びえんと《朝鮮人虐殺画が表す人の悪魔性》文・Lapiz編集長 井上脩身

~関東大震災がもたらした歴史の闇~

新井勝紘氏著『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』の表紙

関東大震災から100年目にあたる今年、ひとつの本が上梓された。『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』。近・現代史を研究する新井勝紘氏が2021年に発見した『関東大震災絵巻』を中心に、被災した庶民がうわさに踊らされて残忍な行為をした事実を明らかにした一冊である。朝鮮人虐殺について、当時の子どもたちがかいた作文を収めた証言集を私はかつて読んだことがある。新井氏の本に掲載された絵に子どもの証言を重ねると、そこに浮かび上がるのは人間のかなしい悪魔性である。ロシアのプーチン大統領が行っているウクライナ戦争では、ロシア兵による虐殺や強姦が報告されている。仲よくすべき隣国の人々を集団で殺す群集心理の恐ろしさに、私はただただ暗然とする。積み重ねられた虐殺死体
新井氏が発見した絵巻(写真右)は2巻から成り立っており、最後に「大正十五年早春 淇谷」と記されている。関東大震災は大正12年に発生しており、絵巻はその3年後に描かれた。淇谷は作者の雅号と思われる。新井氏がさまざまな資料にあたってみたが淇谷という画家を特定することはできなかった。
  絵巻の冒頭、作者は序文をつづっている。その中で「このような大災を後世に伝えるため絵巻を作成しようとおもう。その惨状のうち、もっとも凄惨をきわけたものと、混乱をきわめた状態を表現するため2巻とする」(口語文に改めている=筆者)と、絵で表す意図を示している。

  絵は時間を追って表現する方法で描かれており、第1巻では「静かな住宅街の日常」にはじまって、「最初の揺れに驚く」「激震が襲う」「火災発生」「荷物をかかえて逃げまどう」「煙火に襲われた群衆」「崩壊した家からのぞく犠牲者の手と顔」など16点の絵をへて、朝鮮人虐殺場面にうつる。

 最初は「炎が見える住宅の向こうの狂気」。手に手に刀やこん棒などを持った20人以上の警察官や軍人、自警団に追い込まれて仰向けに倒れてしまった人物が、竹ヤリをもった白い制服の警察官らしい人物に足蹴りされている。また必死に逃げようとして前向きにかがんでいる人に、警察官のような人がこん棒のような物を持って襲い掛かり、竹ヤリを持った軍人が前をふさいで逃げられないようにしている。

絵巻に描かれた、積み上げられた虐殺死体 (『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』より)

「血を流した犠牲者」
学生帽のような帽子をかぶった青年が、刀を手にした5、6人の軍人に囲まれており、青年の肩から腕にかけて大量の血が流れている。両手はうしろで縛られているようで、前かがみになっており、今にも倒れそうな様子。

「前方での虐殺」
刀や竹ヤリなどを持って誰かを追いかけている軍人や自警団に、一人の警察官が「そこだ」と指さしている。その先には青色の服装の3人が血を流している。一番手前の地面に倒れている人物の背中には竹ヤリが突き刺さったままになっている。そのわきの仰向けに倒れている人物は3人がかりで押さえ込まれており、馬乗りになっている人物は刀を今にも振り下ろそうとしている。被害者の肩口から大量の血が流れ出し、目は既に白目になっている。最後の人物には、二人が今にも刀を振り下ろさんばかりに襲い掛かっている。被害者は仰向けに倒れかけており、頭から鮮血が地面に流れている。この現場を、武器を持った異様な形相の男たちが取り囲んでいる。場所は民家が建ち並ぶ住宅街である。

河目悌二が描いた凄惨な虐殺現場 (『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』より)

「折り重なる6、7人の犠牲者」
虐殺された現場に隣接する場所にゴザのような敷物がしかれ、次々に運び込まれた犠牲者が何段にも積み重ねられている。どの犠牲者も体のあちこちから血が流れている。このなかには目かくしされた者もいる。白い夏制服の十数人の警察官が取り囲み、その周囲には二つの高張り提灯がたっている。さらにその先には枕木のような木の柵があり、勝手に入れないようにしたと思われる。手前の樹木の間から、死体置き場を覗き込む人物もいる。

