旅するカメラ《ピカドンの町》片山通夫

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 「赤茶一色の瓦礫の街」に一瞬で変わった。1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分のことである。 太平洋戦争末期、米軍機が世界で初めて原子爆弾を投下した。広島は一瞬にしてヒロシマとその名を変えた瞬間である。核兵器「リトルボーイ」は確実にその使命を終えた。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃であった。この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 – 16万6千人が被爆から2 – 4か月以内に死亡したとされる。

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Opinion《渡来人と呼ばれた人々》:片山通夫

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鬼室神社

 過日、鬼室神社(写真)というところへ行った。変わった名前の神社なので、何の予備知識もないままその名前に惹かれてのことだ。 

情報を滋賀県日野町の観光協会からいただいた。鬼室神社の項には以下のように紹介されていた。

近江朝廷が大津に都を定めた頃、現在の韓国、往時の百済(くだら)国から我国へ渡来をした多数の渡来人の中の優れた文化人であった鬼室集斯(きしつしゅうし)という高官の墓が、この神社の本殿裏の石祠に祀られているところからこの社名がつけられました。古くは不動堂と言い小野村の西の宮として江戸期まで崇拝された社であり、小野の宮座である室徒株(むろとかぶ)によって護持されてきました。また今日では鬼室集斯の父、福信(ふくしん)将軍が大韓民国忠清南道扶餘郡恩山面(ちゅうせいなんどうぷよぐんうんざんめん)の恩山別神堂にお祀りされているところから、姉妹都市としての交流が盛んに行われています。

鬼室集斯は百済の人のようだ。いわゆる渡来人である。この墓の真贋はともかく、近江の国に大津京があった。 ただ大津京は5年余りで壬申の乱の影響などもあり、廃都された。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都し、天皇はこの宮で正式に即位したようだ。この時代、朝鮮半島では百済が新羅と唐に攻められて亡んだ(660年)頃である。我が国にとっては白村江(はくすきのえ)まで兵を出して百済を助けようとしたが、惨敗したこともあってか、百済からの亡命者たちが大挙して我が国を頼ってきた。
 そんな事件を背景に、ちょうどまだまだ発展途上国(?)然としていた我が国は、法令などの整備や、様々な技術を百済などから来た人々の力を借りて国造りに励んだようである。鬼室集斯を例にとってみると、渡来人の倭国(日本)での活躍が理解できよう。鬼室集斯は百済の貴族・達率だったが、663年の白村江の戦いで敗れたの後に一族とともに日本へ亡命を余儀なくされた。『日本書紀』によれば、鬼室集斯は天智天皇4年(665年)2月に小錦下(しょうきんげ)の位に叙せられた。小錦下は、664年から685年まで日本で用いられた冠位である。26階中12位。

また天智天皇のときにわが国で初めて大学寮が設けられ、鬼室集斯が「学識頭」になった。今でいう文科省の大臣である。このころの日本は前述したようにまだまだ発展途上にあったため、滅びたとは言え百済の貴族である鬼室集斯を頼った。
 まだ十分統一された国家ではなく、律令を基本とする文治主義へ移行するための官僚養成が急がれていた時期であったので、学校制度創設などで百済からの亡命知識人は重用された。

 余談だが1910年、我が国はさきの戦争が敗戦に終わるまでの35年間、朝鮮半島全域を植民地にした。一部と思いたいが、日本人は朝鮮を植民地にしたことで、《学校や鉄道などインフラの整備という「良いこと」も朝鮮にしてやった》という説がまかり通っている。トランプがアメリカの大統領になった時だったか、「移民は自国へ帰れ」といったことがある。それを聞いたネイティブのアメリカ人は「へえ、トランプはせっかく大統領になったのに出身国へ帰るんだ」といったとか言わなかったとか…。

 わが国も飛鳥時代にまでさかのぼったら、渡来人にどういわれるのかしらん。

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スサノオ追跡《 新羅の国・曾尸茂梨から出雲へ》片山通夫

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素戔烏尊率其子 五十猛神 降到於新羅曾尸茂梨之處矣 曾尸茂梨之處 纂疏新羅之地名也 按倭名鈔高麗樂曲有蘇志摩利 疑其地風俗之歌曲乎 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作船 乘之東渡 到于出雲國簸之河上與安藝國可愛之河上所在鳥上峰矣

 スサノオは子のイソタケルを率い新羅の曾尸茂梨(ソシモリ)に降りた(曾尸茂梨は新羅の地名である。倭名鈔(和名類聚抄)の高麗樂曲にある蘇志摩利(ソシマリ)はその地の風俗を歌う曲である。)スサノオが言うにはこの地に私は居たくない。埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸之河上と安芸国可愛之河上にある鳥上峰に至った。

註:『和名類聚抄』二十巻本第10卷にある蘇志摩利の記述を引用した『先代旧事本紀』

 当時、朝鮮半島・新羅の国に曾尸茂梨(ソシモリ)というところがあり、スサノオはいつの間にかできた息子イソタケルを伴って高天原から降り立ったが「ここは自分のいるべき場所ではない」と土船を作って出雲に漕ぎ出したというのである。ただ現在のところ、ソシモリの正確な場所は確定できていない。ただ不思議なのはせっかく降り立ったソシモリが自分のいるべきところではないと結論付けたことだ。無論日本書紀という倭の国の書物なのだから、早々に出雲に来てもらわなければならないのだが。

 筆者の推測だが、この頃の新羅=朝鮮半島では鉄器が使われていたはずである。青銅器に勝る鉄器を作る技術を輸入したい倭の国はスサノオをして出雲に移動させたと思うわけである。

