宿場町シリーズ《有馬街道、小浜宿》文、写真 井上脩身

歌劇の町の酒造りの村 ~種痘免許を持つ医師がいた~

除痘館が山中良和に発行した種痘医免許証(ウィキペディアより)

手塚治虫が『陽だまりの樹』をかきだして40年になると何かの記事でみて、この連載漫画をよんでみた。幕末の動乱に巻きこまれながら、種痘の普及につとめた医師、手塚良庵の物語だ。良庵は緒方洪庵の適塾に学んだという。適塾のホームページを開いてみて、適塾が運営する除痘館が摂津・小浜村の山中良和に種痘医免許証を出していることを知った。小浜は現在の宝塚市のほぼ中央に位置し、治虫が5歳のころから住んだ村だ。調べてみると小浜には有馬街道の宿場があり、山中家は宿場内で造り酒屋を営んでいたことがわかった。宿場跡は宝塚大劇場から東に1キロしか離れておらず、治虫も宿場跡を訪ねたにちがいない。歩きながら良仙と山中良和が治虫の頭の中で重なり合ったかもしれない。そんな思いにかられ、小浜宿跡をたずねた。

白濁のない小浜流清酒

手塚治虫『陽だまりの樹』(小学館文庫)の、適塾の塾頭を務めた福沢諭吉の肖像写真をあしらった第4巻の表紙

小浜は15世紀末、一向宗門徒の善秀が毫摂寺を建立、「小浜御坊」と呼ばれ、ここを中心に寺内町が形づくられた。やがて大坂から伊丹を経て有馬温泉に向かう行路としての宿場が誕生。秀吉や秀次も湯治に向かう途中、立ち寄ったという。秀次が毫摂寺の娘を側室にしたことから、秀次が失脚した際、焼き打ちにあう。しかし、小浜は有馬街道だけでなく、京伏見街道、西宮街道の起点でもあるという交通の要衝であるうえ、武庫川にも近いことから江戸幕府も重視。脇本陣、旅籠、木賃宿などが建ち、商家が軒を並べることになった。嘉永4(1851)年の記録では戸数は202戸、人口800人。専業農家はほとんどなかったという。
小浜内には、秀吉に同行した千利休が茶をたてて秀吉に献上したと伝えられる名水「玉の井」がある。摂津・鴻池村(伊丹市)で酒造業を起こした山中幸元の長男、清直が慶長19(1614)年に分家し、小浜で酒造業をはじめた。
山中幸元は、戦国武将、尼子氏に仕え、数々の武勇伝を残した山中幸盛(鹿助)の次男。鴻池新六と名乗った。それまで酒といえば濁り酒が一般的であったが、「伊丹流」と呼ばれる澄み酒を開発、清酒の元祖といわれた。

名水がわきでた玉の井

清直は玉の井を使えば鴻池とは一味ちがう酒が造れるのでは、と考えたのであろう。「はなふり(花降り)なきなり」と記録されていることから、さらに白濁のない酒に改良、「小浜流」と呼ばれた。
丹波から伊丹や灘に向かう出稼ぎ杜氏たちは有馬街道を南進し、小浜宿を通っただろう。道中、「行けば行き當(あた)る小浜の菊屋」「半期奉公がしたいと云うたが今の菊屋はいやでする」と唄ったという。酒造りのプロである杜氏たちは、小浜の酒にどのような評価を下していたのか。今となってはわからない。山中良和が山中家の当主になると、酒造りを廃業したからである。享保15(1730)年、樽廻船の運航が始まり、西宮郷をふくむ灘の酒が江戸に大量に輸送されるようになった。やや内陸部に位置する小浜は太刀打ちできなくなったのであろう。
鴻池が大坂で両替商をはじめて財をなしたのに対し、山中良和が医師を目指すようになった理由は定かでない。適塾の資料には良和は洪庵の妻、八重の弟とある。西岡まさ子著『緒方洪庵の妻』(河出書房新社)をひもといた。残念ながら良和の名はない。そもそも八重は名塩(西宮市)の出身だ。名塩は小浜の6キロ西の有馬街道沿いの和紙づくりの山里である。八重が大坂に向かうとき、小浜宿を通ったはずだ。あるいは良和と知り合う機会があったのかもしれない。八重が「弟みたいな者」と門人に言っていた可能性がないとは言い切れない。
以上は小浜宿と小浜流の酒、それに山中良和についての予備知識と、じゃっかんの私の推測である。『陽だまりの樹』のなかに、手塚治虫がうかべた小浜宿跡のイメージが表されていないか。手塚治虫になった気分で小浜宿を歩いてみたのである。