「安堵の表情を見せる人々」 殺害現場の柵の向こう側では、震災現場から逃げ延びた多くの人たちがホッとした表情で集まっている。このなかには乳飲み子を抱えた母親や子どもを背負った母親がいる。川の向こうにも多くの民衆がおり、遠方に山が見え、建物は倒壊を免れている。

 第一巻はここで終了。第二巻では30数人が津波にのみ込まれる場面など11点の絵が描かれている。 

虐殺現場に群がる群衆

 新井氏は1990年から2001年まで国立歴史民俗博物館に勤務し、関東大震災を研究テーマに、朝鮮人虐殺が描かれた絵の発掘につとめた。その結果、挿絵画家、河目悌二(189~1958)によるとみられる水彩画と、画家、萱原白洞(1896~1951)の絵巻物『東都大震災過眼録』を発見した。

 河目画は、隅田川と推測される川べりの広場で行われた虐殺を生中継のように表したスケッチだ。

 絵の左側では後ろ手にされた朝鮮人を取り囲んだ4人が刀や竹ヤリ、木刀のようなものを持って斬りかかっている。このうち3人は額に鉢巻き、ふんどし姿。被害者の頭から血が噴き出し、顔から胸にかけて鮮血が流れ落ちており、足元ふらついて今にもバタンとうしろ向きに倒れそうな状態。その足もとには、すでに後ろ手にされた5人が仰向けや横向けになって倒れていて、それぞれ頭、胸、背、肩、首のあたりから血が流れている。このなかの今倒れたばかりの犠牲者に、一人の男がトビクチのようなもので縛られた後ろ手を引っかけ、丸太を引きずるようにひっぱっている。

 絵の中央から右には連行中の朝鮮人が描かれている。中央に近いところでは、後ろ手に縛られた二人に、背嚢のような物を背負った人物二人が銃を突き付け、前からも3人が何か武器を突き付けており、朝鮮人は前後から挟まれた形だ。この二人の手前では、白い制服の警察官が、やはり後ろ手に縛られた人物を連行している。

 これらの人物の前方では警察官とおぼしき人物が両手を広げて群衆を押しとどめている。その群衆のなかには、鉢巻きをした2、3人が高い柵を乗り越えて、今にも虐殺に加わらんとしており、一人の警察官が制止しようとしている。さらに右手の高い柵からは、鉢巻き姿の青年らしい人物が身を半分乗り出しており、その背後には虐殺現場を一目見ようと群衆が押し寄せている。

 萱原白洞の巻物には横たわっている人物が17人描かれている。うち半数は後ろ手に縛られており、縛られてない人物は手足をつっぱらせ、苦しみの表情をうかべている。まわりに自警団が刀や竹ヤリを上に向け、何か叫んでいる。なかにはバンザイのかっこうをしている者もいる、この左手には5人の被害者がおり、いまにも殺されかかっている。ねじり鉢巻きで法被を着た自警団が、長めの竹ヤリのようなものの先端を後ろ手の人物の首筋に当てている。その後方に加勢している人物がおり、3人の被害者が大上段に振りかぶった自警団員に殺されかかっている。周りには武器をもった人たちが大声をあげている。

 現場の背景には、枕木のような太い丸太が立て掛けられ、「自警団」と記された高張り提灯が2本立っている。その左側には後ろ手に縛られた3人が一列になって連行され、刀や竹ヤリを持った数人の自警団員にまじって、男の子一人がついて歩いている。先頭の横にはサーベルを振り上げた警察官がおり、その前を提灯を持った自警団員がその先の殺害現場まで先導している。

事件を目撃した子どもの絵

小学4年生の山口巌君が描いた、イモ畑で捕らえられた朝鮮人 (『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』より)

 新井氏は河目画について「普通の人間ならとても凝視できない凄惨な場面が描かれている」とし、「アメリカ・ワシントンのホロコースト記念博物館で見た、ユダヤ人収容所の職員が人間とは思えない扱いをする映像を思い出す」と、朝鮮人虐殺をナチスの残虐行為にたとえる。一方白洞画について「虐殺は衆人環視のもとで堂々と行われたことを物語っている」といい、河目画、白洞画に共通していることとして「官民一体で虐殺が行われた事実を確認できる」と指摘している。

