百鬼夜行夜話 015「祟りの時代 平安京」片山通夫

風水都市京都 
―桓武天皇が恐れたもの―
奈良時代末期、政争が続き、あたかもその犠牲となった者たちの祟りでもあるかのように、天災が相次いだ。そんな中で即位した桓武天皇は、すべてを一新してやり直すために、新都の建設を決める。その都は、今の京都の南西に位置する長岡京だった。

 桓武天皇が即位したのが天応元(781)年。すぐに新都建設が始まり、延暦3(784)年には平城京から長岡京に都が移される。東西4.3キロ、南北5.3キロ、後の平安京に匹敵する規模を誇ったこの都は、西山と北山を背後に背負い、前面に淀川と合流して大阪湾に注ぐ桂川、宇治川、木津川が流れ、西は大山崎の隘路が天然の城門となっていた。

桓武天皇は、唐の文化を積極的に取り入れたことで知られ、自身も風水の知識に通じていたとされる。平安京は、その桓武天皇が風水の粋を凝らして建設させた都として知られるが、じつは、その前に長岡京で、すでに一つの風水都市が完成を見ていた。ところが、その風水テクノロジーを縦横に駆使して造られたはずの長岡京は、創建からわずか10年で捨てられてしまう。それは、桓武天皇の同母弟である早良親王の祟りのためだった。

先代の光仁天皇が桓武天皇に譲位する際、当時、東大寺で仏門にあった早良親王を皇太子とすることが条件とされた。天智天皇の子大友皇子と、天智天皇の弟大海人皇子(天武天皇)が皇位をかけて戦った壬申の乱の二の舞を踏ませまいとしたためで。桓武天皇は、それを受け入れた。だが、後に、妃である乙牟漏との間の安殿親王に位を継がせたいと思うようになる。

長岡京遷都の翌年、 延暦4(785)年8月に、桓武天皇の腹心であり、長岡京造営の責任者であった藤原種継の暗殺事件が起こる。すると、桓武天皇は、その首謀者をすでにその一ヶ月前に死亡していた大伴家持と決め付ける。さらに、早良親王もこれに連座していたとして、その10月、乙訓寺に早良親王を幽閉してしまう。その裏には、我が子に皇位を継がせたいという思いと同時に藤原と大伴の権力争いが絡んでいたとされる。

乙訓寺に幽閉された早良親王は、供御を断ち、幽閉されてから18日目に、淡路島へ流される途中、山崎の地で亡くなってしまう。その直後から、桓武天皇は実弟の亡霊に悩まされるようになり、長岡京は、洪水や疫病が続くことになる。

延暦7(788)年には桓武天皇の夫人旅子が亡くなる。その翌年には母高野新笠、さらにその翌年には皇后乙牟漏と愛妃が亡くなる。身の回りに続いた不幸に、桓武天皇はたまりかね、ついに壮大な規模を誇った長岡京を創建からわずか10年捨てて、新しい都に遷都することを決める。それが屈指の風水都市、平安京だった。

延暦13(794)年、平安京遷都。だが、それだけでは、早良親王の怨霊からは逃げられなかった。再び都で疫病が流行り、多くの人が死ぬと、桓武天皇は、勅使を淡路に遣わして、そこに葬られた早良親王の遺骨を迎えることにする。ところが、その使いの一行は、二度も海難に遭って、いずれも全滅してしまう。ようやく三度目で無事に遺骨を迎え入れると、早良親王に崇道天皇と追謚して、その魂を鎮めた。

そんな背景を持って創建された平安京は、当然、異常ともいえるほど入念な風水的仕掛けが施された街となった。そして、その「肝」ともいえるのが、早良親王の怨霊を封じ込めるための仕掛けといえる。この項の最初に掲げた図は、御所を基点にその北側のポイントをクローズアップしたものだ。

風水都市京都 ―桓武天皇が恐れたもの―