LAPIZ ONLINEからのお知らせ

百鬼夜行絵巻

コロナ禍の中で十分な取材も出来ないまま、LAPIZ ONLINE 夏・秋合併号はようやく終わりました。皆様に感謝いたします。
次号は現在の予定では12月1日に冬号を出す予定でおります。

それまでの間、筆者の妄想《百鬼夜行夜話》を随時掲載いたします。
秋の夜長にぜひお読みください。

《渡来人たちの宴・終章》片山通夫

高麗寺跡

渡来人たちの宴
 7世紀の前半、つまり推古朝の飛鳥・斑鳩あたりを中心として栄えた王族や豪族がかかわった渡来人たちが我が国にもたらした仏教という新しい宗教・文化が594年に「仏教興隆の詔」が出され、仏教が政治の基本に捉えられた。百済・高句麗・中国南北朝文化の影響を受けた “《渡来人たちの宴・終章》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝24》片山通夫

入鹿の首塚

 

蘇我 入鹿 飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。大臣として大和朝廷の有力者であったが、乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなる。
なんとも血なまぐさい話だ。嘘だと思うが、入鹿が撃たれた現場からその首が飛鳥寺あたりまで飛んだという話が伝わっている。 “《渡来人たちの宴・外伝24》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝22》片山通夫

馬子外伝
 大邸宅を建て池をしつらえ、その池に島を造ったといわれている馬子。この飛鳥時代の馬子に関した記述は古事記や日本書紀などから得られる。しかし注意しなければならないのは、これらの歴史書が編纂されたのは後年、藤原氏が権力を握ってから編纂されたことである。つまり乙巳の変で曽我氏を滅ぼしたあと、自らの正当性を担保するために編纂され、曽我氏を悪として扱われたという説もあるが、定かではない。さもありなんとも思える。 “《渡来人たちの宴・外伝22》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝21》片山通夫

仏教伝来

聖徳太子像

 

 

昨日に引き続いて蘇我馬子時代の話。538年に百済から仏教が我が国に伝わった。蘇我馬子が仏教を受け入れるか受け入れないかで物部守屋(もののべのもりや)と対立する。これにも諸説があり、継体天皇時代(在位:507~531)の522年という説がある。 “《渡来人たちの宴・外伝21》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝19》片山通夫

蘇我馬子(そがの うまこ)

曽我馬子

稲目の子。敏達天皇即位の年(572)、大臣となる。以後、用明・崇峻・推古の四代にわたり大臣職にあり、蘇我氏全盛時代を築いた。
仏教の信仰に篤く、敏達天皇代、富浦に日本最初の仏塔を造営した。仏教は次第に支配層に浸透し、用明天皇は三宝帰依を表明するに至るが、仏教反対派の物部守屋達は用明二年(587)馬子に対して軍を興し、馬子は泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)・厩戸皇子(聖徳太子)達と共に物部氏を討った。 “《渡来人たちの宴・外伝19》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝18》片山通夫

蘇我 稲目(そがの いなめ)

蘇我 稲目

 

実際に曽我氏が台頭してきたのは稲目の時代だった。武烈8(506)に生まれ、欽明31(570)に没した。高麗 (こま) の子という。馬子の父。娘の堅塩媛 (きたしひめ) ,小姉君を欽明天皇の后妃として,用明,崇峻,推古の3天皇の外祖父となる。宣化天皇のとき,大臣 (おおおみ) となり,没するまでこの地位にあった。 “《渡来人たちの宴・外伝18》片山通夫” の続きを読む