編集長が行く《北海道・礼文島 01》Lapiz編集長井上脩身(文・写真共)

文島で観測された金環日食(ウィキペディアより)

取り残されたメルヘンの島
 9月末、北海道北端の礼文島を訪ねた。私が小学校4年生の教科書に、礼文島で撮影された金環日食の写真が掲載され、子ども心ながら礼文島に夢世界を思い浮べたのだ。大人になって、そのことはすっかり忘れていたが、2012年7月21日、近畿で282年ぶりという金環日食を観察したことから、礼文島への憧憬が心の中で再びわきあがり、今年、ようやく実現したしだいだ。そう大きくはないこの島の景観は変化に富んでいて、四季折々、場所によってさまざまな顔をみせる。厳冬期には流氷で閉ざされることもあり、生活をするうえでは不便このうえない島ではあるが、それが結果としてメルヘン世界が今も広がっているように思えた。経済性というモノサシでは評価は低いであろうが、メルヘン度という尺度があるならば、極めて高い評価を得るのではないか。金環日食の観測成功

金環日食を観測する礼文島の人たち(ウィキペディアより)

 礼文島は稚内の西約55キロのところに浮かぶ、南北22キロ、東西の最大8キロの細長い島だ。その北端は両側から腕がぬっと突き出たクワガタムシのような形だ。
金環日食が観測されたのは1948年5月9日。それがどのように行われたかを調べていて、2020年11月の「天文月報」に「礼文島金環日食――実現に向けての日食委員会記録と礼文島日食再検討」という論文が掲載されたことを知った。筆者は日江井榮二郎・国立天文台名誉教授と相馬充・同特別客員研究員。当時の状況を記録した資料が日本学術会議庁舎の地下から見つかったことから、眠っていたデータを掘り起こし、レポートした。

「はじめに」のなかで「敗戦という虚脱感を味わった日本の科学者が、この観測をきっかけに、乏しい資材・観測装置を活用して立派な成果を上げ、日本の科学者の実力を知ってほしいという熱意をもったようだ」と、当時の科学者の熱い心に思いをいたし、次のようにつづる。「当時、日本はGHQの支配下にあり、人の移動、機材の運搬が自由に行えず、食事も食券なしではできなかった困難な時代にもかかわらず、天文学、地球物理学、気象学、電波通信工学などの多方面にわたる研究者がこの観測に参加し、戦時中には自由な研究の叶わなかった研究者にとって心中に鬱積した気持ちを奮い立たせた」

 1947年8月、日食観測に向けて学術会議の下に日食委員会が設置され、萩原雄祐・東大教授が委員長に就任した。

金環日食観測記念碑

 観測地点は島の東岸のほぼ真ん中に位置する起登臼地区。金環日食を観測できるのは幅1200メートルの内側に限られ、日本では礼文島だけがその範囲内にあった。最もよい観測データが得られるその中心線について、さまざまな計算の結果、起登臼地区と割り出した。起登臼での観測に参加したのは東京天文台のほか水沢緯度観測所、海上保安庁、国際報時所、京大宇宙物理学教室、東北大天文学教室、中央気象台など。アメリカからも研究者が加わった。

 観測機材を運ぶため、GHQがLST(戦車揚陸艦)を手配、神戸、芝浦、塩釜の各港から礼文島まで運搬した。

 こうし記録のなかで注目されるのは食料についての配給依頼書。米、野菜、漬物、バレイショ、味噌、醤油、塩、薪、木炭、石炭についての1人当たりの配給量や単価が記載されている。米については1人1日あたり432グラムで、1キロあたり11円とある。副食その他については、野菜1272貫(4770キロ)、味噌84貫(315キロ)、食塩8貫(30キロ)、バレイショ1272貫(4770キロ)、木炭179俵、薪2953束、石炭52トンなどと記録されている。

 食料確保にも苦労をせざるを得ない貧困状態の中、観測は成功。当時、島の人たちが日食を眺めている写真が残っているが、どの顔にも喜びがあふれている。私の教科書にも載ったほどだから、日本中がこの観測成功に歓喜したようだ。