阪神大震災に遭った旧庄屋

旧和田家住宅(宝塚市立歴史民俗資料館)

阪急清荒神駅から、宝塚市発行の「たからづか文化財さんぽマップ」を手がかりに、住宅が密集するなか、有馬街道と思しき幅4メートルの狭い道を東にすすむ。7分ほど歩くと古い民家に出合う。旧和田家住宅。元米谷村の庄屋跡だ。阪神大震災で半壊、同市が修復して市の有形文化財に指定、1996年から市立歴史民俗資料館として一般に公開されている。
江戸時代中期に建てられたとみられ、妻入り瓦ぶきの落ち着いたたたずまい。白壁がしっとりとした趣をただよわせている。玄関には式台がしつらえられ、庄屋としての威厳を表している。興味深いのは座敷と板の間との間に高低差20センチの敷居があることだ。「納戸構」と呼ばれるもので、文字通り座敷の敷居が他の部屋よりも一段高いことを示している。
家の構造に劣らず貴重なのは、4000点もの古文書が残されていたことだ。なかでも文禄3(1594)年に行われた太閤検地を写した「文禄検地帳」は、この地域でどのように検地が行われたかを知るうえで学問的価値の高い史料だ。
これらの文書は土蔵で保管されていた。土蔵は庭に建てられているが、縁側からすぐに入れる構造になっており、庄屋の主人が常に出入りしていたことをうかがわせる。旧和田家が阪神大震災で被害にあったことから、ふと『陽だまりの樹』のなかの地震の絵が浮かんだ。安政2(1855)年10月2日(太陰暦)に起きた安政江戸地震で江戸市中の家々が倒壊、あちこちから上がる火の手が悪魔のように渦巻いている。そのなかに一棟の土蔵。壁が崩れかかり、その前を住民たちが逃げまどう。江戸直下型のこの地震で4000人から1万人が死んだとされる。
阪神大震災は1995年。手塚治虫は1989年に亡くなっているので同地震は知らない。だが、この漫画の一コマは神戸市長田区での地獄絵そのものである。治虫は良庵の父、手塚良仙が次々にやってくるけが人に忙殺する様子を丹念に描きだした。

酒の元の名手「玉の井」

愛宕宮がたっている北門跡

旧和田家はまだ宿場内ではない。同家の裏手に「いわし坂」と呼ばれる急坂がある。ここが瀬戸内海の浜であったころ、イワシが荷揚げされたとの伝承が名前の由来だ。坂を上がりきったところに宿場の北門があり、そこに愛宕宮の祠がたっている。有馬街道を西から来ると、いわし坂が宿場入り口へのアプロ―チなのだ。『陽だまりの樹』も江戸・小石川の伝通院の裏に「三百坂」と呼ばれる路地があり、松平播磨守の行列が坂にさしかかるところから物語は始まる。家臣の伊武谷万二郎がハーハーと息をはきながら坂を上りきると、手塚良庵という若い医者がニヤニヤわらって見ている。良庵は良仙の息子。良仙が死んだ後、良庵は良仙を襲名する。
手塚治虫の曽祖父は良仙だが、父子のどちらを指すのか手元の資料では定かでない。ややこしいので本稿では息子の方は、良仙襲名後も良庵で通す。
いわし坂から少し進むと、3階建てのレストラン。ここが酒造りを行った所だという。酒蔵をしのぶものは何もない。通りかかった人に尋ねると、「玉の井を見にいきはったらええ」という。100メートル先の小浜宿資料館に井戸があると教えてくれた。
資料館は宝塚市が建てたもので、長屋門がある豪商のような外見だ。宿場の町並みの模型などが展示されている。「玉の井」は同館の庭にあり、今は枯れ井戸。「江戸時代初期にこの井戸の水を使って酒造業を始めた」と傍らの説明板にかかれている。『陽だまりの樹』には造り酒屋は登場しない。しかし、良庵が居酒屋や色町に入り浸り、ぐでんぐでんに酔っぱらう様子は、全編を通じて度重ねて表されている。「曽祖父は酒豪だった」と手塚治虫は聞いていたのだろうか。そうだとしても、その酒は小浜の酒ではなかった。すでに酒造りはやめていたからだ。
山中良和が酒造りよりも医師を選んだことは冒頭に述べた。適塾の資料に「小浜村の医師」とある以上、酒蔵を改造して診察室を設け、宿場住民たちに種痘を施したと推察できるが、小浜宿資料館にも歴史民俗資料館にもそうした史料はない。良和は除痘館で種痘医師として働いたのだろうか。
『陽だまりの樹』には、適塾への入塾が認められて緒方洪庵に挨拶する良庵の緊張した顔が微笑ましく描かれている。そのころ父、良仙は江戸で漢方医らに妨害されながら、種痘所設置を幕府に認めさせる運動に傾注していた。一方、種痘の普及に力を入れていた洪庵は除痘館を設置。良庵は適塾で学ぶだけでなく、除痘館で実地訓練も受けていた。門弟には福沢諭吉ら有能な人材がきら星のようにいて、洪庵の妻八重も顔を出す。すでに触れたように、山中良和が八重の弟分のような存在なら、良庵と良和が顔を合わせることがあったに相違ない。もしそうなら、治虫にとって、良和は単に同じ郷里の人という以上の親近感を抱いたであろう。

