22年夏号Vol.42 連載コラム・日本の島できごと事典 その64《豊田音頭》渡辺幸重

豊田音頭を踊る人(「地域文化遺産ポータル」動画より)

120kgもの重い石地蔵を背負って盆踊りをやるなんて、誰が考えつくでしょうか。それが佐渡島の真野(まの)地区豊田では古民謡「豊田音頭(真野音頭)」として伝わっているのです。

かつて佐渡のホテルで豊田音頭を見た「東京やなぎ句会」のメンバーはその姿に感動し、絶賛しました。小沢昭一は柳家小三治との対談で「僕の心の中の、あれを見たときのざわめき、嬉しさ、……あのナンセンス……(笑)何の意味もない中に、思えばどれだけの深い哲学を、その人その人なりに、あそこから汲み取ることができるかっていう、これぞ、深い芸術、芸能っていうものの極致です」と語り、小三治に対して「あん時にあなたが喜んでる姿を右の目で見ながら、僕もおんなしに喜んで感動していたんです」と言っています(東京やなぎ句会編著『佐渡新発見』1993年5月三一書房)。このときは踊りの輪の中を60kgの石地蔵を背負った男が右から左へただ一回だけ通り過ぎたと説明されています。

豊田音頭は、佐渡金山が隆盛を極めていた頃、その道中音頭が元となってできた盆踊り唄で、昔、若くして妻子を亡くした男が、お盆に戻ってくる妻子の身代りに大光寺境内の地蔵を背負って踊ったのが地蔵を背負う始まりと伝えられ、その後若い衆が力自慢に背負うようになったようです。石地蔵の重さは60~100kgで、なかには120kgを超えるものもあるそうです。私が見た「地域文化遺産ポータル」の動画では、音頭を踊る女性たちの輪に交じって大きな石地蔵を背負った2人の男性が同じ盆踊りを踊っていました。また、豊田音頭を継承しようと活動をしている「小波会(さざなみかい)」の動画では踊り手全員が小さな石地蔵を背中に結んでいました。豊田音頭は一時途絶えたものの1978年(昭和53年)に復活し、真野小学校の子供たちも背の2倍にもなろうという大きなハリボテ地蔵を背負って踊ります。

柳家小三治は「まいんち担いでるやつは、普通の顔になっちゃうわけ。だからあれは悲しかった。すばらしかった。で、しかも、もう担いでる自分の姿を想像して、滑稽にすら思ってる、っていう、そういう、辛い悲しい、そういうものを通り過ぎてしまった人の、……態度だね。だから、すばらしい」と言っています。小沢昭一も小三治も妻子を亡くした男の話は聞いていなかったようです。しかし、それを知っても豊田音頭に対する「あの無意味、不条理、不毛、あれは人生だなァ」(小沢昭一)という評価は変わらなかったでしょう。