 若い頃、歌人の折口信夫の薫陶をうけたことがある萩原委員長は一首詠んだ。

  天かけてむら雲はれてすがすがし

     天津日が見ゆわが胸おどる

ニシンの島から出稼ぎの島に

 金環日食の頃、礼文島はニシン漁でわいていた。

 島北部の船泊に縄文時代の遺跡があり、1998年、礼文町が発掘調査を行った。その結果、縄文時代中期から後期の人骨や貝殻装飾品などが出土。人骨にはビノスガイの貝殻で作られた目玉が数多くつけらており、他の遺跡にはない特徴が見られた。胸元には長さ7・8センチ、幅3・2センチの大型ヒスイ玉があり、このヒスイの原産地が新潟県糸魚川地方と思われることから、1000キロも離れた本州の日本海側と、早くから交易があったことがうかがえた。

 北海道でのニシン漁は弘化元(1844)年、佐賀家が留萌で漁場を開いたのが始まりとされ、明治時代に大規模化し、大正に入ると青森、秋田、山形方面から出稼ぎ人(やん衆)がやってくるようになった。礼文島には秋田のほか能登半島からの出稼ぎ人がすくなくなかった。古代からの交易ルートが大いに関係していると思われた。

 朝日新聞記者(当時)の木内宏氏の著書『礼文島、北深く』(新潮社、1985年刊)によると、1956年、人口1万99人と1万人の大台を超えた。このうち60%は漁民である。金環日食で島がわきにわいたころ、ニシン漁で永遠に島が栄えるとだれしもが思っていた。ところが1954年を最後にニシンの群来がピタッと止まる。人口は急減し、1984年には5700人と半減。現在は約2300人。ピーク時の5分の1だ。

礼文島から見た利尻山

 ニシン漁が成り立たなくなると同時に、経済成長時代に入り、テレビに電気洗濯機に電気冷蔵庫にと、何かと物入りになった。漁民の多くは逆に本州の大都市に出稼ぎするようになり、都会生活を知って島を出る者が増えた。『礼文島、北深く』は、高度経済成長から取り残された島の悲哀をえがいた名著だが、刊行後すでに37年もたっている。駆け足ながらもその後の島を見たいと私は思ったのである。

 稚内からフェリーで約2時間。礼文島東岸の香深港に着いた。ここから5キロ北に日食観測モニュメントが建っている。台座に「金環日食観測記念碑」と彫りこまれ、金環の太陽をあしらった高さ2メートルの碑だ。1953年に建立され、その後、海沿いの現在の場所に移設された。訪れる観光客はほとんどない。礼文島は変化に富んでいると書いたが、東岸はほとんど浜辺もない平凡な海岸線が延びており、見どころが乏しいために観光客は素通りするのだ。

 だが、子どものころ天文観測に人生の夢をみて育った当時の科学者の少年のような情熱を思うと、私は、この島にあこがれを覚えた少年時代がよみがえるのだ。メルヘン世界を見いだしたい。そんな思いがふつふつとわくのである。

固有種多い花の島

礼文島に咲く色とりどりの花(杣田美野里著『花の島に暮らす———北海道礼文島12カ月』より)

西岸北部の澄海(すかい)岬に向かった。小さな漁港があった。ニシン漁が盛んだったころ、この港も船の出入りは大いにあったのかもしれないが、今は船が見当たらない。港のわきから高台にあがる。景観は一変した。眼下の入り江は深く陸地に入りこんでいて、池のように見える。その水の青さはどうだろう。群青色と濃紺、それに藍色が自分の占有部分を得て、互いに張り合っているようだ。この入り江に張り出した陸地は幾重もの岩稜を形成していて、西穂高岳の頂上付近を目の前にしているような錯覚に陥った。その岩稜のなかには玄武岩の層でできているものもある。自然の力が複雑に織り成して形づくられたのであろう。

