連載コラム・日本の島できごと事典 その28《要塞地帯法》渡辺幸重

図版:対馬要塞配置状況(太平洋戦争の本土決戦期)

最近の日本社会は、尖閣諸島・台湾海峡問題で中国、ミサイル発射問題で北朝鮮の脅威を喧伝するあまり、海洋に散らばる島々の多くを“国境離島”に指定して国土防衛の拠点とみる傾向が強まっています。第二次世界大戦でもそうでした。
1899(明治32)年に要塞地帯法が公布され、函館要塞(津軽要塞)・東京湾要塞・父島要塞・舞鶴要塞・下関要塞・壱岐要塞・対馬要塞・長崎要塞・奄美大島要塞など全国各地に要塞地帯が指定され、砲台設置工事が始まりました。島々には数多くの砲台が設置され、重砲兵連隊などの軍隊が配備されました。国境の島・対馬では法律制定以前の1886年に明治政府が陸軍対馬警備隊を置き、翌年には対馬要塞の建設が始まりました。昭和期まで島内各所および周辺の島々に多くの砲台が築かれ、要塞地帯法により戦後まで立ち入りの自由が制限されました。測量や撮影、摸写、録取が禁じられ、風景を描くこともできなかったそうです。太平洋戦時の対馬の地図には島内31ヶ所に砲台が書かれています。まさに“要塞の島”です。近くには壱岐要塞があり、両要塞で対馬海峡全体を封鎖できるようになっていました。
要塞地帯法ができても計画通り要塞構築が進んだわけではありません。奄美大島要塞は1921年に着工されましたが、翌年に日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの5ヶ国が締結したワシントン海軍軍縮条約の要塞化禁止条項によって工事は中止されました。日本領の千島諸島・小笠原諸島・奄美大島・琉球諸島・台湾・澎湖諸島、アメリカ領のフィリピン・グアム・サモア・アリューシャン諸島などの要塞化が禁止されたのです。軍縮の結果、琉球弧(南西諸島)は非武装地帯になりました。対馬や壱岐は禁止の対象にはならず、壱岐要塞の的山大島砲台には軍縮の対象になった戦艦「鹿島」の主砲塔が、黒崎砲台には戦艦「赤城」の主砲塔が設置されました。しかし、日本が1933年 に国際連盟を脱退し、翌年にはワシントン海軍軍縮条約破棄を通告、さらに日中戦争が勃発すると奄美大島は一気に軍備が増強され、さらに沖縄島の中城湾臨時要塞、宮古島の狩俣臨時要塞、西表島の船浮臨時要塞が構築されました。朝鮮半島から台湾までの軍事要塞化が完成したのです。
現在、当時と同じような琉球弧での軍備拡張が続いています。与那国島・石垣島・宮古島・奄美大島・馬毛島に自衛隊基地を建設する計画が進行しており、石垣島・宮古島・奄美大島には砲台ならぬミサイル基地が置かれるとのことです。対馬から九州島・琉球弧をつなぐ要塞ネックレスです。戦前の要塞地帯法や軍機保護法と同じような「重要土地調査規制法」も今年6月に国会で成立しました。戦前でさえ一時期ながら軍縮で非武装化が実現しました。いまこそ外交努力で日本を平和な島の国にするべきです。