宿場町シリーズ《西国街道・昆陽(こや)宿》文・写真 井上脩身

歴史家・頼山陽が好んだ伊丹酒
――漢詩に酔い心地をうたう――

頼山陽像(ウィキベテアより)

 西国街道・昆陽宿は伊丹の酒蔵の街の西約2キロのところに位置し、酒好きたちの宿泊地や休憩所として利用された。『日本外史』を書いて尊王攘夷派の志士たちに強く思想的影響を及ぼした頼山陽(1780~1832)もその一人だ。故郷の広島から京都に戻る途中、昆陽宿に立ち寄り、六甲の山並みがかもすおだやかな風景を詩によみ、伊丹で心地よく酒をたのしんだという。なかでも「剣菱」が山陽好みの銘柄だった。剣菱は私も大好きだ。燗酒が飲みたくなる晩秋のある昼さがり、わたしは山陽の足跡をたどろうと、昆陽宿から伊丹の酒蔵街へと歩いた。

『日本外史』執筆の合間に

 頼山陽は江戸後期の歴史家でかつ漢詩人。生まれは大坂だが、父が広島藩学問所の儒学者に登用されたため、広島で育った。江戸に出て遊学した後脱藩。文化年間の1811年、京に居を構えて著述に没頭し、1826年、『日本外史』を完成させた。『日本外史』は「本来は天皇が主君で、武家はその臣下」との観点から書かれたもので、「源氏前記」から「徳川氏」まで全22巻から成る武家史。将軍家にかかわる記述は、行を改めて1文字上げて書きだしているのに対し、天皇や朝廷に関する文章は2文字上げて書き始めるなど、形のうえでも天皇が将軍の上位であることを示した。

日本外史

 来航したペリー艦隊に乗船しようとして入牢された吉田松陰は、長州の野山獄から兄梅太郎に宛てた年賀状のなかで、「頼山陽の『日本外史』を読まねばならない」としたためた。松陰が山陽から思想的な影響を受けたことはまぎれもない。松下村塾で学んだ志士たちを血気にはやらせた一因が『日本外史』にあるといっても過言ではないだろう。

 山陽は『日本外史』執筆中の1818年、2年前に亡くなった父の法要のために広島に帰省し、そのまま九州をめぐる旅に出た。長崎で伊丹の酒「男山」に接し、以後、伊丹の酒を好むようになり、坂上(さかのうえ)桐蔭ら伊丹の酒造家とも交友関係をきずいた。おそらく山陽は伊丹の酒を傍らにおき、疲れたときに酒で頭を癒しながら筆を進めたのであろう。

1824年10月、帰省した広島から京都に戻る際、伊丹に立ち寄り、坂上桐蔭と会った。桐蔭は「剣菱」の醸造元、津国(つのくに)屋の当主。水にこだわる心意気を剣菱の商標に、と「滝水」をあしらった前衛的なロゴマークを作成。上部が男性、下部が女性を表している、と世間ではみられた。さらに仕込み用の井戸の底から不動明王像が現れたことから、このロゴの由来に「不動明王の剣と鍔を模した」と新たな説明を加えた。

桐蔭はこうした話を山陽に語り明かしたであろう。山陽は剣菱を味わいながら、一編の漢詩をつくった。「兵可用酒可飲」(兵は用いるべし、酒は飲むべし)に始まり、「伊丹剣菱美如何」と、剣菱をたたえる文言を入れ、題を「攝州歌」とした。山陽の飲酒詩の代表作といわれている。剣菱は後、灘に移り、本社は現在、神戸市東灘区にあるが、酒瓶を入れる紙袋にはこの詩が印刷されている。

宿場付近で甲山を詠む

昆陽寺

山陽と剣菱のかかわりを頭の片隅において、私は昆陽宿跡に向かった。JR伊丹駅から歩いて約45分。伊丹市のほぼ西端に古刹がある。昆陽寺だ。山門は朱色の豪壮な二層構造。説明板には「寺は天平時代に行基が開創したと伝えられ、信長の兵火で焼失後再建された。山門は上層部に縁がつけられた江戸中期のもの」とあり、「門前は旧西国街道」と補足されている。その門前は現在片側2車線の国道171号が通っていて、江戸時代の名残は県指定文化財であるこの山門だけだ。

1829年、頼山陽は亡父の13回忌法要のために3月、広島まで母を送った。10月にも母を故郷に送り、12月京都への帰途に。播州路から西宮宿を経て武庫川岸へ。ここで「髭の渡し」と呼ばれる舟で川を横断し、西国八十八カ所霊場のひとつである昆陽寺までやってきた。現在、周囲はマンションをはじめ住宅が密集しているが、当時は田畑が延々と広がっていて、六甲山の山並みがくっきりとつづく。六甲山の東すそにぽつんと孤立している甲山(309メートル)が冬日をあびて、目にも鮮やかであったのだろう。山陽は甲山を見つめているうち、しみじみとした気分になり、詩によんだ。「冑山歌」である。

冑山昨送我
冑山今迎吾
黙数山陽十往返
山翠依然我白鬚
故郷有親更衰老
(冑山昨我を送り 冑山今吾を迎う 黙して数うれば山陽十たび往返 山翠は依然たり我は白鬚 故郷に親有り更に衰老)

山陽路を十回も往復してきた私に、甲山は昔と変わらず送り迎えしてくれる。だが、私のひげは白くなり、母も老いて衰えてきた、というのだ。昆陽宿にたどり着き、ほっとして年老いた親を思う一方で、自らの老いを感じた山陽である。