 目を西の日本海側に向けると荒波が岩礁に当たって波頭を白色に砕いている。そこに日が当たり、逆光となってまるで影絵を見ているような幻想的な世界をかもしだしている。

 もう一度岩稜に目を戻すと、ただ一つおだやかなカーブを持つ小さな山が正面にあり、その頂上に小さな祠があるのに気づいた。船で海に出る猟師たちは神様に安全を祈願するという。この祠はニシン漁の安全を祈るために建てられたのではないだろうか。

 澄海岬から北に向かって歩いた。花の季節なら、とりどりの花が咲き乱れるところだ。

 島の東海岸は変化が乏しいと述べたが、海岸から一歩内側に入ると、礼文岳(490メートル)に向かってなだらかな丘陵が続き、あちこちで花々が群落をつくる。

 礼文島の花の季節は4月下旬から8月下旬である。4月下旬に咲き出すのはザゼンソウ、ミズバショウ。5月にはハクサンチドリ、エゾノハクサンイチゲなど。6月になるといよいよ本格的な花の季節。レブンアツモリソウ、レブンキンバイソウ、レブンウスユキソウ、レブンソウなど、その名が示す通り、礼文島の固有種が黄色、白、紫の花弁をいっぱいに開く。7月はボタンキンバイソウ、8月にはリシリリンドウ、リシリアザミが青や赤紫の顔を出す。

 離島であるがゆえであろう。固有種が多いのが特徴だ。そうでない花もふくめて言えるのは、いずれも高山植物であることだ。この島では海抜ゼロメートルで高山植物が見られるのだ。不思議なことに隣の利尻島には余り花はない。こちらには「利尻富士」で知られる利尻山(標高1721メートル)があり、この山一つで登山者だけでなく多くの観光客をひきつけている。花の礼文、山の利尻と言えるだろう。

 残念ながら花の季節が過ぎているので、出会えたのはナデシコに似た薄紫の花などごくわずか。この花はタカネナデシコかとも思うが、観光チラシに載っているタカネナデシコは紅色だ。私の目の前の花はなんであろうか。周りには仲間がいず、ぽつねんと健気に咲いている。というしだいで、礼文島を代表する花には会えずじまい。私は花を愛でる趣味がなく、北アルプスでお花畑に差し掛かってもさーと通り過ぎていく無粋な人間だ。しかし「花の礼文」で花に会えないとは何とも悔しい。花のシーズンに再訪しようと心に誓った。

 島北端のスコトン岬に着いた。漢字で書けば「須古頓」。地名では漢字が使われ、かつてこの地域にあった学校は須古頓小学校だった。なぜか岬だけはカタカナで表記される。

 余り大きくない岩でつくられた岬は、か細い腕がむりしてのばしているような感じで、頼りなく海に伸びている。その向こうにトド島。平らな島だ。トドが押し寄せるのでその名がつけられた。西に傾きかけた太陽が長い光線を放ちながら日本海を照らし出している。その下の岩礁がシルエットをつくり、澄海岬とは異なる、どこか優艶な光景を映し出している。

 岬の手前、東岸に面した斜面の狭い一角に一軒の民宿が建っている。看板に「島の人 民宿」と書かれている。前掲の木内さんの著書には、スコトン岬のそばの不便な海際で、西風を避けるように建てた家を離れない頑固な老漁師が登場する。ここでは厳冬期、流氷と深い雪で海も陸地もすっかり閉ざされるため、漁民たちは冬の間、船泊の家に移る。しかし彼だけはスコトン岬の家から離れないというのだ。その家が今、民宿になっているのだろうか。

「島の人 民宿」。何とも島民の意地、気概を感じさせるネーミングではないか。かつての5分の1まで人口は減った。でもこの地を離れないと決めている人もいるはずだ。むしろ、この島の魅力に引かれて移り住んできた人もいるにちがいない。そんなふうに私の想像が膨らんだ。(明日に続く)