首地蔵と大工の病

首から上だけの二体の首地蔵

歴史資料館の向かいに「寶塚・小濱 菊仁」とかかれた行灯が軒から吊るされている民家がたっている。その近くには高札場があり、宿場の南門には「西宮街道 小濱宿」の門柱や常夜灯もある。また格子窓の民家もそこかしこにあり、宝塚市が東西、南北がいずれも500メートル程度の宿場跡を、江戸のたたずまいの街にしようと努めていることがうかがえる。
南門の近くの高台に「首地蔵」と呼ばれる首から上だけの地蔵が二つ並んでいる。御影石製で、高さは1・3メートル。一つは1500年ごろ、もうひとつは昭和になってつくられた。説明板には「土地の人がお堂を建てて首地蔵を安置しようとしたところ、大工が病気で倒れた。代わりの大工に依頼してお堂の建立にかかったが、その大工も病気になった。首地蔵が家に入るのが嫌いなのだろうと、野ざらしのまま祀ることにした」とある。小浜宿は大工の町ともいわれるほど大工が多かったといい、いかにも小浜宿ならではの言い伝えだ。
この伝承で注目されるのは大工が次々に病で倒れたことだ。流行り病だったのかもしれない。『陽だまりの樹』には、コレラが蔓延して江戸の住民が恐怖に陥る様子が綿密に表現されている。良仙、良庵親子は洪庵が著した手引き書を頼りに奮闘するが、決定的な治療法はない。だが「異教徒が放った妖怪の毒気」という迷信を庶民は受け入れ、安藤広重もコロナで死ぬ。「緒方先生? 教えてください? この病のもとは中毒なんですか、臓器が腐ったんですか、医者は……いつになれば治せるようになるんですか?」と天を仰ぐ良庵だ。
コレラで江戸市中では2万8421人が死んだと記録されているが、実際には20万人以上が死んだともいわれ、コロリと死んでしまうことから「コロリ」と恐れられた。そして従来の漢方医が全く無力であることを幕閣もようやく納得、蘭方医が認められる大きなきっかけにもなった。コレラはペリー来航の際に持ち込まれたとも伝えられているが、徳川体制が崩れていく一因であったことは紛れもない。
私が小浜宿を訪ねあるいているころ、新型コロナウイルスが蔓延、兵庫県ではイギリス型変異ウイルスも加わり、感染が急拡大していた。コロリとコロナ。言葉が似ているのは単なる偶然だが、ふと時代が大きく変わるのではないかという思いにかられた。
山中良和が酒造りでなく医師を志したのは、時代が変わるとよんだからかもしれない。小浜を含む宝塚は後に大きく変わる。大正から昭和にかけて、歌劇の町として全国に知れわたるようになるのだ。そして今、「小浜宿も忘れないで」と言わんばかりに、江戸の風情をとり戻そうとしている。