「河目画、白洞画との出合いは衝撃的だった」という新井氏にとって、新発見の絵巻はそれにも劣らない「三回目の衝撃」だった。2021年2月、ネット上のオークションにだされていた2巻合わせて30メートルを超える絵巻物を入手したという。絵巻の内容についてはすでに述べたように、きわめて詳細に虐殺事実をえぐりだしている。新井氏は「河目画、白洞画に出てこなかった場面があり、事件は誰が主導したかを明確に描いている。最終的な遺骸の扱い方に至るまで、記録しておこうという明確な意識を持っていなければここまで描くことはなかっただろう。警察官、軍隊、自警団が混然一体となって実行し、背後に衆としての民がいたことを歴史的な記録として残してくれた」と、史料としての価値の高さを示している。

 新井氏は私と同年の1944年生まれ。4歳の時に関東大震災に遭った義母から聞いた体験話が、同震災を研究する原点だという。義母の話によると、東京の本所から多摩の親戚の家に一家で遊びに行ったが、二学期が始まるので父母と兄二人は本所に戻り、義母は親戚宅に残った。警察官だった義母の父は本所被

廠跡などでの救護活動に挺身、竜巻のような火柱に巻き込まれて殉職。母と二人の兄も犠牲になった。

 こうしたことから新井氏は当時の子どもが描いた体験画にも強い関心を寄せていたが、義母と縁が深い本所区(現墨田区)の本横小学校の1~6年生の体験画146枚が残されていることを知った。同校の図画の教師が「思い出」として描かせたもので「東京市本横小学校・大正震災記念画帳」として綴じられていた。同校は1945年3月、東京大空襲に遭い、翌46年に廃校になったが、画帳は奇跡的に残っていたのである。

この児童画のなかで新井氏が注目したのが4年生、山口巌君の絵だ。疎開先の千葉県でイモ畑に逃げ込んだ朝鮮人を追い込む軍人や民衆を描いている。竹ヤリを手にし、鉢巻き姿の約20人の民衆を背後に、在郷軍人らしき人物が、青い長袖の服を着た一人の人物をサトイモ畑に追い詰め、今まさに捕縛しようとしている場面だ。捕縛された人物は腰から首に綱のようなもので縛られているが、右手には土くれのようなものをつかんでおり、なお必死に抵抗している。

絵の右上の端に「中山」と記されていることから、新井氏は、千葉県市川市中山と推定。震災から3日後の9月4日夜から5日正午にかけて2回にわたり、中山村(当時)若宮(現在の中山競馬場駐車場付近)で、計16人の朝鮮人が虐殺される事件があった。中山村の近くの海軍省の無線送信所が東京での流言を全国に打電して伝える役目もあり、所長が「この送信所に朝鮮人が襲撃してくる。朝鮮人を殺しても私が責任を負う」とあおったことから、虐殺事件に発展したとみられている。山口巌君は中山事件を目撃し、できるだけ正確に描いたとおもわれる。

事件に潜む民族差別

デマにおびえ竹ヤリを手にする自警団。子どもの姿も見える           (ウィキペディアより)
デマにおびえ竹ヤリを手にする自警団。子どもの姿も見える            (ウィキペディアより)

関東大震災によって壊滅的な被害を受けた人たちの不安感が高まり、社会が混乱するなか、内務省が「混乱に乗じて朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意するよう」各警察に指示したことに端を発し、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「神奈川方面から東京の方に襲撃する」などのデマが流れた。住民たちは自警団を結成、日本刀や竹ヤリ、銃などで武装、朝鮮人殺害がはじまった。日本人が朝鮮人と誤って殺された例も少なくなく、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝が殺された甘粕事件、社会主義者10人が殺された亀戸事件も起きた。

犠牲者については、朝鮮人約488人、内地人87人、中国人3人計約578人とされている。しかし正確な実数はわかっておらず、推定数は数百人~約6000人ときわめて幅が広い。いずれにせよ、東京、千葉、埼玉を中心に関東一円で集団的な朝鮮人虐殺が行われたことはまぎれもない。この数の多さもさることながら、『関東大震災絵巻』をはじめ虐殺現場を活写した絵は、民族差別感情を秘めた普通の庶民の暴力性を赤裸々に浮き彫りにしている。

韓国人、朝鮮人を差別するヘイトスピーチが社会問題となって久しい。しかし、ネット上には差別的書き込みが絶えない。災害だけでなく戦争や感染流行などによって、社会が落ちつきをなくすとこうした残虐事件が起きないとは言い切れない。関東大震災での朝鮮人虐殺画はそれを教えてくれている。