがあることが透けてみえる。安倍晋三氏が首相時代、新型コロナウイルス感染対策として布製マスクを全国の家庭に配布した。アベノマスクと揶揄されるほどに不人気だったこのマスクに200億円(安倍氏はのちに90億円ですんだ、という)以上もかけた。だが、安倍氏を引き継ぐ菅政権は、太平洋戦争に否定的な動きには、人道に反してでも一円も出さないという冷酷な姿勢を貫くのである。被害者たちは「死ぬのを待っているのか」と悲嘆にくれている。

個人の意志による空襲慰霊碑

空襲を受けた京橋駅(慰霊碑の説明板の写真より)
JR京橋駅南口近くの「大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑」

 

 

 

 

 

 

広島の原爆の日が近づいた7月下旬、私は西宮市のBさんが手記にあらわしている南郷山をたずねた。今は「西田公園」という同市の公園になっている。
同公園は阪急夙川駅から東に歩いて約10のところ。阪急の高架線路沿いにある。全体が山(といっても標高20~30メートル)になっていて、がけの前の坂をのぼると、小さなグラウンドがあり、子どもたちがサッカーボールに興じていた。グラウンドからは、うっそうとした林がつづいている。がけには石垣が組まれていて、水に親しむ場になっている。戦時中、ここに横穴が掘られ、防空壕として使われたのであろう。Bさんが住んでいたのは西田公園の南約200メートルの住宅街。南郷山が近いことが幸いした。西宮市南部にはほかにこれといった山がなく、大半の人は逃げ場がなかったと思われる。
私は西田公園から住宅密集地を通って、西宮神社に向かった。戦時中、木造の住宅がひしめいていたこの一帯は、戦後、大阪に近い住宅街としていちはやく復興。1995年の阪神大震災で大打撃をうけ、多くの住宅が損壊。いまは高層マンションが林立している。新しい住民が増え、広島原爆の日に空襲に遭った街であることも知らない人が大半である。空襲の悲劇を伝える碑や案内板がないかと探してみたが、残念なことに見当たらなかった。
西宮神社は西田公園の南約700メートルのところ。毎年1月9~11日の十日えびすには百万に及ぶ参拝者でにぎわう。案内板には「三連春日造りという本邦唯一の構造を持つ本殿は、昭和20(1945)年に戦禍にあったが、昭和36(1961)年に復元再建された」と記載されている。その戦禍が広島の原爆の日の空襲であることは書かれてなかった。
西宮は灘五郷の一つで、白鷹、白鹿、日本盛などの蔵元がある日本屈指の酒どころ。私は7年前、同神社本殿前で行われた地元酒造業者による試飲会に訪れた。各業者のお酒を小さなコップでいただいて飲み比べをするのだが、恥ずかしいことに、ここがB29のターゲットになり、目の前の本殿が猛火に包まれたことを知らなかった。いま、この神社境内に、その悲劇を伝える碑も説明板もない。
翌日、JR京橋駅南口近くの慰霊碑をたずねた。「大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑」である。1947年8月に「南無阿弥陀仏」の慰霊碑が建てられ、1984年に仏像がつくられた。説明板には「太平洋戦争終戦前日の昭和20年8月14日、大阪は最後の空襲を受けた。B29戦略爆撃機はとくに大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の1トン爆弾が4発、京橋駅に落ちた。うち一発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに、高架状の城東線(現環状線)を突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は210名であるが、他に無縁仏となった霊は数え切れず、500名とも600名とも言われている」と記載。空襲10カ月後の京橋駅の写真が添えられている。
この説明板によると、慰霊碑を建立したのは大阪府大東市の森本栄一氏。あまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと自費で建てたという。
こうした個人の強い意志によって、空襲の悲劇が今に伝えられている現実を思うと、犠牲者に対し何ら手を差し伸べようとしてこず、今後もそのつもりが微塵もない政府の無慈悲にあ然とするしかない。その政府に闘いをいどんできた被害者や遺族も高齢である。時間がない。政府は時間切れを待っているようである。