昆陽寺から国道沿いに東にすすむと、国道の北側に西天神社。緑の屋根の小さな神社だ。さらに5分ほど東に歩くと東天神社。714年に行基がここから熊野にもうでたというから、東西に社殿を構える天神社は古くからの由緒ある神社なのだ。

西天神社から国道を南に横断すると「西国街道」の標識があった。幅約3・5メートルの西国街道がうねうねと曲がりくねりながら住宅街を貫く。しばらく歩くと道ばたの小さな公園に「歴史街道」の案内板がたっている。東西の天神社を底辺とする正三角形の頂点に位置するここが昆陽宿の本陣跡である。案内板によると、昆陽宿は東町、中町、大工町、市場町、辻町など7町から成り、天保14(1843)年の史料に、家171軒、人口913人、本陣1カ所、旅籠7軒と記録されている。その史料では、人馬問屋が1カ所あり、人足25人が常駐。25頭の馬を使って、隣の宿場(西は西宮宿、東は瀬川宿=箕面市)まで、御用役人や旅人の荷物の継ぎ立てを行っていたという。

天保14年は山陽が母とともに旅をした14年後だからほぼ同時代だ。母親の送り迎えの際は、荷物の継ぎ立てを昆陽宿の問屋に頼んだと思われる。

西天神社近くの西国街道の碑

西国街道の細い道をさらに進むと市立稲野小学校の正門前に出た。正門のわきに「西国街道」の説明板が立っていて、京――西宮間の宿場名を添えて、「大名行列などが行き交った」などとこの街道がわかりやすく紹介されている。子どもたちは否応なく毎日、この説明板を目にするのだ。生きた郷土史の教材と言えるだろう。

街道には全くと言っていいほど昆陽宿の面影はない。しかし同校の数十メートル先で、板壁の蔵が建っていた。江戸時代のものではないだろうが、それでも昔を偲ぶよすがのような気がして、心がほっこり和らいだ。

飲むほどに母を想う

昆陽宿跡を訪ねたあと、もと来た道を戻り、伊丹の中心街に向かった。格子窓のある2棟の古い家が通りに面している。「旧岡田家住宅」と「旧石橋家住宅」だ。

旧岡田家住宅は1674年に建てられた木造瓦葺、切妻造りの白壁町家。1715年に酒蔵が増設された。築年代が確実な現存する酒蔵としては最古のものといわれ、1992年、国の重用文化財に指定された。旧石橋家住宅は江戸後期の町家。別の場所に建っていたが、阪神大震災後、旧岡田家住宅の隣に移築された。この2軒を中心に「みやのまえ文化の郷」と名づけられ、伊丹の歴史をまなぶ場として、清酒ファンの人気を集めている。

「冑山歌」をよんだ山陽は、昆陽宿の街道から伊丹の酒蔵街におもむいた。山陽を待ちかまえていた坂上桐蔭が催した宴席に岡田家十九代当主、岡田利兵衛が顔を見せた。俳人でもあり柿園(しえん)を号していた。利兵衛はその号の通り、岡田家でできた柿を山陽に振る舞い、その味を山陽が絶賛したという。酒は当然、「剣菱」だ。山陽は心地よく飲んだであろう。そして飲むほどに母に思いをはせたにちがいない。山陽に「送母路上短歌」という詩がある。そのなかで「獻母一杯児亦飲」(母に一杯獻じて児も亦飲む)という一節を挿入した。この詩が宴席のときのものかどうか定かでないが、あるいは母を思うために伊丹に足を運んだのかもしれない。

話を少し戻したい。実は山陽が母を広島に送った際、坂上桐蔭に導かれて箕面の滝を見物していた。滝の周りの紅葉の素晴らしさに目を見張ったのであろう。山陽は詩をつくった。

紅楓相映酔慈顔
待得帰輿未直帰
今歳此遊堪圧尾
携来佳酒看佳山
(紅楓相映じて慈顔を酔わしむ 帰輿に待し得て未だ直ぐに帰らず 今歳此の遊尾の圧するに堪えたり 佳酒を携え来たりて佳山に看る)

JR伊丹駅近くの「紅楓――」詩碑

紅葉を目の前に、帰りのコシを待たせて気持ちよく酒を飲んだというである。佳酒はいうまでもなく「剣菱」である。おそらく、山陽の母親も酒をたしなんでいたのであろう。この詩碑がJR伊丹駅近くの道路脇にあると聞いた。探して見ると、郵便局のそばに建っていた。高さ約1・5メートル、脇に読み下し文が刻まれた小さな碑がたっている。

石碑を前にして、山陽の詩を暗唱すると、酒を通して心を通わせる親子の情を感じた。吉田松陰が山陽に傾倒したのは、『日本外史』に表されている思想だけでなく、親子の強い情愛にもあったのかもしれない。

ところで、柿園を号した利兵衛が山陽と親交を深めたことが岡田家の血となったのであろう。ひ孫が俳諧博物館である柿衛(かきもり)文庫を創設した。芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の短冊など、現在、俳諧資料7500点と書籍3500点を所蔵している。同文庫は旧岡田家住宅の北隣にあるが、改修工事中で見学できなかった。


すでに述べたように、剣菱は灘に移ったが、山陽の石碑の約30メートル北に小西酒造の本社建物と酒蔵がある。小西酒造は1550年創業。山陽が長崎で出合った「男山」は小西酒造が造った酒だ。江戸時代、関白であった近衛家のご用達だったといい、現在も「摂州男山」の銘柄で販売されている。小西酒造の売店で吟醸酒を買い求め、帰途についた。