連載コラム・日本の島できごと事典 その27《家人(やんちゅ)制度》渡辺幸重

『大奄美史』(曙夢著、1949年)

1609(慶長14)年、薩摩藩は徳川家康の許しを得て琉球に侵攻し、沖縄全域を半植民地として支配しましたが、琉球国に属していた奄美群島は分割して直接支配しました。財政が厳しかった薩摩藩は奄美にサトウキビの単作を強制し、年貢として黒糖を取り立て、搾取を強めていきました。1830年からは黒糖を藩が買い入れる制度を作り、島民同士の売買を禁止、売買する者は死罪となったそうです。奄美で島民の唯一の食料であったサツマイモの畑もほとんどサトウキビ畑に転換され、人々は過酷な労働のもとで日常の食料にも事欠くようになり、奄美大島・徳之島・喜界島での困窮状況は「黒糖地獄」と呼ばれました。そのなかで豪農のユカリッチュ(由緒人)・一般農民のジブンチュ(自分人)・農奴身分のヤンチュ(家人)という三階層の身分分解が進みました。ユカリッチュは数人から数百人のヤンチュを抱え、自己の私有財産として売買もしました。『大奄美史』(曙夢著、1949年)は「これが即ち謂ふところの『家人』制度で、ロシヤの農奴制にも劣らない一種の奴隷制度であった」としています。明治政府は、1873(明治4)年に膝素立解放令(家人解放令)、翌年に人身売買禁止令を出しますが、解放されたのは当時1万人以上とみられる家人のなかの千人足らずだったと『大奄美史』は指摘しており、明治末年までこの制度が続いたようです。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その27《家人(やんちゅ)制度》渡辺幸重” の続きを読む