 今一つ面白いのは「埴土で船を作り」の部分である。埴土とは粘土質が50%以上含む土であり、排水や通気性が悪いという。つまり水を通さないから船には適しているというわけだろう。もしかして砂鉄も含有していいたのかもしれない。

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スサノオ追跡《スサノオは渡来神?》片山通夫

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白村江の戦い

 スサノオが、高天原を追放されて、一旦朝鮮半島に降り立ったという説があるということは前に書いた。その根拠になるのが日本書紀の記述である。
 ここでまず古事記と日本書紀の編纂時期を探ってみたい。
 と言ってもすでに知られているように、古事記は日本最古の歴史書である。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。 次に日本書紀は日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。
 こうしてみるとほとんど同時期の編纂だと言える。ではその違いと言えば、古事記は天皇家の存在の正当性を説いた部分が多く、日本書紀は日本の正当な、つまり公式の歴史書と言える。

 その日本書紀にはスサノオに関しては次のように説明されている。

 書紀には全部で六つの高天原追放神話がある。たとえば第二の「一書」ではスサノオは、安芸国の可愛(え)の川上に天降った。しかし、本文をはじめ、第一の「一書」、第三の「一書」、第四の「一書」と、多くの解釈ではやはり出雲の斐伊川上流に天降ったとしている。とくに第四の「一書」には新羅(しらぎ)を経て出雲国にある鳥上の峰に天降ったとあり、高天原から朝鮮半島を経由して出雲国へ至ったと記載されている。 この朝鮮半島を経由するルートについては第五の「一書」にも韓郷(からくに)から紀伊国を経て熊成峯(くまなりのたけ)に降りたとしるされている。第四と第五の「一書」によると、スサノオは朝鮮半島を経由しているということは、おそらくスサノオが渡来神であると考えられるんではないだろうか。

 話を戻す。古事記や日本書紀が編纂された時代と言えば、大陸や朝鮮半島はどんな時代だったのか調べてみた。
まず編纂されたのは700年代前半だと言える。この時代は当然と言えば当たり前のことだが、統一新羅の時代である。
武烈王の即位した654年から、その直系の王統が途絶える780年までの時代を中代と呼び、新羅の国力が最も充実していた時代であった。新羅は金?信が援軍を率いて、唐軍に付き随い百済へ進軍。660年に百済を滅ぼし、663年に唐軍が白村江にて倭国の水軍を破ると(白村江の戦い)、668年に唐軍が高句麗を滅亡させた戦いにも従軍した。ウイキペディア

 ここに出てくる白村江の戦いだが、663年とある。日本はこの時朝鮮半島に出兵し百済を助けたが、唐・新羅連合軍に敗れた。書紀には次の通り記載されている。

戊戌、賊將至於州柔、繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘、陣烈於白村江。戊申、日本船師初至者與大唐船師合戰、日本不利而退、大唐堅陣而守。己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得

唐の水軍に悩まされた完璧な負け戦だった。

 白村江の戦いはスサノオとは直接関係はない。しかしスサノオが新羅に降り立ったという日本書紀の記述に着目したい。日本書紀は663年の白村江の戦いのおよそ半世紀あとに完成している。その頃、朝鮮半島は統一新羅が治めていたことは前に述べた。
 スサノオはその統一新羅に降り立ったことになる。弥生時代にはすでに青銅や鉄器のが存在していた。それを手に入れる為に、弥生人はかの国を訪れた。『魏志』弁辰伝には弁韓の鉄を求める倭からの来訪者が書かれており、『漢書』の地理志には「楽浪海中倭人あり」とある。銅鏡、鉄製品、ガラス玉など大陸の品を入手するために、日本側では海岸で生産した塩、そして稲や生口(奴隷)を送った。伽耶には、鉄を得るために倭人が訪れていたという記述が『魏志』にある。

 これらの史実(朝鮮半島と倭との交流)から想像すると、スサノオは弥生時代の渡来人だったと思うしかないのではないか。

 しかしこれでは神話のありがた味も面白味も全くない。やはりスサノオは新羅から鉄を携えて出雲に来たと信じよう。そうでないと…。                                     

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スサノオ追跡《青銅器から鉄器の時代へ》片山通夫

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弥生時代の青銅器や古墳時代の豪族を飾った金銀の大刀(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)

先に述べたように鉄器はヒッタイトが独占していたようだ。しかしヒッタイトが滅亡の危機に陥ると、製鉄と鉄器を作る技術は世界へ流出してゆく。ちょうど鉄のカーテンの向こう側にあった旧ソ連邦の核技術が研究者とともに他国へ移っていったように。

 さて本題。一般論として、鉄の方が、硬度も強度も高い。焼入れも鉄の方が優れているから、刃物を作る適性は鉄のほうが圧倒的に簡単。無論青銅でも剣は造れるが刃こぼれなどを起こしやすい。
 また青銅の原材料となる銅鉱石や錫鉱石は鉄に比べて少なくかつ高価だと言える。そこで丈夫でどこででも手に入りやすい鉄が有用だと人々は気が付いた。
 およそ武器は丈夫でなければならない。その点でも、鉄の剣は青銅の剣に比べて優れていた。 島根県立古代出雲博物館が出雲大社近くにある。写真の剣は島根県出雲市斐川町神庭の荒神谷遺跡から出土した。358本の銅剣は、全て全て中細形C類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。弥生時代中期後半に製作されたとみられている。この形式の銅剣の分布状況から出雲で製作された可能性が高いと思われている。

 当たり前のことだが、この大量の青銅器が出雲で造られていたということは、それなりの技術集団が存在したということになる。彼らがのちの鉄の生産に携わったのかもしれない。

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