連載コラム・日本の島できごと事典 その104《玉置半右衛門》渡辺幸重

玉置半右衛門(ウィキペディアより)

玉置(たまおき)半右衛門(1838―1910)は、鳥島(伊豆諸島)のアホウドリを捕獲して羽毛布団を生産し、巨万の富を築いたことで知られる八丈島出身の実業家です。大東諸島の開拓にも携わりました。「南洋事業の模範家」と称賛され、「裸一貫で日本の実業界に君臨した」と言われますが、アホウドリを絶滅に導いたり、労働者を搾取したりするなど負の側面も指摘されています。

玉置は、八丈島の代官の家に生まれ、若い頃江戸や横浜で大工の仕事をしたあと、江戸幕府と明治政府の小笠原開拓事業に参加したこともありました。その後、八丈島で東京と結ぶ回漕業で財をなし、1888(明治21)年には牧畜開拓の名目で明治政府から鳥島の借地権の許可を得ました。鳥島に上陸した玉置は1年間に10数万羽とも30万羽分を超えるとも言われるほど大量のアホウドリを撲殺し、その羽毛を横浜のウインクレル商会などに売りさばきました。糞は肥料として本土に搬出しました。アホウドリは羽毛や肉、卵や糞まで余すことなく資源とされたのです。大正時代に捕獲が禁止されるまでに約1,000万羽が乱獲されたという推定もあります。
玉置が東京府に提出した開拓許可の請願書では鳥島開拓によって定期航路を開けば漂流民の救済にもなるとされていました。しかし、実際には道路も港湾も建設されないままでした。また、労働者に給料を払わなかったため一揆騒動が発生したこともあったようです。玉置がアホウドリに目を付けたのは、横浜で大工をやっていた頃に羽毛布団が欧米人に愛用されることを知ったからと言われます。
1902(同35)年には鳥島で中央火口丘が吹き飛ぶほどの大噴火があり、全住民125人が亡くなる大惨事となりました。“アホウドリの崇り”と恐れられたということですが、日本における噴火予知のための火山観測のきっかけにもなっています。国は1906(同39)年にアホウドリを保護鳥に指定し、仕事を失った住民が退去して鳥島は1922(大正11)年に無人島に戻りました。アホウドリの乱獲は終わったもののその数は激減し、第二次世界大戦後は絶滅したと思われていました。1951(昭和26)年に鳥島で10羽あまりの生息が確認され、その後保護活動が続けられています。

玉置は鳥島で得た資産を元手に1900(明治33)年に当時無人島だった大東諸島・南大東島の開拓を始めました。サトウキビを栽培し、精糖事業を軌道に乗せたのです。玉置が起こした玉置商会は島に病院や学校、トロッコ鉄道、防風林まで整備し、使用人として警察官(請願警察官)まで雇い、島の社会を支配しました。島内では「大東島紙幣(玉置紙幣)」と呼ばれる商品引換券が紙幣の代わりに流通しました。
玉置は1910(同43)年、鳥島に渡った帰りの船中で発病し、東京で73歳で亡くなりました。南大東島の開発当初、30年後に土地を入植者に与えるとした約束は玉置の死と共に反故にされました。その後、玉置商会の経営は傾き始め、6年後には神戸の東洋製糖に事業と島の支配権が売却されています。