宿場町シリーズ《西国街道・芥川宿 下》文・写真 井上脩身

脇本陣に代わる大商家

「一里塚三宝大荒神」の祠

7人の公卿、公家は痛い足を引きずりながら宿場内を進んでいく。彼らはどこに宿泊したのであろうか。
享保19(1734)年の「芥川宿絵図」によると、一里塚―芥川橋間の街道の両側に157戸が軒を並べていた。一里塚はすでに述べたように、宿場のほぼ中央に位置しており、ここから芥川橋までの距離は約400メートルとそう長くはない。商家がぎっしり並んでいたことがうかがえる。天保14(1843)年の「宿村大概帳」には人別1150、家数253と記録されており、7人が宿場に足を踏み入れたとき、戸数は250前後であったであろう。
「芥川宿絵図」によると、本陣は中之町の河内屋吉兵衛邸の1軒。脇本陣はなく「ふじ屋」「かがや」などの7軒の大旅籠のほか中旅籠が11軒、小旅籠が15あった。大小合わせてこれら33軒のほか木賃宿がひしめいていたとみられることから、どちらかといえば庶民の宿場町だったといえるだろう。
7人は19日の夕刻に芥川宿に着いた。雨の中を隠れるように未明から逃避行をはじめた一行である。疲れ果てていた。公卿である三条や三条西は、本来なら本陣に泊まる身分であろう。しかし、幕府に逆らって逃げている一行である。本陣に泊まれるはずはなかった。あちこちの旅籠で押し問答をしたあげく、夜の10時ごろになってようやく20数軒の落ちつき先が決まったと言い伝えられている。
明治になって、東久世が芥川の旧家に贈った扁額(写真)が残っている。「往事如夢」と書かれている。疲労困憊のうえ、一向に宿が決まらず不安だけがつのる芥川の夜は、京の公卿や公家には悪夢であったであろう。
一里塚はJR高槻駅すぐ西の、アーケードのある約200メートルの商店街を抜けて、旧道と交差するところにある。その道路脇に「一里塚三宝大荒神」という祠が建っている。「芥川宿絵図」にはエノキの木のある一里塚が描かれている。おそらく明治になって一里塚の必要性がなくなり、荒廃したのであろう。そばの説明板によると、大正15(1926)年に祠が建てられたという。
この一里塚のそばに本陣があり、問屋場は塚の西にあったといい、この辺りが宿場の中心地であった。一行はこの一里塚から芥川橋の間の旅籠や商家に分宿したのであろう。
現在、格子窓やウダツがある白壁の古い民家が数軒あり、昔ながらのたたずまいをかすかに漂わせている。だが、宿場がにぎわっていたころの商家という風情ではない。当時の面影をしのぶものはないか、と探してみると、高槻城址公園に江戸時代の商家が移築保存されていることを知った。
高槻城は芥川宿から2キロ南に位置しており、江戸時代、城下町と宿場が一体となって高槻の街並みを構成していた。江戸中期、その高槻城下に笹井家(写真)という乾物を扱う商家があった。丸太を合掌に組んだ妻入り瓦葺き平屋建ての店構えで、面積は245平方メートル。高槻市は「旧笹井家住宅」として市の文化財に指定、市立歴史民俗資料館として一般公開している。
芥川宿の商家も笹井家のような構造だったと思われる。私は旧笹井家住宅のどっしりとした屋根を見ながら、三条ら7人に思いをはせた。7人の公卿、公家はおそらく笹井家のような脇本陣に匹敵する大きな商家に泊まったのであろう。

芥川橋の虚無僧仇討ち

翌朝、宿を出た三条実美ら7人は、宿場の街道を西に向かい、ほどなく芥川橋にさしかかった。
芥川は幅約50メートル。芥川は北摂の山々をぬって大阪平野に入り、淀川に注ぎこむ中級河川。私は子どものころ、学校にプールがなかったので、芥川で泳いだものだ。芥川橋から北に約1キロの堤防は桜並木になっており、家族で花見をしたこともある。桜が散ると、現在は川の上に千匹ものこいのぼりがつるされ、市民の目を楽しませている。5年前、私が入っていた写真クラブの撮影会がこの河川敷で行われた。春風におよぐこいのぼりにカメラを向けたのも懐かしい。
芥川橋に立って、ゆるゆると流れる川を見ていて、私は走馬灯のように脳裏に映る思い出にひたった。もちろん7人にそのような余裕があるはずはない。淀川に出る舟に乗ることもできず、重い足をひきずるようにとろとろと橋をわたったであろう。
この芥川橋あたりがもう一つの仇討ちの現場(写真)である。『続近世畸人伝』などに記載されており、こちらの方は史実とされている。本稿では「虚無僧仇討事件」と呼んでおこう。その概要は以下の通りである。
寛文8(1668)年3月20日、江戸赤坂田町の旅館で、石見吉永1万石加藤氏家中の松下源右衛門が、同家中の浪人、早川八之丞に惨殺された。源右衛門の12歳の息子助三郎は麻疹にかかっていて、父親が討たれる物音を聞きながら、起き上がることもできずただ涙を流していただけだった。やがて麻疹が平癒した助三郎は、八之丞をよく知る中田平右衛門に預けられて剣術修業をし、父の1周忌の日、仇討ちの旅に出た。
それから3年がたった寛文11年の8月末ころ、河内国枚方の宿で、虚無僧が中間風情の者とけんかをしているところに、平右衛門の家来の伊助が出くわした。伊助は虚無僧の風貌に感じるところがあり、いったん京にもどって平右衛門に連絡。助三郎ともども3人で枚方にとって返したところ、虚無僧は淀川を渡って高槻に向かったことが判明。9月7日、高槻の城下で、虚無僧が芥川宿に泊まっていることを聞きだした。
翌朝、助三郎は鎖帷子に身を包み、吉光の大刀をたばさんで平右衛門らと、宿を出た虚無僧の後を追った。虚無僧は川を渡って南に五百住(よすみ)道を下った。平右衛門が「覚えがあろう」と声をかけ、八之丞が身構えたととき、助三郎が名のって右腕を切りつけた。八之丞が手裏剣を取り出そうと懐に手をやったところ、平右衛門がその手を打ちおとし、えりをつかんで引きたおす。助三郎がとどめをさした。
『摂州芥川之駅薦僧之敵討実録』では、旅宿「井筒屋」を出たところで名のり、芥川宿の雑踏のなかを切り結びながら西にはしって五百住道に出た、としている。「芥川仇討の辻」の解説板が宿場のほぼ中央に建てられているのは、実録の宿場内切り合い説を採用したのであろう。「虚無僧に身をやつし、尺八で門付けする敵が当芥川宿の旅籠に入るのをついに見届けた。初秋のもう肌寒い夜明け、敵が宿を立ち去るところ、この辻で助三郎少年は声高々と名乗りをあげて躍りかかり、不倶戴天の敵を討ち取りめでたく本懐をとげた」と、講談調で事件を表現している。
解説文に「この辻」とあるのは、山崎通と高槻城下からの道との三差路になっていることを指している。辻のすぐそばに一里塚があり、そこは一番の繁華街であった。夜明けとはいえ、周囲に騒ぎが聞こえないはずがなく、語り草になって言い伝えられたはずだ。人通りのある宿場内で切り合えば、敵に逃げられるおそれがあろう。逃げようのないところまで後をつけるのが常識的ではないか。実録の描写は面白いがムリがあるように思う。

久坂玄瑞と七卿の本懐

さて芥川宿を出た7人の公卿、公家である。その日(8月20日)、西宮の本陣に泊まり、21日、兵庫に到着。楠正成の墓に参り、その夜、3隻に分かれて乗船。長州藩兵も含めると20隻400人の大船団だったという。22日に出航し、27日までに7人は長州・三田尻港に入港した。
一方、京坂地区に残留した長州の尊攘派では、失地回復を図るため京都に乗り込もうという進発論が盛んになった。その急先鋒は来島又兵衛、久坂玄瑞(写真)ら。桂小五郎は慎重派であった。
元治元年7月、久坂らを中心とする長州藩兵が伏見、嵯峨、山崎に集結。幕府側の藩兵も対抗するために集まり、7月19日、京都市中で交戦。なかでも会津、桑名、薩摩藩兵との蛤御門での戦いが激しく、長州藩兵は次々に戦死。久坂も25歳の若さで命を落とした。
慶応元(1865)年2月13日、7人のうち三条実美ら5人は大宰府に移され、事実上幽閉の身となる。同3年、大政奉還が成立し、12月8日、5人の赦免と復位が認められた。5人は長州を経て上洛、三条は副総裁として新政府のトップ級に躍り出る。戊辰戦争が起きると三条は関東観察使として江戸におもむく。
会津戦争で官軍が会津藩を打ち破ったとの報に接したとき、三条は久坂に思いをはせたかもしれない。久坂は吉田松陰門下第一の秀才といわれ、生きていれば明治維新における王政復古の思想的支柱になったはずだ。三条実美は「久坂の仇討ちができた」と本懐をとげる思いだったに相違ない。 (完)